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12:道標

 彼が勤めるレストランは貴族のタウンハウスが並ぶ上層街にほど近い場所にある。王宮の厨房でも腕をふるっていた経験豊富な料理長を筆頭に作り上げる食事に、気品ある絢爛な装いの店内、礼儀と気配りが行き届いた店員達、高名な演者による音楽が揃った店の評判は広く知れ渡り、国内の貴族や富裕層のみならず、仕事や旅行で訪れている国外の上流階級の人々もこぞって来店してくるほどの人気を誇る。

 そんな一流の店で働けることになったのは、ごく普通の平民出である彼にとって、人生で一番の幸運であった。彼はこの幸運に心から感謝をして、毎日誠実に働いた。最初は給仕係として懸命に礼儀作法を学び、やがて仕事をそつなくこなせるようになると、その勤勉ぶりと見目の良さを買われて案内係に任命された。案内係は店の扉の前に立ち、来客を店内に案内して馬車を誘導する他、真っ先に来客をもてなして第一印象を与える、店の顔となる重要な役割を担っている。彼は店の品位を損なわぬよう、ここでも日々真面目に仕事に打ち込んだ。


(今日はアースメル伯爵のご予約が入っている……緊張してきた)


 勤続して五年、たくさんの高貴な客を迎えてきてそれなりに耐性はできてきたが、今夜訪れる予定のアースメル伯爵は他とは格が違う。ウィリアム・バクスターという名前のその人物はバクスター侯爵家の次男でありながら、数々の輝かしい戦績を上げ、ミズガルド第一騎士団団長に就任し、アースメル伯爵位を賜っている。清廉潔白な人柄で人望も厚く、まさに救国の英雄の名にふさわしい人物で、憧れるなというのが無理な話である。


(二名でのご予約ということは、どこかのご令嬢といらっしゃるのだろうか)


 アースメル伯爵はすでに子供がいても不思議ではない年齢だが、浮いた話が一つもないこともまた、有名だった。一生を国に捧げているのだとか、許されない恋をしているのだとか、男が好きなのだとかと様々な推測が噂されているが、真相は誰も知らない。もし今夜アースメル伯爵が女性を連れていたら、店内の貴族達によって瞬く間に社交界に話が広がるに違いない。そんな歴史的瞬間を自分が最初に目にしてしまうかもしれないという緊張に体を強張らせた時、馬車の音が聞こえてきて、彼はハッと視線を動かした。

 黒塗りの四頭立て、そして車体に描かれている家紋は――(アースメル伯爵!)

 店の正面に馬車が止まり、少し間を置いて扉が開く。彼はすかさず頭を下げた。大きな気配が下りてくる。続いて、気配がもう一つ。二つの気配が並び立ったことを感じ取り、彼はゆっくりと顔を上げた。


「……」


 ようこそいらっしゃいました、と挨拶を紡ごうとした口は、その二人を前にした途端言葉を失った。

 一人は予想通りアースメル伯爵である。切れ長の目が印象的な精悍な顔つきに、背中で一つに束ねられた銀髪。高潔な人格に似合う白い正装を纏った体は服の上からでもよくわかるほど厚く頑健で、圧倒的な存在感を放っている。

 もう一人は初めて目にする男である。そのアースメル伯爵の連れは、少年というには落ち着いた佇まいだが、青年というには輪郭の線が幼い曖昧な年頃のように見えた。奥深い赤色の瞳、豊富で長い睫毛、すっと通った鼻筋に、形の良い柔らかそうな唇――美の神が現れたのかと見紛うほどの美貌に、彼は呼吸を忘れて見入った。すらりとした体躯を黒い正装に包んだ男は、これまで彼がこの店で見てきたどの男性よりも、どの女性よりも美しかった。

 逞しい精悍な男と眩いばかりの美貌の男の並びに、彼のみならず、道行くすべての人々の目が奪われていた。誰もが足を止め、目を奪われ、ほぅと恍惚の溜息を漏らす。


「予約をしたバクスターだが」


 アースメル伯爵――ウィリアムの発した一言に、彼はようやく職務を思い出して顔を引き締めた。


「も、申し訳ございません。ようこそいらっしゃいました、アースメル伯爵様。どうぞお入りください。中の者がお席までご案内いたします」


 彼が扉を開けると、まずウィリアムが、その背中に続いて連れの男――ルイスが入店した。


「アースメル伯爵様のご到着です」


 中の案内係に声をかける。席に案内しようと前に進み出た同僚が美の急襲に遭って息を吞む様子を見て、その気持ちはよくわかる……と彼は動悸が収まらない胸に手を当てながら小さく頷いた。その日の閉店後、従業員達の話題はもちろん謎の美の神一色になった。



「……団長、やはり俺には無理です」


 ルイスの小声の訴えに、すぐ前を歩くウィリアムが振り向いた。


「なぜだ?」

「俺はこんな所で食事ができる作法を身につけていません」

「それならば心配は不要だ」

(心配しかない!)


 聞く耳持たずなウィリアムの背中を刺し殺す勢いで睨みつけるも、ウィリアムはまったく意に介さず案内係の後をついていく。ルイスはこの店先に到着した時から感じている焦燥を握り潰すように拳に力を込めた。

 どう見ても、一流のレストラン。どう考えても、客層も上流階級。その中に見た目だけ小綺麗にした自分が混ざり込めば、どんな恥をさらすのか火を見るよりも明らかだ。


(帰りたい……こんな場違いな店……)


 こんな店、今すぐにでも飛び出したい。営舎の自室に戻って、ベッドに寝転がりたい。

 願望を思い浮かべていたその時、曲がり角から人影が現れた。反応が遅れ、危うくぶつかりそうになるも、持ち前の反射神経でどうにか衝突を回避する。


「おっと」

「失礼いたしました」

「いや、こちらこそ」


 相手の老齢の紳士は温和な笑みをルイスに向けた。紳士の腕に手を添えている貴婦人も穏やかな表情で若者に微笑みかけたが、不意に二人は揃って表情を変えた。


「あら……」

「君は……失礼だが、この国のご令息だろうか?」

「はい、ミズガルドの者です」


 令息、ではないが、ただの行きずりの会話だ、訂正するまでもないだろうと言及はしなかった。ルイスが答えると、老夫婦はやや怪訝な顔つきで目を見合わせた。


「そうですか。知人に似ていたのでもしやと思ったのですが、人違いでしたな」

「どうぞ素敵な時間をお過ごしくださいね」

「ありがとうございます」


 二人はもう一度ルイスを一瞥してから、その場を立ち去った。

 前を向き直ると、ウィリアムと目が合った。


「……人違いだそうです」

「そのようだな」

「ご案内を続けてもよろしいでしょうか?」

「ああ、頼む」


 案内された部屋は、営舎の自室が四つは入りそうな広さに、十人分の食器が並べられそうな大きなテーブルが一つ、そのテーブルを挟んで向かい合わせに二脚の椅子が揃えられていた。他の客は見当たらない。意外な空間にウィリアムに視線を投げると、彼は事もなげに言った。


「個室にしてもらった。これならば、君も周囲を気にせず食事を楽しめるだろう?」


 ずっと、気に障るやつだと思っていた。こちらの気持ちなどお構いなしで、生真面目な正論ばかり押し付けるやつだと思っていた。けれど、あの日から、彼の温かい思いやりの心を知ってしまって、さりげない優しさに触れるようになってしまった。自分の中のウィリアム・バクスターという男の姿が変わろうとしている。その変化を受け入れるのは、――その先に自分の変化もありそうで、少し怖い。


「君は食べることが好きなようだから食事に誘ったが、見当違いだったらすまない」


 席について向かい合い、ワインが注がれたグラスを片手に持ったウィリアムが言った。お互いの前には瑞々しい葉物と白身の魚、それに紫や黄色の小さな花を緻密に盛りつけた前菜が用意されている。……路地裏で暮らしていた時、空腹に耐えかねて路傍の雑草を食べたことがある。苦くてとても食べられたものではなかったが、腹を壊すようなものでもなかったので飲み込んだ。


「……食べることは好きです」


 フォークで口に運んだ野菜は味付けが施されて美味しかった。路傍の雑草とは、違う。あの日々は遠い昔で、もう俺はあそこにいない。この場所も、この椅子も、この食事も、すべて諦めずに生きて努力した結果で喜ぶべきものなのに、胸の奥で小さく罪悪感が渦巻いているのはなぜだろう。


「口に合わないか?」

「いえ」

「だが気が進まないようだ」

「……」

「何か思うところがあるのか?」


 ウィリアムは淡々とした口調だったが、叱責するような響きではなかった。

 ルイスは正面からウィリアムを見据えた。浅葱色の瞳は鷹揚とルイスの言葉を待っている。誤魔化すことも、隠すこともできたが、その瞳の実直さに当てられて、ルイスは素直にフォークを置いた。


「……俺ばかりがこんな贅沢な食事を食べていいのかと思ってしまうんです」

「君ばかりが、とは」

「昔、一緒に路地裏で暮らしていた仲間は、生き別れになってから行方がしれません。今どんな生活をしているのかわからないし、何を食べているのか、……生きているのかさえも」

「そうか」

「……幼い頃だから顔も覚えてないのに、どうしてか、思い出すんです」

「君にとって、よほど大切な思い出だからなのだろう」


 汚くて、貧しくて、惨めな日々。人によってはそんな過去捨てて忘れてしまえと言うだろう。だが、ウィリアムは、それでも大切な思い出なのだろうと肯定してくれる。――そうだ、苦しくて辛いことが多かったけれど、決してそればかりではなかったのだ。温かい瞬間も、嬉しかった瞬間も、確かにあった。だから忘れられないし、忘れたくないし、思い出してしまう。


「その気持ちを大事にするといい」


 ウィリアムの言葉に思わず涙腺が緩みかけて、ルイスはぐっと堪えた。絶対に泣きたくなかった。代わりに「はい」と短く返事をした。


「だが同時に、君は君自身をも大事にしなくてはならない」

「俺が、俺を?」

「そうだ。君以上に君を大事に扱える者はいない。いくら私や周囲の者が君を大事にしたとしても、君がそれを受け入れなければ意味がないだろう?」

「……」

「君はかつての仲間に罪悪感を抱いている。それは、無理に忘れなくていい。だが、それを君の幸福を拒絶する理由にしてはならない。君が幸せになることは、何の罪にもならないのだから」


 真っ直ぐで迷いのない言葉は、道標のようだった。ずっと心の奥底に痞えていた蟠りが溶けていく。


「……」


 ルイスはフォークを手に取り、葉物と魚を一緒に口に入れた。


「……美味しいです」


 ウィリアムは優しく目を細めた。もぐもぐと動くルイスの頬がたまらなく可愛らしかった。


「もっと食べたければ私の分もあげよう」

「そこまではいいです」

「いいのか?」

「……まだ、たくさん出てくるんでしょう?」


 気恥ずかしそうに期待を口にするルイスに、ウィリアムの心臓がぎゅうっと収縮した。騙し討ちのようになってしまったが、今夜ここに誘ってよかったと心から思った。


「もし食事の作法に不安があるのなら、私の真似をするといい。これでも貴族の端くれだ、手本くらいにはなるだろう」

(侯爵家の出で伯爵位も持ってる人間が貴族の端くれって何だよ)


 平民のルイスからしてみれば厭味でしかないが、ウィリアムの表情は真剣そのものである。彼としては出自や位など関係なく、戦いを生業としている身を本当に貴族の端くれ程度にしか思っていないのだろう。どこかズレた生真面目さがおかしくて、厭味は不問にしてやることにした。


「その服と同じように、食事の作法も今後必要となる場面があるかもしれない。身に着けておいて損はないはずだ」

「任務の一環ということですか?」

「そうとも言える。騎士として王宮で働く以上、貴族に声をかけられたりパーティーに潜入する可能性もある」

(なるほど……それはあるかも)


 ナイフとフォークを持ち、肩の力を抜いて背筋を伸ばすウィリアムを見て、ルイスも居住まいを正す。


「基本的な作法は知っているようだが」

「本当に基本的なことだけです」

「誰から教わった?」

「第三騎士団所属の同期のアルバートです」

「彼か」


 ウィリアムは僅かに沈黙した。


「……いつ、彼に?」

「南部国境戦を終えて騎士学校に入るまでの間、彼の実家に世話になりました。そこに滞在している間と、それから騎士養成学校に入ってからも、基礎的なことだけは教えてもらいました」

「彼は随分と君に良くしてくれてるのだな」

「そうですね」


 事実だったので、ルイスは即座に頷いた。気が合うとはいえたかだか友人……それも身分が釣り合わない相手のために、アルバートはよく気を回してくれた。戦場ではルイスが荒くれ者に狙われないよう自分の天幕に寝かせたり、戦後も実家に居候させてくれたり、騎士学校ではそれこそルイスの苦手な作法課題の練習に付き合ってくれていた。アルバートは根っからの世話焼き性分なのだ。時々腹立つこともあるが、ルイスのアルバートへの気持ちはおおよそ感謝で占められている。

 前菜が終わる頃合いに、スープが運ばれてきた。


「スープの食し方はわかるか?」

「……音を立てないように、ですか?」

「それと、スプーンは手前から奥へと動かして掬うのだ」

(スプーンの動かし方まで決まりがあるのか……)


 ルイスはウィリアムを見て真似ながら、スープを掬った。所作を頭に叩き込みながらスープを口に流し込む。


「上手だ」


 子供を褒めるような口調が悔しかった。

 そういえば、とルイスは思い出した。春の終わり頃、営舎の食堂でこうしてウィリアムと向かい合って食事をしたことがあった。あの時は強すぎる真っ直ぐな視線と保護者のような言動に苛立ってしかたがなかった。

 けれど、今は不思議と――


(居心地は悪くない……)


 とても、悔しいけれど。

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