もどかしい
エクは婚約者と、それから何度も散歩に行き、手袋やハンカチを贈り、ユファに命じてドレスをあつらえさせた。パーティには連名で呼ばれるようになったし、ミス・レクレウスは大人しくエクについてくる。まともなドレスと手袋を身に着けていれば、真珠は浮き上がって見えはしなかった。
イリス卿に祝いをいわれ、握手をした時は、エクは複雑な心境だった。イリス卿に恩を売るつもりはなかったのだが、結果的にそういう格好になってしまったからだ。それに、イリス卿がミス・レクレウスを見る目付きが気にくわない。それをいうなら、ほかの貴族達も気にくわないのだが。
何故か、ミス・レクレウスは、悪い評判があるらしい。隣国の大使とのことだが、それが事実だったとは思えないので、なにか行き違いがあり、誤解がひろまってしまったのだろう。彼女はエクに触れようともしないし、目配せしてきたり、なにかをほのめかしたりもしない。一緒に歩いて、お茶を飲むだけだ。
単に、わたしに男性的な魅力がないという可能性もあるが。
そのことを考えると、エクは度々、消えてなくなりたくなる。領地で勉強と鍛錬ばかりしていた所為で、女性の扱いなど知らない。ユファにいわれたとおり、紳士的に接し、下品なことをいわず、身綺麗にしているしかない。それで満足しない女性はやめておいたほうがいいとユファはいうが、満足しているかしていないかわからない女性はどうしたらいいのだろう?
婚約を父が認めたと報せがあり、エクはほっとしていた。
その日も、エクは婚約者と散歩をしていた。ミス・レクレウスはしゃれた外套を羽織り、その胸許には真珠が揺れている。
雲が湧いてきて、日が陰り、彼女がつまずいた。エクはさっと、彼女が転ばないように支え、まっすぐ立たせた。「大丈夫かい」
「はい」
「そのヴェールは、くらい時には危ないのでは?」
彼女は黙って、エクに顔を向けている。エクは返答がなくて痺れを切らし、ヴェールに手をかけた。彼女は動かない。
そっとヴェールをめくる。ひさしぶりにしっかりと見た彼女の顔は、記憶にあるよりも美しいように見えた。澄んだ瞳がエクを見ている。若葉のような緑だ。
エクはいう。
「父が、あなたとの婚約を認めたと、報せがあった。もう話したかな」
「先程、うかがいました」
ミス・レクレウスの目が伏せられた。もっとわたしを見てくれないだろうか、と、エクはもどかしく思う。
「ですが、この婚約は形式的なものでしょう」
「どうしてだ?」
「あなたさまがはじをかかないように」
その言葉がなにか、エクの胸を抉った。わたしは保身で動いていると思われている!
最初は名誉の為だったかもしれないが、今は違う。エクは、結婚するのならミス・レクレウスしか居ないとまで考えるようになっていた。彼女のどこがいいということではない。一緒に居て負担がないし、安心できる。夫婦になるのなら、それが一番だろう。
それに、彼女を愛している。
エクはその気持ちを伝えたかったが、言葉が出てこず、彼女を抱き寄せて唇を重ねた。彼女は一瞬体を強張らせたが、それだけだ。エクを押し退けるようなことはしない。拒絶はされなかった、と安堵したが、単にこわくてなにもできないだけかもしれない。
エクは彼女から離れ、顔を背けた。初めての口付けは、安堵するものでも喜びを感じるものでもなく、苦い後悔を胸に残した。女性の了承もなく無礼な行いをした、という罪の意識だ。
「すまない、幾ら婚約しているといえ、突然……」
しっかり謝ろうとミス・レクレウスを見る。軽蔑や嫌悪を見てとったらどうしようと怯えていたエクが見たのは、不思議そうに首を傾げている彼女だった。
ミス・レクレウスの気持ちがよくわからない。
エクとの婚約を破棄したがっているようだが、口付けても逃げず、抵抗もなく、その後文句もいわない。
もやもやとした気持ちのまま、数日が過ぎて、前々からの予定どおり、エクとミス・レクレウスは、馬車に揺られていた。首都に一番近い領地へ行って、数日すごそうと決めていたのだ。今更かえられない。
決めた時には、彼女が田舎暮らしをやっていけるか見る機会になると考えていた。だが今は、気詰まりだ。あのような狼藉を働いた男と、部屋は別にするといえ数日同じ邸で過ごすのである。こわがっているだろう。
しかし、同じ馬車にのっても、ミス・レクレウスは平然としている。ぴんと背筋を伸ばし、膝の上で手を重ね、じっとしている。彼女のことを理解できそうにない、と、また、エクは思う。
邸は綺麗に手入れされ、なんの不備もなかった。食糧はたっぷり、マットレスはふかふかだ。
エクはしかし、きまずくて、ほとんどミス・レクレウスとすごすことはなかった。食事はともにするが、日中は理由を付けて邸を離れている。馬にのってしなくてもいい視察をし、どうやら今年は大麦が豊作らしいと知った。
ミス・レクレウスは、ユファの用意した付き添いの婦人と、読書と刺繍をしてすごしたようだ。例の無礼な付き添いは、ついてこなくていいと申し付けて、追い払っている。
ユファの用意した付き添いの婦人は、善良で人畜無害な準男爵令嬢で、口を開けば尼僧のようなことをいう。ミス・レクレウスに関する悪い噂についても、宣誓してもいいがまったくもって信じていないと断言した。ミス・レクレウスよりも歳は下だが、母鳥が雛の面倒を見るように、ミス・レクレウスのことを親身になって世話してくれた。結婚後も彼女を雇おうとエクは決めた。
一度だけ、一緒に散歩をしたが、それ以外にふたりきりになった時間はない。
七日の滞在を終え、ふたりは首都へ戻る馬車に揺られていた。エクはきまずいながらも、なんとか会話をしようと考えていた。自分の態度がミス・レクレウスにはどう思えるか、ユファにいわれて気付いたのだ。彼女は、自分がないがしろにされたと傷付いているだろう。
実際は、彼女を傷付けないように距離を置いていたが、事実としてエクは彼女を放っていた。土地勘もなく友人も居ない地で、婚約者に放っておかれることがどれだけ心細いか、考えていなかった。
「ミス・レクレウス、楽しかったかな」
「はい。面白い本が沢山ございました」
めずらしく、「はい」以外の言葉が返ってきた。しかも、婚約破棄に関することではない。エクは戸惑う。彼女はないがしろにされたことに怒っているようではない。思っていたのと違う反応に、ほっておいてすまないといいかけた口を閉じる。
「あなたさまは、楽しまれましたか」
「あ、ああ……馬に思いきりのれるのは、楽しかった」
「そうですか」
彼女のほうから質問をしてくるというのは初めてだ。これは大事だぞとエクは身構える。もしかしたらこのまま、彼女から婚約の破棄をいいだすかもしれない。
だが、ミス・レクレウスは、今度もエクの予測を裏切った。
「わたくしは清らかではありませんから、共寝をして戴いてもかまいませんでした」
エクはなにかいおうとして、口をぱくつかせた。清らかではない……とは。
ミス・レクレウスは、こちらを向く。ヴェールで表情ははっきりしないが、少し冷ややかに見える。「女性が清らかでないと聴いたら、男性は喜ぶものではないのですか。いつ、床へ忍び込んでもよいと考えて」
「わたしの母は処女ではないが、わたしは母と寝ようとしたことはない」
どうやら詰られたらしいと判断して、エクは鋭く返した。彼女が自分をけだもののように思っているらしく、それに傷付いて、口調は強くなる。
馬車のなかは静かになった。エクはミス・レクレウスから目を逸らし、小さく鼻を鳴らした。
しばらく車輪のまわる音と、馬車が揺れる音だけが響く。それから、ミス・レクレウスの、やわらかい声がした。
「申し訳ございません。生意気なことを申しました。おゆるしください」
「いや……」
突然怒ったと思えば、突然謝る。彼女はわからない。
エクはゆるすとかもういいとかいおうとしたが、口が動かなかった。ちょっとした皮肉に、あんなに強く返さなくてもよかったと思ったからだ。だが、自分が悪く思われているらしいことにも傷付いていたし、彼女が自分を軽んじているのにも腹がたっていた。だからああいうしかなかったのだ。
もっと上手に喋れたらいいのに、と、エクは悔しくて、下唇を噛む。