34:エピローグ#1
夏の海がキラキラと輝いていた。
海岸沿いをくねくねと曲がる道を走る蒸気自動車の吐く黒煙は、海風を受けて真っ直ぐ後ろにたなびいていた。クランクと軸受けが立てる騒音も馬車のきしみも、二人にとっては旅の彩りだった。
オルランドとエイダは夏休みを生かして小旅行へと出かけるところだ。行き先はアーレイ。サウザンヒルから運河で1日の距離だ。
スチュワートとサウザンヒルを結ぶ蒸気自動車便はまだ商業運行を始めていない。オルランドたちが乗っているこの便は事前の調査、試験運転だ。
元々はちゃんとレールを敷いて鉄道を運行する予定だったこの区間は、そもそも製鉄所の建設とその後の操業で大口の需要が見込まれており、オルランドはすぐにでも乗り合い馬車の定期便を運行する予定でいた。
しかし戦争が始まり、多くの馬が徴用されてしまったのだ。オルランドは仕方なく、すずめ寮のボイラーを取り外して、それを元に馬の代わりの蒸気自動車を作ることにした。
レールでない分速度は出ないし牽引能力も劣っていた。今蒸気自動車が曳いているのは石炭と水を積んだ炭水車と馬車一両だけだ。馬車は馬が徴用されて余ったものを安く買うことが出来た。
蒸気自動車は今時速15里ほども出ているだろうか。馬車の倍は出ているだろう。海岸沿いの道は平坦で道も荒れておらず、ここまで調子よく走っていた。馬車の板バネのサスペンションはいつもの倍の速度にもかかわらず不快な振動をほぼ殺しきっていた。
エイダはつばの広い帽子を押さえて馬車の窓から身を乗り出していた。
「風がすごく気持ちいい」
夏の海の照り返しを受けるその姿はまぶしかった。
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校長が消えたスチュワート校はあの翌日から蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。臨時休校が宣言され、サウザンヒルから州警の警備官がやってきてスチュワートの辻に立った。
警備官たちは給料が出ている自警団に過ぎず、服装は勝手で思い思いのマスケットを持ったおっさんたちに過ぎない。先月までの連隊歩兵とはその質が全く違う。
喧嘩沙汰が相次ぎ治安は逆に悪化した。しまいにはグロスターから首都警がやってくる騒ぎにまで発展した。
オルランドたちはあの晩、ひとけのない高等学校の通廊の影で今後のことを話し合った。
事情を知りたいという王子とエレクトラ姫には後で全部お話しすることを約束して、今後の口裏あわせをやったのだ。
生徒会長と書記が王子と姫をさらって行ったのは多くの人に見られていたし、オルランドがエイダを探してあちこちをうろついたのも同様だった。オルランドはエイダが校長に呼ばれたと幾人にも話していたから、調べが行なわれれば怪しまれるのは確実だ。
「ここはもう、ドリッドさんに全ての罪を被っていただきましょう」
筋書きはこうだ。エイダが校長に呼ばれて領主館前に行ってみると待っていたのはファニィ・ドリッドだった。ドリッドはオルランドに含むところがあり、彼女に近しいものをいたぶって憂さ晴らしをするつもりだったのだ。
オルランドはエイダを探して見つからなかったので生徒会を頼った。生徒会はドリッドの手からエイダを助けることに成功したが、同時にユライア王子とエレクトラ姫にも危険が迫っている事を察知し、先手を打ってお二人を保護した。
一行は四階談話室に夜まで篭っていたが、その後各人の寮へと帰り、翌日学校へと届出を行なう予定だった、と。
ファニィ・ドリッドからは前日に退学届けが出されていた。恐らく今頃はどこにも見つからないだろう。
その後の首都警の調べでもこの話は疑われることは無かった。姿を消したドリッドは校長の失踪に関わる第一容疑者だった。最終的に、ドリッドを制止しようとした校長は、二人とも領主館裏のトンネル崩落に巻き込まれたのだろうと結論された。
領主の地位は遠戚の誰かが継いだが、大学長に相応しくないとしてその就任を大学の教授たちと王立学会から拒否され、結果、大学と高等学院に別々の校長が外部から招聘された。
一同はエイダ、エレクトラ姫とユライア王子も一緒に談話室でお茶会をする仲となったが、夏休みに入る前に鼎立王国と共和国との間で戦争が始まったため、王子は本国に帰還し、生徒会長とジョン・バーサッドは出征を志願して学校を去った。書記も同時に退学したため、新学期初めに新生徒会長の選任が行なわれることとなった。
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運河船が間門を過ぎると、再び船旅は静かなものになった。
船外の景色は何処までも暗闇に隠されていた。
ここに広がっているであろう景色をオルランドは想像した。牧草地だろうか。なだらかな丘陵に羊たちが草を食む。いや麦畑だ。平坦な地平線の向こうに村のものらしき明かりがまたたく。
一等船室に戻るとエイダは起きていた。
「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
「あれだけガタゴト煩ければ誰でも起きるんじゃなくて?」
そうかもね。新しい運河は間門を使って船を高い水位に移すが、これはかなりうるさい操作になる。エイダが寝床から起き出して言う。
「ねぇ、ちょっとお話しない?」
いいわね。オルランドは精霊灯を点けて明かりを絞る。
「ずっと考えていたのよ。
あの時、あの後、私は確か、私たちは知らない誰かと誰かの道具に過ぎなかったのかって言ったと思う。で、オルランドは、こう答えたわよね。
彼らが私たちを劇の登場人物のように扱えたのは、その魂の巨大さ、桁外れの計算能力のせいだって。そして、彼らの計算は万能じゃない、とも言ったわね。
あれは、前世の知識じゃないの?」
オルランドは答える。
「私の前世の世界の人で、アラン・チューリングという人がいたわ。彼が前世での万能計算機械の発明者よ。その彼が証明した問題に、停止問題というものがあったの」
万能計算機械の上で動く、未来を完全に予測する命令列が書けたと仮定してみましょう。その命令列は予言者のように未来を見通すし、その予測を使って何でも好きなことが出来る筈ですね。
恐らく、ものすごく賢い計算機械はそういう風に振舞うことが出来るでしょう。
でも、その予測を手に入れてしまえば、その予測に反する行動も出来る筈ですね。そうなると、未来を完全に予測できるという最初の前提が壊れてしまいます。
そういう穴がある以上、未来を完全に予測する命令列は原理的に絶対に書けません。つまり完全な予測はできないのです。
恐らく私たち自身も、万能計算機械の性質を持っていると考えます。私たちが未来予測計算に詳しくなれば、私たちが圧倒的存在の裏をかくことはさほど難しくないでしょう。私たちが科学を通してこの世界を知るのは、将来予測をより正しく詳しくするのに役立つでしょう。
もし私たちが圧倒的な存在の掌の上で踊らされる人形だったとしても、その人形劇の結末は絶対に1つ、という訳ではないのよ。そうオルランドは話しを締め、もう寝ましょう、と言った。
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相手とは既に手紙のやり取りをしていたので、待ち合わせはスムーズだった。
辻馬車は緑と起伏の多い郊外を走っていく。アーレイ校は赤いレンガ作りの、オルランドの前世の記憶が言うところのパブリックスクールそのものの姿をしていた。
テレーズ嬢も、意地悪そうな高慢な高笑いが似合いそうな縦ロールで、しかし本人は至って人当たりの良い人物だった。辻馬車の中で三人の話題は尽きなかった。
テレーズ嬢はやはり前世持ちだった。彼女は自分がゲーム中の悪役令嬢だと気がつくと、幼い頃より謙虚な人柄と思われるよう心がけ、乗馬と射撃をたしなみ、ひたすら堅実に勉学に励んできた。そして高等学院に上がる年齢になるとスチュワート校行きを全力で拒んだのだった。
そのうち彼女はファニィ・ドリッドという強い味方を得た。彼女の手引きでテレーズ嬢はスチュワート校の入学手続きに誰も悪くない不注意によって失敗し、用心の為に入学手続きを進めていたアーレイ校に入学したのだ。勿論本人は最初からアーレイ校に入学するつもりだった訳だが。
「その後の展開については勿論興味はあったのですが、そんなことになっていたなんて。じゃあドリッド様は」
「行方不明よ。ご実家にも帰られていないわ」
やがてアーレイ校の手前で辻馬車を降りると、テレーズ嬢は田舎道を先導して案内した。辿りついたのは水辺の涼しげな木陰だった。池の向こうにはアーレイ校の赤煉瓦の校舎が見える。
「じゃじゃーん」
オルランドは前世持ちにしかわからない擬音を使って、ふろしき結びをした包みを開いた。中には、薄紙で包まれたパンだ。
「これはあんまり他の人には見られたらマズいかなと思って」
食べてみて、と促されてテレーズ嬢は一口齧る。
「えっ、これ」
「あんパンよ。知り合いの前世持ちから分けて貰ったの」
オルランドはアンナ・サウスコットに手紙を書いて、あんパンを分けてほしいと懇願し、スチュワートのパン屋を紹介してもらっていた。このパン屋はサウスコット家と取引があり、更にオルランドは重曹を提供してパンをふっくらと柔らかくしていた。
テレーズ嬢はもう一口、さらにもう一口食べて、
「……懐かしい味がします」
ひとごこち着くと、テレーズ嬢はお茶の道具を広げた。お茶の香りが広がる。
「私たち前世持ちのこれまでの人生って、一体なんだったのでしょう」
生徒会長チャールズ・ダウニーとジョン・バーサッドが従軍を志願したのは、事件の衝撃ゆえのことだろう。これまでの人生が前世ごと丸ごと否定されたのだ。
「私の前世も偽物なんですよね」
テレーズ嬢はしみじみと言う。
「でも、無駄じゃないと思います。これまでのことは決して無駄じゃないと思います」
エイダが強い口調で言う。
「これから、好き勝手にやればいいんです」
そうよね、オルランド。エイダは笑って言う。オルランドは応える。
「勿論よ、好き勝手やってやるわ!」




