1:入学式の日#1
なだらかに続く森と丘陵が断崖となって西の海にぶつかるあたり、サウザンヒルの外れ小さな湾の中に小都市スチュワートはある。
北と南へは崖の下海岸線沿いをくねくねと続く道が伸び、西の海へは港が開けていたが、貿易船が春先の暴風から避難するとき以外は寂れたものである。更に廃止された海軍工廠の廃屋が並ぶのがうら寂しい。
家屋は港から山手まで、せり上がるように坂の上に林立していた。そしてその一番奥には、巨大な暗い影が断崖に接して聳え立っている。巨影の抱える数多くの尖塔が崖の上に飛び出して朝日を受けていた。スチュワート校だ。
スチュワート校は古い由緒ある大学である。併設された高等学院も貴族や王族の子弟を受け入れ、そして世に送り出してきた。何の文句のつけようもない立派な学校であり、この学校に比肩するのは、西方帝国の名高いガーメサラ"智恵の園"くらいだろうと人々は言うだろう。
学舎は最近改築されたようで、内部にはまだ少しだけニスの香りが漂っていた。煉瓦と漆喰の廊下を歩くオルランドの足元、木の床はまだ軋みもしない。
「オルランド様、こまどりの一号室はこちらのようです!」
オルランドの先を行くメアリ嬢が声をあげる。彼女もこの春よりスチュワート校に同じく入学する、オルランドの知り合いである。彼女はどうやらこれから一年通う教室を見つけたようだ。オルランドは彼女に手を振って答えた。それで違和感も振り払えたらいいのに、と思いながら。先よりオルランドは微かな違和感に悩まされていた。
メアリ嬢は先に教室のドアを開けて、オルランドをを中へと招き入れる。
部屋の奥は一面ガラスの窓になっており、室内はとても明るく、そこに小さな机が並んでいた。手前側の壁には大きな黒板と、教師のための演壇が設えてある。
壁一面のガラス窓は近代建築の粋を凝らした偉大な成果だ。このようなものはまだ誰も見たことが無い筈だ。床は平坦で、劇場のようなせり上がった席にはなっていない。
オルランドはこのような光景を見たことが、いや、無い。彼女は見たことが無い。
見たのは前世のオルランドだ。彼女の前世の記憶に、この光景は大まかに言って極めて似ていた。似ているのは雰囲気であり、細部は勿論違う。この天井に蛍光灯は無い。教室は木組みの天井裏が丸見えで、そこから精霊灯らしきランプが幾つか下がっていた。
オルランドの前世の記憶はバラバラで脈絡のない、多くは間接的な記憶だった。例えばオルランドの記憶は、この世の中が、前世の知識の基準だと近世ヨーロッパに当たる事を教えていた。だがそれは前世の彼女の知識であって経験ではない。
世の中の事物を見たとき、前世の記憶がこれは何々だとオルランドに教えることがたまにあったが、前世の直接的な記憶、つまり経験と一致するようなものはまず見たことが無かった。彼女の前世はこの世界から遥かに遠いのだ。
だが、目の前の部屋は、オルランドの前世の経験を強く呼び覚ました。
「おい女、邪魔だ」
背後の声にオルランドはようやく意識を取り戻した。私は暫く阿呆のような顔をしていたのではないか。オルランドはそう思った。
彼女は自分のいる場所に改めて気がつく。扉をくぐったばかりの場所、扉を塞ぐ位置に彼女は立ち尽くしていた。すぐさま脇に動き、背後を見る。
驚きは続く。
美しい男性だった。眉目秀麗とは彼の容姿を指す言葉であろう。ブロンドの美しい髪の下に、鋭利な顔、眼光は鋭く、
「フン」
そしてお口もお鋭くあられるようで。オルランドは思ったが、だがまずは挨拶だ。
「申し訳ありませんでした、あの、わたくし」
男は顔を逸らすと、興味ないといった風に手を振りながら教室の奥へとそのまま去って行った。
オルランドは再びしばし放心した。その時教室に5人ほど既に居ただろうか、全員が揃って放心していた筈だ。人並みはずれた美形には、人の心を圧倒するものがある。
オルランドは自分自身、おおよそのところ美しいと人に言ってもらえるような容姿をしていると思っている。しかしそもそも美男美女の割合が、世の中あるべき平均より心持ち多めではないかと思うのだ。何を基準にと言えば前世の記憶である。前世にいたような全くの不細工という人物は、少なくとも彼女は見たことが無かった。
その基準からしても、その男性は並外れていた。
彼女がほんのり夢心地から戻ってきたその刹那、教室のドアから今度はまぶしいような美少女が入ってきた。
綿菓子のような銀の髪を揺らし、わずかに伏せられた目元、長いまつげが掛かる水晶の瞳から星のかけらが飛ぶ。
ここは異世界ではなかろうか。オルランドは頬をつねりたい気分だった。
オルランドはこれから7年、この小さなスチュワートの街で暮らすことになる。高等学院で3年、大学で4年。今年一緒に入学した同じクラスの男女はほぼ皆、高等学院の3年間しかここに在籍しない。オルランドの事情は他の生徒たちとは少し違っていた。
スチュワートの街は古い大学であるスチュワート校のために存在していた。元は古い城を学者たちの保護のために改築したのが始まりだと云われている。それから数百年、大学は国家の智恵の武器庫として、知識の守り手として、魔法魔術と地上の神秘を研究し続けてきた。
高等学院が併設されたのは大学の歴史からすると最近のおよそ半世紀前、高等学院制度は貴族子弟の教養水準の向上のために、国の各地に作られたのが始まりだった。
現在では過去の実績、施設、講師陣、そして過去の先輩たちの繋がりなどで各校に明確な格付けが存在していた。そしてスチュワート校付属高等学院は、間違いなく最高水準の高等学院だった。
高等学院は古い城の敷地の外、崖を崩してつくった高台の殆どを占めている。現在のスチュワート校敷地のおよそ三分の一を占め、広いように見えるが大学在籍者の少なさ、一人あたりの面積で考えると高等学院はやはり狭い。
高台には更に大学の建物の増築部位が侵食していた。後付けである高等学院はスチュワート校の入り組んだ建物の隙間に押し込まれ、込み合った印象を更に強くしていた。
高等学院の主要な建物は、弓のような緩やかな曲線で続く回廊で結ばれている。北の端から大講堂と高等学院の鐘楼、大食堂と並び、奇妙に屈折した建屋を持つ東校舎と大きな城壁のように並ぶ西校舎の間を回廊は縫い、塔のような教務棟に突き当る。
教務棟の脇から大学棟へと昇る階段があるが、高等学院の生徒は特に理由が無ければ通行を禁じられていた。鐘楼近くに高等学院の正面門があるが、これはめったに使われず、鍵で閉ざされている。
回廊の北の端は谷間にかかる橋に行きつく。橋は寮への近道である。
橋を渡ったすぐそばにあるのが男子寮である鷲の寮、その道向こう西側に女子寮であるかもめ寮、東の一段高いところに王族などが使われるつばめの寮、大貴族たちのせきれい寮、雷鳥寮、逆に高台から西に下がって民家と混ざる位置にみさご寮、あほうどり寮など家賃の安い寮が立ち並ぶ。
これらの事は入学式前日にやってきたオルランドに、つてを頼って案内をお願いした在校生の先輩生徒から聞いたことだ。
在校生に案内してもらうのはスチュワート校の新入生の伝統のようなものだ。入学手続きや入学式の式次もすべて在校生に教えてもらうことになっている。学校側は特に新入生にあれこれと世話を焼く気は無いのだ。ここで親の家柄と交際がものをいうことになる。
有力な在校生に伝手があれば、手続きも早く済むだろうし寮生活も快適なものになるだろう。何の伝手も無ければ在校生を雇って手続きを済ませなければならない。
何の伝手も無く、在校生をうまく雇って期限内に入学手続きを終えることが出来なければ、文字通りの門前払いを食らうのだ。
このやり方、陰湿ながら足切りの役目を果たしているとか。そもそもスチュワート校に入学試験は無い。推薦人を揃えて推薦状を出し、諸条件を満たしていれば入学許可証が送られてくる。だがこれは入学手続きを受け付けるという証でしかない。
推薦人を揃えることができるのに、案内の在校生を雇うことも出来ないなんて事が有るのかと言えば、実は結構あるらしい。
推薦人云々は、高級教育省の掲示にも示されているため、誰でも知ることが出来る。でも在校生を雇うという話は、貴族の内輪の付き合いの中でしか教えて貰うことが出来ない。金で称号を買った新興の貴族気取りを排除するための方法だと人は言う。でもこの方法は、優秀さゆえに推薦されてやってきた庶民に対する障害にもなっていた。
今この教室に、庶民と呼べる存在はいない。教室でこれから一年共に学ぶ学友となった私たちは互いに自己紹介をしたが、見事に貴族子弟ばかり。かのブロンドの王子様は本当に王子様だった。鼎立王国の一つデーンランドの王位継承第三位、ユライア王子。
ふわふわの銀の髪の美少女はと言えば、こちらも王族、エレクトラ姫。クランチャー侯爵が後見人となっているが正確には王族ではないらしい。だが、公許の姫の称号がつく身分である。王族とみなすようにと学校側から、正確には案内の在校生の方から説明があった。
しばらくすると教室のドアから青の羽根の襟章を付けた上級生たちが入ってくる。青はひとつ上の二年生の色だ。襟章は真鍮に色を塗ったもので、自分たち一年生も緑の羽根の襟章をシャツやブラウスの襟に付けている。
実はこの羽根の記章はひとまわり小さく後ろの針で止める事が出来るものもあり、女生徒はそちらで済ませることもできる。現にエレクトラ姫はそちらを着用していた。
上級生たちは、入学おめでとうと口々に言いながら手元にチラシを押し付けてくる。歌う上級生やなにやら手品や芸をする者もいる。これが歓迎の証らしい。彼らはやがて嵐のように去っていき、そして隣の二号教室を襲う物音が聞こえ始めた。
手元に残ったチラシを眺める。生徒会謹製、クラブ活動の紹介。
何かおかしい気がする。