絵かきの夢
-江戸時代の、私の大好きな絵師に登場してもらいました―‐。
-昔―‐京の町に、枡屋という大きな八百屋が在り、主人の茂右衛門は風変わりな男で、嫁もめとらず、趣味で絵をたしなんでいたが、その腕前は天下一品。誰にも真似の出来ない、本物の様な絵を描く―‐。
-しかし、商売の方には興味が無く、四十になると若い者に家督を譲って、自分は隠居の身分になってしまった。-そして、これでもう遠慮は要らんと、ひたすら好きな絵を描いて暮らし始めた―‐。
-商家の隠居の優雅な暮らしで、付き合う友人達も、いわゆる文化人である―‐。
-そんな中、ある時、美濃屋清兵衛という、近所で商売をする友人が訪ねて来た―‐。
-清兵衛は「実は、手前の夢に、何や知らんが、出雲の阿国が出てまいりましてな―‐手前には、阿国が何かを言いたかった様な気ぃがしてしょうがおへん―‐そこで、茂右衛門はんに、阿国の絵を描いて貰おうと思て来ましたんどす―‐」と頼んだ―‐。
-茂右衛門は、清兵衛の依頼を二つ返事で引き受けた―‐。-京の町では、出雲の阿国を主題とした芝居が演じられる事もあり、その印象で描けば良いと考えたからである―‐。
-枡屋の中庭を臨む一室で一人、机の前に座った茂右衛門であったが、いざ阿国を描こうとすると、やはり、その実像が気になる―‐。
-机の上の真っ白な和紙に向かって、一心に瞑想し、阿国像を模索していた―‐すると、不思議な事に、和紙に見た事も無い風景が映し出された―‐。
-気がつけば、茂右衛門は、その風景の中を歩いておった―‐。そこは、出雲の阿国が生きた、江戸時代初頭の京都。-四条河原であった―‐。
-河原には、芝居の舞台が設営され、木戸銭を持たない者には覗け無い様に幕が張られていた―‐。
-幕の外側にも人々が集まり、活況を呈していたが、茂右衛門は、その人波の中を弾む様に歩いた。身体が軽い―‐。-その時「三十郎~!」と呼ぶ声がして振り向くと、男が「何をしておる―‐出番じゃぞ―‐」と言った―‐。
-「三十郎とは自分の事か‐?」茂右衛門は、何故か勝手を知っていて、幕の中の舞台裏に入っていった―‐。
-舞台では、大名の家来の、太郎冠者が、廓に遊女を買いにゆく演目が行われていた―‐。-いきなり、太郎冠者役の三十郎(茂右衛門)の、出番である―‐。
-彼の身体は勝手に動き、役をこなして、いよいよ太郎冠者が、廓の遊女と対面する場面となった―‐。-その遊女の美しいこと―‐「これが阿国か―-!」と茂右衛門は、驚きと感動のため息をついた―‐。
-阿国の扮する遊女は華麗に踊り、一枚、又一枚と衣を脱いでいったが、その度に集まった客から歓声が湧き上がった―‐。
-そして、彼女は、薄衣一枚の前をはだけ、茂右衛門の前に横たわった―‐!。
-当然の事ながら、大勢の前で茂右衛門は緊張し、だらしなく萎えていたので、客達は大笑い―‐。-しかし、太郎冠者の役どころとしては、これで良かった様である―‐。
-無事に芝居も済んで、茂右衛門は、小屋の中で、老若男女十数人の仲間達と一緒に夕げを食べた―‐。-化粧を落とした阿国の横顔が灯明に映し出されていたが、それは益々美しく、薄暗い小屋の中で一際輝いていた―‐。
-阿国歌舞伎に協力する三十郎(茂右衛門)は、彼女の内縁の夫でもあった―‐。
-しかし、やがて徳川幕府によって、女歌舞伎が禁止になると、元々、出雲大社の巫女であった阿国は、出雲に帰ってしまった―‐。
-女歌舞伎から、やむなく、野郎歌舞伎の時代へと移り変わるのを見届けた三十郎は、天寿を全うして他界した―‐。
-茂右衛門が、三十郎として生きた年月は、ほんの一時で、彼は枡屋の一室で目覚めた―‐。-そして、生き生きとした阿国を描いたが、それは、美しい遊女の役を演じる阿国であった―‐。
-美濃屋清兵衛は、その話を聴いて「枡屋はんほどの絵かきになると、不思議な事もあるもんどすな―‐」と感心し「おおきにありがとう―‐この絵は、阿国の供養の為に使わせてもらいます―‐」と言ったので、茂右衛門も満足であった―‐。
-京の町の、枡屋の隠居で希代の絵師=茂右衛門とは、別の名を、伊藤若冲という―‐。
-いかがだったでしょうか―‐。
-伊藤若冲の、別の冒険譚を又、書くかも知れません―‐。