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伯爵さま、我を忘れる


 エクはすねていた。数日して、すねていることを自覚した。

「ユファ」

「はい」

 寝室でだらしなく寝台に寝そべっていたエクは、上体を起こして、ユファを呼んだ。頼れる従僕はすぐにやってきて、にっこり笑う。こいつにはなんでもお見通しのようだ。

「わたしの婚約者に会いに行く」

「ええ、馬車はいつでも出せますよ」

「レクレウス卿には報せなくていい」

 エクは腹立ち紛れに寝台から飛び降りた。「わたしが会うのは婚約者であって、その家族ではないのだから」

「無作法者の婚約者を持ったと、ミス・レクレウスが蔑まれませんでしょうか」

「なら報せろ。ただしわたしが会うのは婚約者にだけだ。あの無礼な付き添いを同席させたら杖で打ち据えると付け加えておけ」

 エクが自分でもいやになるようなすねた調子でいうと、何故だかユファはころころ笑った。


 ミス・レクレウスは地味なドレスを着てしみのついた手袋をつけ、髪をおろしてヴェールで顔を隠していた。あの付き添いは気にくわないが、それでも一応仕事はしていたのだろう。淑女が自分で髪を結うなど、できる筈もない。わたしはどうしてこう考えなしなんだろうか。

「やあ、ミス・レクレウス」

「ごきげんよう、ズィークラッヘ卿」

 ミス・レクレウスはお辞儀をして、黙った。エクは座るようすすめかけて、頭を振った。この邸の社交室は、妙な匂いがする。空気が悪い。

 エクは立ち上がり、ミス・レクレウスの腕をとった。「少し歩こう」

 彼女は拒否しなかったので、ふたりは外へ出た。


 エクは黙って歩き、ミス・レクレウスも喋らない。レクレウス邸の庭はせまく、ふたりは中庭を何往復かして、あずまやへ落ち着いた。少し距離をとって座り、ミス・レクレウスは顔をわずかに俯けている。

「ミス・レクレウス」

「おっしゃりにくいのでしょうが、気になさらないでください。わたくしは充分よくして戴きました」

「は……」

「婚約破棄のお話でしょう」

 それは何度も彼女の口から出た言葉、何度も繰り返された話題だったが、今度ほどエクを打ちのめしたことはなかった。

 エクは椅子から滑り落ちるように膝をつき、貴族男性、それも爵位持ちとしては情けない程の涙をこぼして、おいおいと泣きはじめた。


「あなたは、どうしてわたしを嫌うのだ」

 エクはハンカチで目許を拭い、乱暴に洟をかんだ。耳がきんと痛む。「そうやって、顔を合わせれば何回かに一遍は、婚約破棄の話をする。わたしと結婚したくないのならば、はじめに断ってくれればよかった。そうしたらこんなみじめな思いは……」

 エクはしゃくりあげ、頭を振る。

「いや、いや、いやだ。断ってくれなくてよかったんだ。わたしは絶対に婚約破棄なんてしない。あなたがいやがろうと、結婚してやる。絶対にだ」

「ズィークラッヘ卿?」ミス・レクレウスの戸惑った声がする。「どうなさいましたの? ……なにをおっしゃっているの?」

「あなたと絶対に結婚するといっている。あなたがいやがろうと、逃がしてはやらない。陛下にとりあげられてもとりかえしに行く。あなたが居ない人生など考えられない」

 そう口にしてしまうと、胸につかえていたなにかが消えてなくなった。そうだ、わたしは彼女に自分の人生から消えてほしくない。できれば、もっと自分に関わってほしい。彼女がどんなひとであっても、わたしは結局彼女を好きになっただろう。

 顔を上げると、ミス・レクレウスが戸惑い顔でこちらを見ていた。いつの間にかヴェールを外し、なににも遮られない状態でエクを見ている。

 エクは泣きじゃくりながら、彼女へ手を伸ばした。安心なことに、彼女は身をのけぞらせて避けたり、いやそうな顔をしたりはせず、涙とはなみずでべちゃべちゃのエクの手をとり、両手で優しく包んでくれた。手袋にあたらしいしみをつけることになったようだ。だが、悪くはない。


「なにをおっしゃっているのか、本当にわかりません」

 ミス・レクレウスは、戸惑ってはいるが、いやがってはいない。それがエクを勇気づけた。

「ミス・レクレウス、わたしの態度ははっきりせず、あなたを混乱させただろう」

「はあ……」

「わたしは、自分の名誉だとか、あなたの名誉だとか、貴族の体面とかであなたと結婚したいのではない。勿論、はじめはそうだったことは、認める。それはかえられない……だが、その後は違う。わたしはあなたと話すのが楽しいし、一緒に居ると落ち着く。あなたと居ると自分が解き放たれるようだ。できたら、あなたにももっと楽しそうにしていてほしいし、もっと喋ってほしいが……」

 子どものような願望まで口にしてしまって、エクは赤面した。「わたしのように男性的な魅力の乏しい人間では、あなたには釣り合わないだろうか」

「そのようなことはございません」

 意外にもミス・レクレウスは即答した。はっとして顔を上げると、彼女は哀しそうな顔をしている。なにか哀しませるようなことをしてしまっただろうか、と、エクは怯える。

「ミス・レクレウス?」

「申し訳ございません。わたくしは、ズィークラッヘ卿のことを嫌っているのではありません」

 エクはひゅっと息を吸いこんで、目をしばたたいた。ミス・レクレウスは目を伏せ、ぎゅっと目を瞑って、なにかおそろしい言葉でも口にするみたいにいう。「ズィークラッヘ卿が、その、男性として魅力がないということも、ありません。少なくともわたくしは、そうは思っていません」

 それは、エクには、衝撃的な言葉だった。今まで、子どもっぽくて田舎くさい自分では、ミス・レクレウスの気にくわないのだと、どこかでそう考えていた。

 自分は爵位こそ立派だが、歳はミス・レクレウスの下だし、社交界でも目立った存在ではない。領地経営に関しても、エクではなく、これまでのご先祖さまと父、そして恋人と出奔する前の兄の手柄である。エクは皆が付けた轍を目印に進んでいるに過ぎない。

 そして、特に容姿が優れている訳でもない。日に焼けてそばかすの散った肌に、ユファに調えてもらっても野放図な金の髪、ありふれたダークグレイの瞳。身長は平均よりも高いが、育ちすぎた子どものような印象を与える体型をしている。乗馬は好きなだけで、ひとよりうまいということもない。わたしには取り得というものがない。


 だが、ミス・レクレウスは、なんの取り得もない自分を、それでも魅力があると評してくれた。それがほんのわずかな魅力であったとしてもいい。

 エクは立ち上がり、それから頭を振って、片膝をついた。「ミス・レクレウス、名誉だの体面だのはどうでもいい。わたしと結婚してほしい。無理だというならわたしはすぐにここを去り、二度とあなたの人生の邪魔をしないと約束する」

「ズィークラッヘ卿、そのようなことをおっしゃらないで……」

「いやだ。わたしのなにを捧げてもいいと思っていると、あなたはどうして理解してくれない?」

 ミス・レクレウスは、寸の間黙って、それから頷いた。

「わかりました。ズィークラッヘ卿のお優しい気持ちは、痛いほど理解しております。ですが、わたくしと結婚することは、あなたさまの為にも、ズィークラッへ家の為にもなりません」

 エクは頭を殴られたような心地がして、涙を流し、洟をすすった。「何故だ? そんなにわたしと結婚したくないのは、どうしてなのだ」

「したくないわけではございません……」

 エクは天にも昇る気持ちになった。彼女は、わたしを嫌っているのではなかったんだ。


 多少、落ち着いたエクは、椅子に座り直した。袖口でめちゃくちゃに顔を拭い、にやにやと笑う。ミス・レクレウスが遠慮がちにさしだしたハンカチをひったくるようにとって、目許を拭った。「ありがとう」

「いえ」

「あなたがズィークラッへ家をどんなおそろしいところと考えているのかわからないが、父は頑固だがわたしの結婚を認めているし、管財人もおそろしくはない」

「あの……そういうことではございません……」

 エクはにこにこして、すんと洟をすすり、話を続けた。

「わたしはフルリオフォルトの、オルニスという都市で育った。中心部はそれなりにひとが住んでいるが、邸がある端のほうだと喧噪もきこえないし、心穏やかに過ごせる。邸はひろく、すぐ近くに馬場があって、好きなだけ乗馬ができるし、農園が沢山あって食べものがおいしい。女性は甘いものを好むそうだが、エレティケッツァーの領地では砂糖をつくっているから、好きなだけ菓子をつくらせよう」

 エクはご機嫌で、笑顔で婚約者を見た。「わたしがどのように暮らしていたか、喋ったことがあったろうか?」

「いえ……」

「それではあなたを不安にさせただろう。すまない。わたしは今年になるまで、首都に来たことはなかった。ずっと、フルリオフォルトですごしていたのだ。体の弱い兄の補佐ができるように、勉強をして、鍛錬をして、乗馬をして……父とは年に一回も会わなかったけれど、手紙をやりとりしていた。母が亡くなってからは、手紙の数が増えた。父からは、領主とは領民の為にあるのだと教わった。領民が領主の為にあるのではないと。領民は赤ん坊と同じで、領主が食事に気を配り、着ているものに気を配り、病にならないか、怪我をしていないか気を配り、きちんと勉強しているか気を配り、そんなふうにして導いていくものなのだと。雨が降れば傘を差し掛け、腹をすかしていれば食事をさせ、泣いていたらなぐさめる。そういう心持ちで居るのが領主というものだと、そう教わった。父は今、隠居して、趣味の執筆をしている。兄がかけおちをしてわたしが跡をとることになってしまって、困っていたのだが、あなたとこうやっていられるのだから兄には感謝しなくては」

 エクは頷いて、婚約者の華奢な手をとる。

「わたしもズィークラッへ家も、あなたを傷付けるようなことはしないと誓おう。心配ならば、きちんと宣誓してもいい。それで安心してくれないだろうか?」

「……ズィークラッヘ卿」

 ミス・レクレウスの声は、とても沈んでいた。エクは笑みをひっこめる。

 婚約者の顔は、まったくもって嬉しそうではない。

「では、わたくしの噂を聴いていなかったのですね」


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