婚約
エクは女性を抱えたまま、渡り廊下から裏庭へと出た。馬車があるのは前庭の車寄せだが、下着に男ものの上着をひっかけただけの女性を、灯があって明るい前庭へつれてはいけない。これなら、従僕のユファに相談してから来るのだった。あいつならば知恵が働く。いや、それをしていたら、ご婦人ひとりの純潔が危なかったかもしれない……。「ご婦人、お送りします」
「はあ」
女性は返事のような溜め息のような声を出し、不思議そうにエクを見ている。星明かりと、邸からもれる光で、その表情がよく見えた。
「ご自宅はどちらでしょう」
「ええ……」
やはり、余程こわい思いをしたようだ。女性はぼんやりとして、自分の名前も住んでいる邸もあかさない。もしかして、はじているのだろうか。
「ご婦人」つとめて、優しく聴こえるような声を出す。「大丈夫です。あなたの名誉が傷付かないように尽力しましょう。ブルーリオンの地図ならば頭にいれています。人目を避けて、ご自宅へ」
「まあ!」
悲鳴に、はっとして振り返る。
そこには、この邸の女主人である、老齢のレディ・スピティが居た。寄り添うように、その息子で侯爵の、スピティ卿も立っている。これは、進退窮まったようだ。
「このような……」
大きなソファに腰掛けたレディ・スピティは顔をしかめ、怒りに震えていた。
エクは首をすくめている。傍の椅子には、名前も知らない女性を座らせていた。肌寒いのに、誰も女性に、なにかしらの布製品を持ってこようとはしない。
エクと女性は、レディ・スピティの指示で、社交室に居た。スピティ卿も一緒で、たった今めしつかいが、火事は起こっていないと伝えに来た。スピティ卿もレディも頷いたが、そのめしつかいに、毛布であるとかドレスであるとかを持ってくるようにはいわない。
エクは直立不動で、レディの様子を見ていた。かなりまずいことになっているのはわかったが、王家の覚えもめでたいイリス卿のことは口が裂けてもいえない。自分が泥を被るしかないのだろう。この女性には申し訳ないが……しかし、名誉の為ならば、しようのないこと。
女性は寒そうに手をこすりあわせていた。レディがそれを見、鼻を鳴らしてからエクを見上げる。「ズィークラッヘ卿、あなたはもう少し分別のあるかただと思っていました。今、あなたの叔父さまを呼びに行かせています」
ほら、来た。
エクは首をすくめ、なにか詫びらしいことを口にしようとした。責任はとることになるだろう。しかし、女性の名誉の為ならば仕方がない。
願わくば、この女性がズィークラッへを吹き飛ばせるくらいの権力を持った家の人間でないように。そうだったらわたしは、爵位を継いで最短で家を潰したばか者として、国史に名を連ねることになるだろう。
だが、エクが謝罪らしきことを口にするその前に、女性がはっきりと言葉を発した。
「わたくしが誘いました」
エクは愛馬から思いがけず転がり落ちたことを思い出した。いつも可愛いアグノスだが、あの時に限っては機嫌が悪く、大事な主人のエクを振り落とした。エクは頭を強く打って、数日寝込んだ。医者の話では命の危険もあったそうだ。
その時のように、頭が揺れているような心地がする。
レディがもう一度、鼻を鳴らす。スピティ卿がそっくりな仕種をした。さすが、親子だ。よく見ると顔も似ている。エクはそう思う。
「そんなことだろうと思いました。ミス・レクレウス」
女性はまっすぐ、レディ・スピティを見ている。随分なものいいに対して反論もしないし、言葉を重ねることもない。エクは、そうか、彼女はミス・レクレウスというのか、と考えている。それで、そのミス・レクレウスが、どうしてわたしを庇うようなことを?
もっとおかしいのは、スピティ親子がミス・レクレウスの言葉を信じているらしいことだ。ふたりとも彼女を、実にいとわしそうに見ている。「将来有望な若者になんてことを……レクレウス卿がお情けであなたを追い出さないであげているのがわからないのかしら」
レクレウス、レクレウス……子爵家だ。レクレウス卿は子爵で、ヴォルティセパイースの男爵でもある。が、ズィークラッへのほうが家格は上だ。
エクはそれを思い出すと勇気づけられて、尚もミス・レクレウスを責めようとしているらしい老婦人を遮った。
「レディ・スピティ、彼女は錯乱しているようです。わたしが余程こわがらせたのでしょう」
「なんですって? ズィークラッへ卿?」
「あまりにもお美しいかただったので、我を忘れてしまいました。悪いのはわたしです」
レディ・スピティが大口を開けた。スピティ卿もだ。ふむ、パーティに来るのも、悪いことばかりではないらしい。お高くとまった都の貴族達の、まぬけ面を拝めた。
「な……なにをいっているか、わかっていますか、ズィークラッヘ卿?」
「侯爵閣下とそのご母堂に嘘など吐きません。わたしが彼女をはずかしめました」
「な……な……」
エクは堂々と嘘をいった。なんだか気分がよくなり、頭痛も和らいだ気がする。
ミス・レクレウスを見る。彼女は不可解そうにエクを見詰めていた。可愛らしい眉が寄っている。エクはそれに笑みかけた。見たところ、二十代半ばといったところだ。エクよりは四歳か五歳歳が上らしい。
その歳で独身なのが信じられないくらい、ミス・レクレウスは可愛いひとだった。肌は白くはないが均一な色で、令嬢に特有の、日にあたっていないらしい不健康な感じはしない。髪は黒く、つやつやとして長い。ゆるくウェーブしている。健康な馬のたてがみのようだ。首がすんなりとして長く、骨格がしっかりしている。身長はエクよりも、5cmくらい低かった。女性にしては背が高いが、結婚の妨げになる程とは思えない。
少なくとも、美人に結婚を申し込むのだから、わたしはまったく不幸という訳じゃない。
レディ・スピティがソファを立った。「ズィークラッヘ卿、まあ、まあ……我が家でなんと、おぞましい」
「申し訳ありません」
エクは深く頭を下げる。なんの罪もないご婦人がねちねちと非難される場面を見るくらいなら、自分が詰られたほうがましだ。それに、評判が落ちれば、パーティへのお誘いも減るだろう。紳士らしく女性を救い、煩わしいことからも逃げられる。いいことだらけだ。
「なにぶん、山出しなもので、彼女のような美しいかたは目にしたことがなく。どうぞ、愚か者だと罵ってください」
殊勝なようでいて反抗的なことをいうエクに、レディ・スピティはきつく握りしめた拳をぶるぶると震わせ、顔をまっかにしている。髪飾りがひとつ、つるっと落ちた。
「ミス・レクレウスに毒されたようね!」
「は? いえ、これはすべてわたしの責任です」
何故そうも彼女を悪者にしたがるのだろう、とエクは不思議に思い、平然と反論した。レディ・スピティが荒い息で、ソファにどっかり座りこむ。どうやら、もう言葉も出ないようだ。
スピティ卿はずっと大口を開けて動かなかった。
「エク!」
レディ・スピティが息を整えている間に、叔父がやってきた。従僕ふたりがそれについてきている。残念なことに、エクが故郷からつれてきているユファは居ない。
いとこのアデルが彼を、エクが垢抜けない原因だと、叔父にいいつけたのだ。ユファが一緒に居るだけでエクが田舎っぽく見える、と。それで、叔父はこのところ、エクがパーティにユファをつれてくるのを禁じている。
エクは爵位を持っているが、叔父は年長者だし、父にかわって長年、首都でズィークラッへの外交を担ってくれた叔父に対して、生意気な態度はとれない。それで、ユファをつれては来るが、パーティには出席させないという折衷案をとっていた。だからユファは、めしつかい用の控え室には居る筈だが、叔父はこういった場にはユファが相応しくないと判断したのだろう。
息を切らした叔父と従僕に続き、女性がはいってくる。女性は地味なドレスを着て、化粧もうすく、貴婦人の付き添い女性だと一目でわかる。
「ヴァスィリサさま」
ミス・レクレウスが反応した。してみると、彼女の名前はヴァスィリサというらしい。愛称はヴァスだろうか、リサだろうか。
付き添い女性は嫌悪の眼差しを主人にくれ、エクの叔父に頭を下げた。「ミス・レクレウスが、ズィークラッヘ卿に無礼を働いたようです。申し訳ございません」
「ああまったく」
「待て」
エクは慌てて遮る。「なにをいっているのだ?」
「エク、黙っていなさい」
「ご婦人、わたしが君の主人に無礼を働いた。なにを勘違いしている?」
付き添い女性も、叔父も、奇妙なものでも見付けたような顔でエクを見る。
ミス・レクレウスが口を開いた。エクはなんとなく、彼女が自分の言葉を否定するような気がして、肩に手を置く。彼女はエクを見上げ、エクと目を合わせると、口を噤んだ。
「まったく情けないことですが」
エクは叔父へ顔を向ける。「自制がききませんでした」
「な」
「お嬢さまの服は? どうしたのですか?」
まるでエクが嘘吐きであると責めるように、そして自分の主人が下着姿でうろつきまわって男をさがしているとでもいうように、付き添い女性が喚く。
エクは首をすくめた。
「覚えていない。そのようなことに気を遣える情況だったとでも?」
付き添い女性はまだなにかいおうとしたが、相手がズィークラッへ卿だと唐突に思い出したらしい。目を伏せ、もそもそという。
「お嬢さまに、その……」
「ああ。狼藉を働いた」
「エク、それ以上喋るな」
「こうなった以上、責任をとって、彼女と結婚したいと思う」
それ以外に道はない。そんなことはこの場の誰もが承知のことだとエクは思っていた。
貴族女性が、半裸で、貴族男性と一緒に居たのだ。どちらも未婚である以上、醜聞を避けるには、責任をとって結婚するしかない。
だが、付き添い女性に喜んだ様子はない。叔父やスピティ家の人間が渋い顔なのはわかるが、少なくとも付き添い女性は、主人の名誉が少しでもまもられるとほっとするのが普通だ。それがどうして、あんなに渋い顔になっているのだろう?
ミス・レクレウスが身動ぎした。エクははっとして、片膝をつく。ミス・レクレウスには申し訳ない気持ちがあるものの、お互いの家、そして彼女の名誉の為だ。彼女もいずれは納得してくれるだろう。
手袋を外し、ずぼんの尻ポケットへねじ込んで、片手を彼女へ伸ばす。
「ミス・レクレウス、わたしはエク・ズィークラッヘという。先程は大変な無礼を働き、申し訳ない」
「エクさま……?」
ミス・レクレウスは、不思議そうにエクを見ている。本当に不思議そうに。
エクはその、幼い子どものような表情になにか好もしいものを感じ、だから微笑んだ。
「しかし、わたしも最低限の礼儀は弁えている。結婚してください、ミス・レクレウス。よい夫になると約束しましょう」
ミス・レクレウスは、十秒ほどためらったのち、エクのさしだした手をとった。これで、ふたりは婚約したことになる。