9:移ろいの兆し
「会場のご令嬢方の話題はもうルイス一色」
「俺の妹も舞踏会でルイスに会えた!ってわざわざ手紙寄越してきたぜ」
「……」
スプーンで丁寧にスープを口に運ぶアルバートに、ナイフで正確に肉を切り分けていくイヴ――正直、普段の単純で大雑把な言動からイヴが子爵家の息子であることはほとんど忘れているが、唯一、食事の時だけは彼の育ちの良さを思い知る。
品良く音を立てず食器を扱う技術は幼少期からの躾の賜物だ。ルイスもアルバートの協力のもと見苦しくない程度のテーブルマナーは騎士養成学校時代に身につけたが、所詮付け焼き刃にすぎない。舞踏会に必須のダンスにいたっては、最初の一歩が右足からなのか左足からなのかさえわからない。つまるところ、上品な分野は苦手なのだ。ルイスの外見を誉めそやす女性達はそんな欠点を知れば失望して静かに去るだろうから、すぐにでも打ち明けてやりたかったが、以前アルバートにそう零したところ、「お前が平民の時点でそれはわかってるだろうし、むしろ『手取り足取り教えてあげる』と言われるのがオチ」と言われたので黙っている。
「あの夜は特に問題は起きなかったか?」
「……」
アルバートの問いかけに、貴族の男達から侮辱されてなぜかウィリアムが激怒したことが真っ先に思い浮かんだ。……が、ルイスはその記憶を胸に押し込んで隠した。その後のウィリアムとの気恥ずかしいやりとりも思い出したため、いくら友人相手でも打ち明けるのは躊躇われたのだ。
「ハンカチを拾わされただけで、特に問題はなかった」
「あははっ、ハンカチか。可愛い手段を使う勇者がいたんだな」
「でもよぉ、これだけ女に人気だとその婚約者とか恋人からは相当恨まれるんじゃねえか?」
「ま、それは当然だろうな」
アルバートはパンを一口分の大きさに千切って頷いた。
「実際、会場で耳にしたよ。自分の婚約者がルイスを見に騎士団を訪問したから腹立たしいとかって」
「でもそれってルイスは一切悪くないよな?」
「そう。ただルイスの顔面が非常識に整ってるだけでね」
「そんなことで恨まれるとか理不尽だよなぁ」
イヴの言う通り、まったくもって理不尽なのだ。ルイスは零したくなった溜息を冷たい水とともに飲み込んだ。騎士になる以前にも、街中で見かけたルイスに一方的に好意を寄せてきた女性の恋人が、これもまた一方的に敵愾心を燃やして突っかかってきたことが何度かある。大体の場合において相手の男は暴力で解決しようとしてくるので、ルイスも遠慮なく腕力で返り討ちにしてきたが、もしこれが貴族相手になると……同じ対応でいいものだろうか。
(貴族に歯向かえば騎士をクビになるどころか犯罪者になりかねないけど……だからって一方的にやられろっていうのか?対応が面倒だな)
理不尽に理不尽を重ねるような事態を想定すると、食欲が減退したが、ルイスに食事を残すという選択肢はない。浮浪児時代はあまりに幼く記憶があやふやだが、あの凄まじいひもじさは鮮烈に体が覚えている。そして、身を寄せ合っていた仲間が盗んできた一つのパンを分け合って食べたささやかな喜びも。孤児院時代とて、満足いくまで食べられたということはない。
今この瞬間も、どこかで誰かが同じ思いをしているのだろう。こうしてまともに食事ができるありがたみを、ルイスは決して無駄にはできなかった。
「まぁ、なにはともあれ、変なことがなかったならよかったよ」
パンに直接かぶりついていたルイスはアルバートの言葉に一瞬だけ口を止めたが、すぐに平然を装って咀嚼を続けた。
――実をいえば、変なことはある。
もっと正確にいえば、ルイス自身が、あの日から変なのだ。
あの日から、なんだか……。
「ルイス、食事は終わったか?」
(!?)
パンの最後の一欠けらを飲み込んだと同時に、ちょうど脳裏に思い浮かべていた人物の声に話しかけられて、ルイスは思わず咽た。すかさず隣のアルバートがグラスを差し出し、受け取ったその水で喉を落ち着かせる。
「すまない、驚かせるつもりはなかったのだが……大丈夫か?」
「大丈夫です……」
いや、驚くだろ。一般騎士用の食堂にいるはずのない騎士団長に背後から突然話しかけられたら誰だって驚くだろ!……と、言葉とは裏腹に恨みがましい視線を向けても、ウィリアムが意に介している様子は全くない。
朝の混雑時間帯、同僚騎士達のみならず、給仕の使用人達までもが、滅多に食堂に現れないウィリアムの一挙手一投足に注目している。その相手がルイスとなればなおさらで、食堂中の視線に、ルイスは居た堪れなくなった。頼むから一秒でも早くウィリアムにはこの場から立ち去ってほしい。
「何かご用でしょうか」
「君に少し話がある。場所を移動したい」
「……話ならここでも十分できますが」
「業務ではなく個人的な話だ」
(はっ!?)
「なので、できれば場所を変えたいが、君がここで話せというのなら……」
「わかりました!行きましょう!すぐに!」
個人的、という単語にざわついた周囲が全く目に入っていないウィリアムの言葉を、ルイスは勢いよく椅子から立ち上がって遮った。空の食器が乗ったトレーに手をかけると、横からアルバートの手がそれを引き留めた。
「俺が片付けておくから、行ってきなよ」
「……すまない」
「ん」
「団長、行きましょう」
「……ああ」
ウィリアムはアルバートを一瞥してから、踵を返して食堂の出入り口へと歩き出した。ルイスも後を追う。ウィリアムは食堂から少し離れた人気のない廊下の一角で立ち止まった。
「舞踏会についての謝罪の件だが」
ウィリアムはそう切り出した。
そういえば彼が、言葉の代わりに何らかの形で、と言っていたことを今更ながらに思い出す。
「団長、この前も言いましたが、あの件は団長に謝罪してもらう必要はありません」
「いいや。上部の意図も、君が不利益を被ることを理解していながらも、実行したのは私だ。晒すような真似をして、君には本当にすまなかったと思っている。自己満足だと言われればそれまでだが、私は君にしっかりと償いたい」
(相変わらず大げさな……)
だが、ここでまた「見られることには慣れているから平気」と言えば、ウィリアムはあの夜のように悔しそうに眉間に皺を寄せるのだろう――ルイスのことを、本気で思って。
「明日の夜、業務後に時間を取れるか?」
「……はい」
「食事に招待したいのだが、どうだろうか」
(食事……お詫びにおごってくれるってことか。……まあ、それなら)
謝罪があんまり大仰なものだから、詫びも大仰だったら気が引けると心配したが、食事程度なら常識の範囲だろう。常日頃先輩が後輩を街の酒屋に誘って奢ることもあるし、そう身構えるものでもない。それでウィリアムの気が晴れるなら付き合ってもいいかもしれない。
(……なんて)
きっと、数日前の自分では思いもしなかっただろう。
あの夜から、自分はちょっと変なのだ。
「……わかりました」
ルイスが素直に頷くと、ウィリアムの目がパッと輝いた。表情に変化はないが、珍しくわかりやすく喜んでいる……ように見える。
「では明日、支度ができたら私の執務室に来てくれ」
「はい」
そう言い残して立ち去るウィリアムの背中を見送りながら、ルイスは自分の胸に手を当てた。そこには、苛立ちの欠片も見当たらない。ルイスは知ってしまったのだ。
――だが、忘れないでほしい。もしまた君の尊厳が踏み躙られようとした時は、これからは君自身だけではなく、私もともに君の尊厳を守るのだと。
ウィリアムの、ともすれば子ども扱いにもとれる気遣いは、決してルイスを見縊っているのではなく、彼の純粋な優しさなのだ。ただただ、一人の人間として一人の人間を思いやっている、それだけのことなのだと、知ってしまった。
これからも過剰に心配されるのは嫌には違いないが、もう怒りが湧くことはないだろう。
(ああ、ほんとに……変になってしまった)