はじまり
気が付いたら見知らぬ人物に憑依していた。
凄まじく混迷極まった事態だが、理性を働かせる為には状況を整理せねばなるまい。
まず意識が戻ったら男は自分以外の誰かに成り代わっていた。
この段階でぶっ飛び具合に一杯一杯になりそうだが問題提起はまだ終わっていない。
そもそも男は死んでいる筈なのだ。
でなければ最初から憑依などと判断しようがない。
ある程度残っているその時の記憶の断片から死亡していることは間違いないのだ。
その上で現在生きて思考し活動している訳だが、どうにも生前の身体と勝手が違っていた。
性別以外の体格や髪と質感、恐らく顔の容姿も違っている。肉体そのものが別人となっていた。服装や持ち物だけでなく居場所にも身に覚えがないことから男が誰かに変身したという可能性より入れ替わりを疑うべきだろう。
今一度確認すると憑依、という言葉の通り、小説や漫画などによくある人格の入れ替わりや、転生云々の記憶の引き継ぎではないと断定しておく。
死んだと思った直後、気が付いたら別人。
それが男に起こった現象である。
この身体の持ち主と自分に一切の関連性はなく、いつの間にか身体を乗っ取り、その支配権を奪い取っていたのだと認識している。
故に乗り移った身体の持ち主の経歴を知らない。
職業、住所、年齢、等の基本的なパーソナル情報はおろか名前すら知る由がない。
代わりにあるのが全く別人である死んだ筈の自分の記憶だ。鮮明な人一人分の記憶が存在する。
それは妄想や偽りの記憶と呼ぶことはできない確固たるものだ。
確かに身体の持ち主と男の意識は別人だ。
そして記憶喪失や被害妄想の類いではないと己の正常を確認する。
正気を疑いだしたらキリがない。
死んだこと。別人であること。何も知らないこと。
どれも非現実的で錯乱していると片付けてしまった方が納得の余地がある。
しかし男にとって現実に起きたことだ。
胡蝶の夢、他我問題、スワンプマン、我思う故に我あり、と哲学や思考実験を並べ立てるのと違う。
男は死んだ。そして別人になった。何も知らずにいる。これが男にとってのまぎれもない事実である。それを疑うのは現実逃避でしかなく、己の推論をありのままを受け入れるべきことだと考えた。
そして憑依したと結論付けた。
そんな理屈抜きでも主観や直感を優先させれば答えは簡単だ。
男は一度死を体験をしている。
別人になって誰かに取り憑いてんだな、と大抵のことは受け入れることができた。
細かい思考も後付けで理屈を肉付けたに過ぎない。
元々死んだ筈の人間が憑依とはいえ擬似的に生き返った(ただし別人として)と思えば物事をおおらかに判断する度量がついた。
ここで問題なのが、この身体の本来の持ち主のことだ。
男が憑依することで身体の主導権を奪い取ってしまった相手。意識を間借りしているか、取り殺してしまったのかはまではわからない。
確かなことは身体の持ち主は被害者、憑依してる自分は加害者に相当している。
弁明すると悪意はおろか自分の意志で招いた事態ではない。
気が付いたらこの状態だ。
そこに自分の意志は介入していないと誓える。
正しい死後のあるべき状態は輪廻転生を巡ることか成仏することかは知らないが、悪霊染みた行為をするつもりはなかった。
できれば今すぐにでも成仏したい。
そして持ち主に身体を返したく思う。
善意抜きの判断で。
生前と容姿も体格も異なった身体。
年齢は二十歳前後か十代後半。
大学生四年目だった男の生前より少し若返った気がするかもしれない。
場所は建物の隙間を縫うような通路。
薄暗くて人気のない路地裏の一画。
見知らぬ身体で見知らぬ場所。
それだけでも前途多難なのに身に覚えのない未曾有の危機に陥っている。
この女の子誰?
見下ろす先に倒れた制服姿の少女。
固い地面に横たわり意識を失っている。
それだけなら素直に善良な一般市民の義務として救急車の手配をし気絶する女子高生の身を案じよう。
彼女の安否に心配あれど、我が身を不安に思うような深刻な事態ではない筈だ。
しかし問題は山積みある。
何も他人に憑依したことだけが問題ではなかった。
視線を動かし、ゆっくりと辺りを観察する。
怪しげな薬品とそれを湿らせたであろうハンカチ。
それを握り締める己が手。
これだけの情報ならまだ第三者の可能性を考慮できた。
偶々偶然不審物を拾い上げた所に男が憑依した可能性が極僅かになきにしもあらずと希望的観測を残せたかもしれない。
猿ぐつわやロープ、他にも色々計画的な道具の詰まった鞄を引っ提げた男。
スリーアウト処か審判がキレて強制退場させてもいい。
そのぐらいの完全な決め手である。
どんな推理力ない人間でも犯人が誰かなんて丸わかりのこの状況。どれも完全に憑依前の人物の私物だと確認できるものばかりあった。
用途を一々解ってしまいこの身体の持ち主の思考が嫌で仕方なかった。証拠隠滅に必要なのか指紋を残さぬ手袋を嵌めた両手を憎しげに睨む。
ワンチャン、手袋は手の血行予防と考えた言い訳が一瞬でパーだ。
最後に視線を眼下に戻す。
無防備に横たわる意識のない美少女が一人。
現状確認完了。
思わず目を逸らした。現実逃避したい。
非現実的な憑依という異変より凄惨で生々しい事件が視界にある。
死んだと思ったら別人に憑依していた。
それはいい。良くはないけど一応納得できる。
しかし一番重要度の高い問題は、
どうやら男は犯罪者に乗り移ったようだ。
若くして死んでしまった男は憑依という二度目の生を開始する。
しかしその幕開けは崖に転落する直前で始まっていた。
王手ではなく詰み。
チェックメイト。
人生終了一直線のコースのスタートである。
そして男は憑依して早々死にたくなった。
◆◇◆◇◆◇
「助けてください。......じゃないと通報しますよ?」
「それなんの脅迫」
男は少女に追い詰められていた。
少し時間が前後する。
あれからどうするか悩んだ男は逃げても警察機関の捜査能力が怖かったので敢えて逃げず女子高生の目覚めを待つことにした。
示談に持っていけば穏便に解決するかもしれないという打算もあるが、何より強制睡眠中の無防備な少女をそのまま放置して逃げ出す真似はしたくなかった。
目が覚めた女子高生に通報されるか、逃げられるかの瀬戸際、おとなしく待機していた。
ちなみに物騒な荷物は回収して鞄に積めた。
犯罪の証拠隠滅している気分を味わえた。
待つこと数十分、ゆっくりと少女の目蓋が開く。
オドオドとまるで未知の世界に迷い込んだかのように少女はたどたどしく起き上がる。
目と目が合う。
ぱちくりと瞬きを数回。
ひっ、と小さな悲鳴。
大声じゃなくて良かったと安堵してる暇もなく、後退りする気弱な女子高生をどう対処すべきか思い悩むことになった。
「......あー」
「ひっ」
何を言うでもなくただ漏れた声に悲鳴をあげる少女。青ざめた表情で身体を震わせている。
男がどう弁解しようが怯える彼女に訊かせられる言い分はないのだと悟る。
「わりぃ」
話がどう転ぼうとも危害を加えようとしたことにかわりない。男を信用して貰うには無理がある。
それどころか無為に彼女の不安を刺激するだけだ。
その場を取り繕うとも彼女を信頼させる言葉を与えることはできない。
謝罪だけして逃げよう。
それが男ができる唯一の良心的で建設的な解決手段だった。
「ごめんな」
それだけ呟いて踵返した。
「ま、待ってください」
と声が懸かる。
立ち止まるべきか無視すべきか大いに悩む。
加害の意思のない今の男は立場的に非常に不利である。
先程の少女の怯えぶりは本物であった。
今しがた自己防衛だけに意識を働かせてるなら良い。逆に攻勢に出られて糾弾でもされてしまえば男はお仕舞いだ。
この身体の持ち主である犯罪者が逮捕されてしまうのは世間的にも良いことであるが、何と言っても今は男と一蓮托生の身。
我が身可愛さの保身、というより知りもしない奴が勝手に起こした犯罪の責任をとらされるなんて冗談じゃない。
しかし無視して逃避するのも無責任でないのかと考える。
有り体いえば良心の呵責なのだろうか。
男は悪くない。だが男の元の身体の持ち主は悪い奴だ。そして男とそいつはもはや無関係とは呼べないだろう。二度目の確認となるが文字通り一蓮托生の身。
男の意思ではないが乗っ取った相手の事情だ。
乗りかかった船、ではなく乗り移った身体の事情を無視することはできない。
結局男は立ち止まった。
「あなた麻生......さん、ですよね?」
勇気を振り絞るように制服の少女は言った。
どうやらこの危ない身体の持ち主と知っているらしい。ただ表情も声も固かったので良好な関係とまでは言えないのかもしれない。尤も自分を拐おうとする犯罪者に仲が良い悪いもないだろうけど。
それよりも出てきた重要な情報に関心が湧いた。男の名前だ。麻生というのが彼の名前らしい。ふっと気になって手持ちの荷物を探った。
ズボンの後ろポケットに目的の物を見つけ出したので更に調べ上げる。
財布から身分証を発見した。バイクの免許証に名前が載ってる。
そこにある初めて見る顔写真と名前。
麻生堂弘、十九歳。
長めの黒髪、端正だが何処か陰のある美形の男だ。
その容姿はやはり男の知る人物のものでなかった。
手にある財布をしまう。
すると男の行動を少女が不審げに見ていた。
「......ああ、麻生は俺だな」
質問から何も答えていなかった男が呟いた。
とにかく中身が別人であろうと成りすますのが賢明だろうと判断した。
刑法に引っ掛かる世知辛くもややこしい事態で忘れそうな話だが男は憑依という奇怪な状況にいる。
誰も信じないであろうがバレたら大問題だ。
下手な発言で刑務所から精神病院にランクアップの畏れがある。
「......」
女子高生は男のことをこれでもかと凝視していた。
なにやらヘマをしたのかと内心焦る。
少女は男を観察しているが警戒しているか何も言ってこない。
呼び止められたものの立ち往生するのも不味いと感じた。
男の意識では彼女の事情も誘拐未遂の件も知ることはないのだ。
事情聴衆でもされた日には黄色い救急車の都市伝説に遭うだろう。
「こんな真似をして悪かったな。二度と近づかないと約束する。約束が守れなかった場合通報でもなんでも好きにしていい」
大きな失敗を冒す前にまくし立て、彼女から離れることにした。
それこそ大きな過ちだったのであろうが、この時男はテンパっていた。
背を向けた少女に振り返らないように後にする。
「あなたは誰」
決定的な所を少女に看過された。
それからだ。波乱に満ちた男に本当の意味で無理難題が押し寄せることになるのは。
男が憑依した人物は直前まで誘拐目的で行動していたストーカー。
そして彼はヤンデレと呼ばれる精神的に病んだ歪な偏愛者なのであった。