厄介ごとを抱えこむ
処女ヒロインがいいひとは読まないほうが無難。
パーティになんて来るものじゃない。そんなのははじめからわかっていたことだったろう?
エク・ズィークラッヘ卿は、さる侯爵邸の大広間の隅で、誰にも気付かれないように祈りながら、じりじりと壁際を移動していた。夜会用の靴のなかで、足はいやな汗にぬるついている。それにしても、夜会用の服装というのは、どうしてこうも窮屈なのだろう……。
首尾よく、目立たない出入り口まで移動できた。エクは溜め息を吐き、そっと廊下へ出て行く。叔父はどうしてもパーティへ出ろとせっついてきたし、いとこのアデルもそうだ。
彼女はエクと一緒にパーティへ出るのが一生のうちで一番の栄光のように思っているらしく、まわりくどい説得を繰り返してきた。エクはそれが煩わしくて、パーティへ来ざるを得なかった。
だが、と、エクは思う。やはり、来るべきではなかった。
旅芸人の女とかけおちした兄の醜聞について、そして、それによって運よく爵位が転がり込んできたことをほのめかされ、げんなりする時間でしかなかった。
たしかにエクは、ズィークラッへとアルゴゾイマーというふたつの伯爵位、そしてエレティケッツァーという子爵位を、父から継いだ。兄が恋人と出奔したのも事実だし、その所為で父の隠居がはやまったというのも、間違いではない。
問題は、エク自身がそれらをまったく望んでいなかったということだ。今だって、誰かにおしつけられるなら、喜んで爵位を譲るつもりでいる。隠居するといって田舎へひっこんだ父に、子どもを産めるくらいの年齢の恋人ができたらいいのにと願うくらいには、自分の情況を受け容れられないでいる。
エリビア王国の首都、ブルーリオンに来て、早三月。エクは慣れないパーティや観劇、貴族同士の付き合いというものに飽き飽きしていた。できるならば、ズィークラッへ家の領地にある、フルリオフォルトへ戻りたい。
国内の田舎にばかり領地を持つ、朴訥な田舎貴族の青年というのは、首都では大変に物珍しいものなのだ。珍獣扱いをうけ、どうやら陰では笑われているらしいと気付いてなお、にこにことしていられるような根性はない。
このまま歩いて帰ろうか、とエクは思う。首都の貴族達は、どうしてだか移動に馬車をかならずつかう。ほんの少しの距離でも歩こうとしない。それどころか、馬車での移動すらいやであるらしい。生まれてこのかたろくに領地へ行っていないという同世代の貴族達も、大勢居る。エクは移動を嫌う貴族達の気持ちがわからない。
エクはふらふらと廊下を歩く。吞み慣れない蒸留酒を幾らか吞まされて、頭が痛い。エクは酒に酔って醜態をさらす人間が嫌いだ。そのようになりたくないとも思っている。だから、普通酒は口にしないのだが、叔父が居てエクが酒を断るのを阻止した。
なにかの音が頭に響いた。エクは、音がしているほうを見る。いつの間にか、大広間から遠く離れた場所まで来ている。喧噪も熱気も伝わってこない。
エクは扉を見ていた。両開きのそれは、わずかに開いていて、うすぐらい廊下にその部分だけあたたかそうな光がさしていた。あたたかそうな炎の色だ。エクは、自分と同じように喧噪から逃れてきた人間が居るのだろうと考え、そちらへ歩いていく。扉を押し、なにかいおうとした。
それから後悔した。ここの連中のやり口は知っている筈だったのに。
そこにはエクと同年輩の貴族達と、それに若い女性が居た。若い女性は、エクの認識が誤りでなければ、下着姿だ。
「ズィークラッへ卿」
最初に声を発したのは、一番爵位が高い、イリス卿だった。「君もまざるか?」
エクは目を瞠る。イリスの楽しそうな口調にもだし、寒そうにソファに座っている女性にもだ。彼女はうすい下着一枚で、寒そうに腕をさすっているものの、平然と前方を見据えている。エクを見もしなければ、はじらって顔を伏せようともしない。エクよりは歳上だろうが、まだ若い女性といって差し支えない年齢に見える。それなのに……。
イリスが近付いてきて、エクの視界を遮る。女性が見えなくなった。「ズィークラッへ卿?」
「は」エクは唾を嚥む。「はい、閣下」
イリス卿は、侯爵位、伯爵位、ふたつの男爵位を持ち、ヴォルティセパイースにも領地がある人物だ。見目麗しく、若くして領地の経営に素晴らしい手腕を発揮し、資産家としても名高い。
彼はエクの幾歳か上で、母方の遠い親戚でもある。その所為か、エクがパーティに来ると傍へ呼んだり、なにかと目をかけてくれている。
イリスは、どうも酔っているらしい。目が据わっている。
「まざるか、と訊いている」
「まざるとは……?」
イリスは肩越しに背後を見た。室内の貴族達が笑う。屈強な若者がいった。「ズィークラッへ卿は随分純粋なようだ」
「今から彼女と遊ぶんだ」
イリスがそういうと、尚更笑いが起こる。エクは混乱していたが、はっとして後退った。
イリスはエクの行動が気にくわなかったようで、鼻に皺を寄せる。エクは目を伏せる。犯罪に手を染めるつもりはないが、イリスの爵位を考えると、告発することは難しい。「失礼いたします」
「ああ」
イリスが乱暴に扉を閉める。閉まる寸前に、女性と目が合ったようにエクは感じた。そして、自身の臆病さをはじた。
どうして彼女は、黙って座っていたんだろう。
エクは廊下を走って、例の部屋から離れていた。頭のなかでは、最後に見た女性の表情が、歪んだり弾けたりしている。彼女は綺麗な緑色の瞳をしていた。髪の色は……思い出せない。なにか、くらい色だったように思う。
黙って座っていたんだから、彼女も承知のことなのだろう。エクはそう考えて罪悪感から逃げようとしたが、うまくは行かない。何故なら、あの場で犯罪の匂いを嗅ぎとってしまったからだ。あれは後ろめたいことに決まっている。でなくば、イリス卿があんな態度をとる筈がない。彼もまずいところに来られたと思ったのだろう。警戒が見えた。
そう思うと、もういけない。エクは踵を返し、来た道を戻りはじめる。どうして黙って座っていたんだろう、だって? イリス卿相手に逆らえるご婦人が、そう居るものか。
特に深い考えが合った訳ではない。ただ、紳士としてはずかしい行いをするのがいやだった。それだけだ。
エクは例の部屋の前まで戻り、扉を今度はうすく開けて、なかの様子をうかがった。すると、人数が減っている。室内に居るのは、ソファに腰掛ける下着姿の女性と、三人の若い貴族達だ。三人はどうも、のりきではないようで、女性から離れたところに立って、女性のほうを見もしない。まともな人間も居るのだと思うと、少しだけ呼吸が楽になる。
イリス卿がどうして居ないのかはわからないが、好機だと判断し、エクは深く息を吸った。「火事だ! 火が出たぞ!」
甲高い声色をつくって叫び、柱のかげに隠れる。部屋から三人が飛びだしてきた。きょろきょろしている。エクはぱっととびだし、たった今走ってきたように息を切らしてみせた。
「閣下はご無事ですか?!」
「ズィークラッへ卿?」
「今、めしつかいが、火事だと叫んで走っていったので」
それで充分だった。三人は血相をかえ、大広間の方向へと走っていく。イリス卿を助けに行こうとしているのかもしれないし、自分達だけでも逃げようと思っているのかもしれない。火事をおそれない人間など居ない。
エクは三人の姿が見えなくなってから、部屋へ飛び込んだ。女性はじっとソファに座ったままだ。余程こわい思いをして、気がぬけてしまっているのだろう。「ご婦人、逃げましょう」
膝をついて促すが、女性は不思議そうにエクを見るだけだ。エクは立とうともしない彼女に痺れを切らし、腕をひいた。が、なにか羽織るものでも用意しなければならないと気付く。
辺りを見まわすが、逃げ道を塞ぐ為だろう、女性が着ていたであろうドレスは影も形もない。エクは上着を脱いで、女性の肩にかけた。「さあ」
促すと、女性はゆっくり立ち上がる。
「逃げなくて宜しいの?」
初めて喋ったと思ったら、どうにも筋の通らないことをいう。エクは彼女が裸足なのに気付く。貴婦人らしいやわらかそうな足が傷むのをおそれて立たないのかもしれない。
「失礼」ささやいて横抱きにした。「ええ勿論、一緒に逃げましょう」
「わたくしは……」
エクはやわらかい声を聴きながら、廊下へ出た。女性はぼんやりしていて、豊かな髪を耳へかける。夜明け前の、一番くらい空の色だ、とエクは考える。それにしても、今までのパーティでは見たことがないご婦人だ。なんというかただろう?
大広間方向から、悲鳴や叫び声が聴こえてくる。厄介なことになってしまったかもしれない、と思ったが、女性の名誉の為ならば仕方があるまい。居もしないめしつかいに罪をなすりつけて仕舞えばいいと、軽く考えていた。