助けた狐が嫁に来たが、エキノコックスにかかった俺は幸せの絶頂で死んでしまった
桜のはなびらが舞う中、全裸の美人が弱っていた。
と書いても、嘘を言っているわけではないが、美人といっても人間ではなく狐であるし、野生動物が全裸なのは当たり前のことである。
敵がいないのか、もふもふの毛並みは色つやも良く、餌にも困らないのかふっくらとした体型の美人な狐であった。
田舎暮らしを始めた亮は、家の裏にある山で罠にかかっている若い狐を見つけた。
その狐と目が合って、無言の見つめ合いをした後、どちらともなく、こくり、と頷きあった。亮は狐の後ろ脚の方に回り、罠を外す。
狐は存外に賢いようで、反抗もしなかった。罠が外れたのを見ると、しゃがんだままの亮におそるおそる近づいて、ペロリと顔をなめた。
亮は狐の顎を少しなでて「もう罠にかかるんじゃないぞ」と言って、立ち上がり、離れていった。
狐はしばらく彼の後姿を見ていたが、やがて山の中に消えていった。
亮はこの山の管理人である。
今では亮の持ち物であるが、つい先日はまでは亮の父のものであった。
罠はおそらく父かその知人のハンターが仕掛けた者だろうと、亮は推測した。
亮はそのまま山の見回り業務を続け、道中、のどが渇いたので、湧き水を飲んで休憩をした。
罠にかかった狐のこともあって疲れたので、見回りは適当なところで切り上げた。
亮が罠にかかっていた狐を助けたのは、桜が散り始めたころのことだった。
亮は亡くなった父の遺産として田舎の家と小さな山をもらい、悠々自適なスローライフを、と意気込む若者であった。都会で遊ぶ暇もなく、ただ預金額が増えていくだけの生活をやめて心機一転、山の管理をしながらたまにWebデザインの仕事をこなすという生き方を選んだ。
山から戻った亮は、汗を流してから縁側でうたたねをした。
子どもの頃は山で遊んで泥だらけになっては、山を管理していた祖父から注意事項を聞かされていたことを、ふと夢に見た。
「山のやつらとはあんまり仲良くするもんじゃねぇ。それと湧き水は飲むな」
山から離れていたこともあり、昔に聞かされた言いつけを守れなかったことが、後に亮を死に至らしめることになるとは、このときは誰も気づいていなかった。
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山暮らしも十年が経過し、亮は田舎にそれなりに受け入れられていた。
これといった出会いがなく、独身のまま三十代も折り返しに差し掛かった。
出戻りであることか、若者と言っても二十五歳という年齢であったことか、はたまた単に亮の器量や性格の問題か。とにかく結婚だけは縁がなかった。
男やもめの生活も悪くはないのだが、結婚をしないというのは田舎では外聞が悪い。周囲から結婚はまだか、とはよく聞かれるようになった。
そうはいっても亮にお似合いの女性を紹介するでもない。
知人の紹介くらいしか出会いの場がない土地では、亮は結婚を諦めていた。
そんな、うだうだとした生活が続いた日々は、唐突に終わりを告げる。
またしても桜散る季節、今度は満月の夜のことだった。
久々に大きな案件を受注した亮が夜まで仕事をしていると、ドアをノックする音が響いた。
ベルが鳴ったわけではない。虫か何かだろうと、コーヒーを飲み、再び仕事に集中しようとしたとき、再度ノックの音がした。
仕方なく亮は玄関に向かう。
人影が見えたので、いぶかしがりながらドアを開けた。
桜の花びらがちらちらと舞う中、朱色の着物を着た二十代後半くらい女性が立っていた。
髪は腰まであり、月明かりでははっきりと確認できないものの、狐色と呼ぶべき茶色であった。
「紺子と申します。あの時助けていただいた狐です。お嫁にもらってください」
深々と頭を下げた。
かくして、亮の生活は一変した。
紺子は、狐だったとは思えないほどに人間の生活に慣れていた。
初めて会った日に玄関でベルを鳴らさなかったように、時々は知らないことがあるものの、大体の常識を備えていた。
この十年は人の常識を学ぶ期間であり、ついに免許皆伝となって人と暮らす許可を得たのだという話であった。
紺子は料理がうまかった。
いなり寿司が得意であると言っては、狐らしさをアピールしていた。
「おはようございます。旦那様。好きです」
紺子は亮のことを旦那様と呼んだ。
紺子は亮のことが大好きだと、ことあるごとに口にした。
朝起きてすぐに好意を伝え、夜寝るまで飽きることなく口癖のように好きだと言う。
亮は紺子のように好意を向けられるのは初めてだった。
もはや亮にとっては、紺子が狐なのかはどうでもいいことであった。
中年になって肝臓が弱くなったのか酒が弱くなり、腹の痛みを感じることも多くなってきた亮にとって、紺子は生きる希望であった。
「今日も旦那様と過ごせていい一日でした」
「俺もだよ。与えられてばかりで何を返せばいいかわからないくらいだ」
「旦那様は命の恩人なのですから、何かを返そうなどと思わなくてもいいのですよ」
命の恩人であり、ひとめぼれなのだと、紺子は言った。
かいがいしく世話を焼くことが心底楽しいようであった。
亮はもらってばかりであるから、せめて紺子に似合う男になろうと、運動を増やしてダイエットをしようと決意した。
効果はあまりなく、腹は膨らんでいくばかりであったが。
ダイエットをするという亮に、紺子はよくおにぎりを作った。
ランニングして少し離れた公園に行き、紺子のつくったおにぎりを食べて歩いて戻って来るのが亮のダイエットであった。
食事が増えている分でプラマイゼロである可能性も大いにあった。
唐突に始まった生活は、唐突に終わりが見えた。
「旦那様はお顔が狐に近づいてきましたね」
狐に近づいているというのは、紺子と似てきたということであれば、亮としても悪い気はしなかったが、実際にはそれだけではなかった。
あまりにも腹が膨らみ続け、しかも痛み、顔が黄色くなってきた気がするので、亮は病院にかかることにした。
病状を聞き、医者は、昔に狐を触ったり、生水を飲んだりしたかを質問した。
亮がイエスと答えたことから、検査はどんどんと進み、医者はエキノコックス症だろうと告げた。
病状が進行しており、手術してなお、生存率は低いだろうと、亮に告げた。
突然のことだと動揺しているうちに、手続きはどんどん進んでいった。
大きい病院に移って検査をして、開腹手術にも至った。
病巣を取り除くことで、進行を遅らせることはできたが、完治には至らなかった。
亮に残された時間は残りわずかであった。
亮は紺子とできる限りの思い出を作ろうと、二人で過ごす時間を増やした。
おにぎりを持って見晴らしのいい高台に出かけた。
一緒に森を散策した。
庭でバーベキューをした。
狐耳やしっぽを生やすことができるもできると紺子に聞いて、もふもふを堪能した。
Webデザイナーとしての仕事はもうほとんどしていなかったが、付き合いの深かった顧客は事情を話してもなお、仕事を回してくれた。
紺子の手も借りながら、死ぬ前にやりとげた。
紺子に土地を譲る遺書を書き、弁護士に渡した。
そうして、終活をしながら、二人は過ごしていった。
幸せな日々の中、亮は死んだ。
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亮が目を覚ますと、ごつごつした岩ばかりの、洞窟のような場所であった。
全身を火に包まれた男が、亮の顔をのぞき込んでいた。
男の姿があまりにも生きた人間とはかけ離れていたこともあり、亮は自らの死を悟った。
「黄泉の国か」
「そうだ。岩ばかりでつまらない場所だろう」
イザナミを黄泉に送ったカグツチを思わせる風体の燃える男は、パチパチと爆ぜながら答えた。
「あなたはカグツチ様か?」
「いいや。アンタと同じただの死者だ。黄泉の国にきたときに騒ぎすぎたせいで火刑に処されている」
仮称「燃える男」は百人の死者の道案内をし終えるまで、消えない炎で焼かれているそうだ。
黄泉の国は生者の世界より秩序に厳しいらしい。
正確にはまだ黄泉の国に入っているわけではなく、現在地の洞窟のような場所は通路であるそうだった。
「急いだほうがいいのか?」
「そう急ぐ旅路でもない。道案内が必要な死者なんてそれほど多くはない」
燃える男のためにも早く道案内を済ませた方がいいのかと思った亮であったが、死者の出現場所はランダムであり、黄泉の国から離れた場所に落ちる者は珍しいので、急いでも意味がないとのことであった。
二人はそれぞれの人生を語りながら、進んでいった。
特に亮の、助けた狐が嫁に来るという異類婚姻譚は、燃える男にも興味深かったようで、もっと聞きたがった。
おかげで、些細な日常まで語りきったと思えるほど話しつくした。
そうして、二人が互いの人生を存分に知ったころのことであった。
ゆっくりと進む二人の耳に、たかたかと四つ足の足音がきこえてきた。
それは亮がよく知っているふわふわの狐だった。
紺子は亮を追ってきたのであった。
とはいえ、後追い自殺をしたという意味ではない。
人に化けられるほどの狐であれば、生きたまま黄泉の国への道を歩くくらいの妖術はたやすい。
そう説明する紺子は、人に化けた。そうして、顔が見たくなって、つい見送りに来たのだと語った。
「旦那様。いつものおにぎりを持ってきました」
「そうか。一緒に食べよう」
死んだわけではない紺子は、ここまで来られてなお、黄泉の国には入れないそうだ。
最後の思い出にと、亮と紺子はおにぎりを食べて、時間を過ごした。
そうして、黄泉の国の深部への扉の前で、亮と紺子は抱擁を交わした。
この扉はそこに至るまでの行動、つまりは(燃える男のような例外を除き)生前の行動をもとに、行先を決める判定機である。閻魔大王みたいなものであった。
その扉を亮が押せば、行くべき場所を判定される……はずだった。
しかし、扉は開かなかった。
力を込めてもびくともしない。
その様子を見て、燃える男は少しうれしそうに言った。
「お前はこれ以上、黄泉の国にとどまってはおれまい」
「え?」
「よもつへぐいをなす前に現世のものを食べてしまったからだろうな。黄泉そのものが、お前を拒んでいる」
黄泉の国から拒まれた以上、死ぬこともかなわない。
こうして亮は現世に舞い戻ることとなった。
燃える男は、サービスだと、亮に炎を吹きかけた。
亮の全身が火に包まれ、臓器が焼かれていく。
痛みはない。亮にはむしろ痛みが消えていくように感じられた。
燃える男は、燃やされ続けたことで、炎を自在に操れるようになっていた。死んだ原因となった部位を焼いて、しかも熱で活性化させて傷がふさがるようにしてくれたのだった。
おかげで、亮は健康な体で生き返ることとなった。
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亮は生き返った。
看取られたはずの自宅、自室のベッドで目を覚ました。
「旦那様、おかりなさいませ」
先の戻っていた紺子に出迎えを受ける。
「紺子はこうなることが分かっていたのか?」
「いいえ、偶然です」
そうして、いつかのように、紺子は亮の頬をぺろりとなめた。
そうして二人は、仲睦まじくいつまでも暮らしたという。
完