優しい夢の終わりには
英雄だとか。
救世主だとか。
そんなんじゃない。
俺は、大切な人ひとりも護れない無力な人間。
「--」
血溜まりをつくる彼を抱きしめたまま、彼女は唄うことを止めなかった。
零れ落ちるのは、彼の好きな唄。
焦点を結ばない彼女の瞳が映すのは、在りし日の彼の笑顔。
「--」
いっそ罵ってくれたなら。
恨んでくれたなら。
どれ程楽になれただろう。
「……ヴェル」
「--」
贖罪のように零した名前さえ、彼女を呼び戻すことはない。
彼女は拒絶したのだ。
彼が息絶えた瞬間に、彼女の世界も崩壊した。
在りし日を繰り返すだけの夢の中で、彼女はただ唄を零す。
「--」
親友の命を奪い、大切な人の心を壊した。
それでも人は、俺を英雄と、救世主と呼ぶのだ。
世界と彼と。
『選べ』
選択肢など、あったのだろうか。
世界を突き放して、彼を選んでも。
彼を壊して、世界を選んでも。
あの日には帰れない。
彼と彼女と俺と。
風の渡る丘で、太陽に夢を翳した。
ただ当たり前のような午後。
「--」
「……」
俺にはもう赦されない。
彼の名を呼ぶことも。
彼女に想いを告げることも。
英雄だとか、救世主だとか。
そんなくだらない名前に縛られるだけ。
それだけのことに過ぎないのに。
「ぁ……」
叶うのなら、彼の親友と誇りたかった。
願うのなら、彼女の特別と憧れられたかった。
泣くことも、笑うことも、怒ることも、もう総て手放したはずなのに、ともすれば零れてしまいそうだった。
身勝手に彼を手に掛けて、なお。
『望め』
俺は他人事のように、右手が持ち上げるその剣を眺めていた。
「--」
真正面に立っても、彼女の虚ろな瞳は血濡れた剣を映さない。
「--ラジィル」
彼女の口から落ちた、俺には紡げない彼の名が、ふわりと風を纏って頬を叩いた。
「っ」
謝ることはしない。
許してほしいとも望まない。
彼女が楽になるように、俺が俺のためだけに剣を振るう。
「--」
別れは言祝がない。
見えないからではなく、必要がないから。
溢れた鮮紅に俺は小さく小さく笑った。
「あぁ、世界は」
-箱庭No.1037。箱庭No.1037。CaseΩにて終了。繰り返す。CaseΩにて終了。
けたたましくわめき立てる機械音に、真山はうんざりしたように顔をあげた。
立ち上がれば、床につきそうな長い白衣が翻る。
鮮やかすぎる紫紺の長い前髪の下は、随分と整った顔立ちだが、如何せん不健康そうに痩けた頬と目の下の隈が、近寄り難さを醸し出していた。
「またですか?好い加減飽きて欲しいのですけれど」
ぼそりと呟いた言葉は、誰に告げるでもない独り言。
何枚も並ぶディスプレイの一枚に歩み寄って、真山は紅く染まる画面に嫌そうに眉を顰めた。
「耳障り、なんですけどね」
壊れた唄謡は歌いつづける。
今しも目の前を染め上げる朱い花に気づかないまま。
濡れた剣を抱いて、小さく笑ったまま覚めぬ眠りについた救世主にも。
眠るように静かな表情で、固くその瞳を閉じた破滅主にも。
だからこそ彼女は気付かない。
パネルを見上げる真山の、その憂いの理由にも。
「早く、終わらせてくれませんかね」
並んだディスプレイに写るのは、どれもかれも三人の姿。
カナリアに切っ先を奮った救世主。
破滅主の刃に倒れる救世主。
救世主と破滅主の間に割り込んで、双方の剣に貫かれるカナリア。
そして、カナリアに貫かれる二人の主。
「まだやってるの、マヤマ?」
呆れたような声に、真山は振り向かないことで肯定を示す。
「好い加減諦めたら?」
「云っておきますけどね、明里。諦める気があったら、とっくにやめていますよ」
酷く投げやりなのに、ぶれないその言葉を拾い上げて、明里は小さく笑った。
「そうだね。マヤマは、そういうヒトだ」
真山の横に並んで、明里もディスプレイを仰ぐ。
視界の端で朱が揺れた。
「ねぇ、マヤマ」
「なんですか」
「マヤマは、どんな結果になったら良いと思ってるの?」
無邪気な問い掛けに、真山は少しだけ目を細める。
「そういう明里はどうなんです?」
「え、ボク?ボクはどれでも構わないよ。だってそれが、"あるがまま"だもの」
いくつものディスプレイを仰いで、受け入れたように笑う明里に、真山は小さく鼻を鳴らした。
「え?なあに?」
「なんでもありませんよ」
だから諦められないんですよ-呟いた言葉を掻き消して、真山は未だ選択に至らないディスプレイに視線を移す。
「花が、咲かないこと?」
「はい?」
唐突に紡がれた言葉に、僅かに眉根を寄せて明里を振り返った。
「ミツカサが云ってたよ。マヤマはそれを望んでるんじゃないかなって」
柔らかく苦笑する御宰が見えるようで、真山はその目を僅かに細める。
「そんなことは、ありませんよ」
そんな都合の良いことは望んでいない。
きっとそれはまた、何処かで破綻する。真山はそれを知っていた。
「私はただ、創造主とやらの掌から抜け出したいだけです」
救世主だとか破滅主だとか、そんな役割を無造作に彼等に貼付けた創造主。
どうして彼等だった?
どうして奪われなければいけない?
廻る思考は堂々巡り。
そして結局、自分は無力だという結論にたどり着く。
「結局、私の我が儘です」
失いたくない。
何れは何らかの形で幕を閉じるとしても、こんな形で奪われるのは、終わるのはどうしても。
何千何万回の試行。
繰り返される確率計算。
いつたどり着くともしれない、何億分の、いや、何兆分の1の未来。
「ねぇ、マヤマ」
残酷なくらい優しい声音で、明里が笑う。
「ボクもミツカサも、マヤマが思ってくれるだけで充分救われてるよ」
だからもう、良いんだよ-幾分か背の低い明里が、背伸びをして暖かな手で真山の頭を撫でた。
その手の冷たい感触を、知らないのに識っている。
ディスプレイの中で笑う破滅主。
彼の手に触れたら、きっとこんな暖かさなんだろう。
此処で時を止めていても、いつかは進んでしまう日がくることを真山は恐れていた。
救世主に、破滅主に。
創造主の与えたそんな役割に搦め捕られてしまう日を。
けれど、明里も御宰も、それで良いと微笑むから。
「良いわけないでしょう」
「良いんだよ」
明里の言葉の前で、真山の言葉はどこまでも儚い。
「ボクらが出逢ったことで、配役を与えられるなら、ボクもミツカサも喜んで受け取る。マヤマとミツカサと。三人で生きることを与えてくれた。それ以上に望むことなんかないよ」
「だから、諦められないんじやないですか」
呟くように、零れ落ちた。
何度繰り返したかしれないその小さな想い。
「受け入れるのは、諦めることじゃないよ。ボクは、ボクらは選んだんだ」
伸ばされた手に戸惑って顔をあげる。
「だからいいんだよ。諦めるんじゃなくて、認めてくれない?限られた時間でも、一緒にいることを」
それとも出逢わなければ良かった?-少しだけ。陰った弱さに反射的に手を掴んでいた。
「そんなわけ」
「良かった。だったらもう、歩きだそうよ?」
「え?」
何を云われたのか、わからない。
そんな真山に苦笑して、明里は振り向いた。
「確率なんて関係ないよ。ね、ミツカサ」
「そう。関係ない。笑え、真山」
「み、つかさ」
鮮やかすぎる程の蒼。
明里の朱に並ぶと、良く映える。
「なんだ、怖いのか?俺と明里で手でも引いてやろうか?」
揶揄したような響きの底は、どこまでも優しい。
一瞬だけ目を伏せて、それから真山は顔をあげる。
「馬鹿じゃないですか。そんなことしてもらわなくても歩けますよ」
「そりゃ良かった」
顔を見合わせて笑う二人をみて、真山は長い白衣から袖をぬいた。
二人のように、総てを受け入れたわけではない。
けれど
「結局。私の我が儘で、二人を無駄に閉じ込めてしまったようですね」
「それは違うよ」
「それは違うな」
朱と蒼。
明里と御宰の言葉が重なった。
「何の準備もなく歩き出せるほど、ヒトは強くないよ」
「馬鹿。逃げていいんだ。逃げてもまた歩き出せるなら、無駄な訳ないだろ」
「……」
紡げない言葉の変わりに、乱暴にディスプレイの電源を落とす。
騒ぎ立てていた機械音も、空虚な歌声や笑い声も呆気ないほど簡単に、真山の世界から消えた。
こんな風に、失われていくばかりなんだろう。
世界に生きると云うことは。
それを認められなくて、世界の枠から外れようとしたけれど、結局のところ大切だからこそ戻らなければいけない。
「寧ろ、俺達の我が儘なんだよ」
くしゃりと頭に触れるのは、長く節だった手。
「俺達の役割に、お前が巻き込まれた。手を離さなかった俺達が勝手だろ」
だから泣くなよ、真山-ぽんと勢いよく頭を叩いて、御宰はくるりと踵を返した。
「先行くぞ」
「下で待ってるね」
御宰の後ろ姿と、明里の笑顔が扉の向こうにぱたりと消える。
最果ての塔。
時間の止まった場所。
いくつものディスプレイの並ぶ、研究室。
カミサマに逆らおうとしたカナリアが、青空と夕焼けと暮らした優しい優しい夢の中。
もう二度と戻らない場所を一度だけ振り返って、真山はぱちりと電気を消した。
真っ暗な中で、扉だけがふわりと浮かぶ。
残酷な現実と知っても、二人のいないこの場所には意味がない。
世界はモノでできている。
大切なモノが集まって世界になる。
だから、それを失ったら、やっぱり世界は壊れてしまうだろう。
けれど、止めた時の中でもやっぱり世界は壊れるのだ。
緩やかに、慢性的に。
降り積もらない記憶の中では、世界は生きていけないから。
扉に伸ばした手を、静電気にふれたように反射的に引いてから、真山は本当に小さく苦笑した。
『先行くぞ』
失う為に動き出しても、得た時間は確かにある。
得たからこそ、失うのだ。
失うことは、得たことの否定にはならない。
『下で待ってるね』
両手を伸ばして、真山は思い切り扉を開けた。
これは、終わり。そして、始まり。