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第5話 回想と邂逅


地の底とも、空の果てともつかぬ場所にそれは存在する。


世界の地図には記されず、伝承にも断片しか残らぬ、死者の静寂が満ちた領域。


その中心に聳える巨大建造物こそが、死神教団の本拠――冥殿である。


冥殿は城であり、神殿であり、墓でもあった。


外壁は黒曜石にも似た深い闇の石で構築されており、光を吸い込むように鈍く輝く。


しかし完全な暗黒ではない。石の内部には青白い燐光がゆらめき、まるで魂が閉じ込められているかのように脈動している。


塔は幾重にも重なり、空へ向かう尖塔はまるで巨大な墓標のように天を刺す。


その造形は神聖建築に近いが、どこか歪で、人間の宗教建築とは決定的に異なる。


門は存在するが、開閉の概念はない。

訪れる者が許された時のみ、影が裂けるように入口が現れる。


殿内へ足を踏み入れると、まず訪れるのは音の消失だった。


足音は響かず、呼吸すら空気に溶ける。


ただ遠くで、低く唸るような晩鐘の音が一定の間隔で鳴り続けている。


それは時を刻む鐘ではない。

死を告げる鐘でもない。


ただ、魂が流れる音であった。


天井は果てしなく高く、夜空のような暗闇が広がっている。


そこには星の代わりに、ゆらゆらと漂う青白い光の粒が無数に浮かんでいた。


それは魂である。


回廊は迷宮のように続き、壁には古代語とも神語ともつかぬ碑文が刻まれている。


その内容は祈りではなく、記録でもなく、「死者の名前」だった。


数え切れぬ名前が刻まれ、そして刻まれ続けている。


中央には巨大な円形の広間――「魂環の間」が存在する。


そこには床一面に黒い水鏡のような素材が敷かれ、歩くたびに波紋が広がる。


だが水ではない。それは魂の流れを映す「冥界の写し鏡」と呼ばれるものだ。


円卓は存在しない。

幹部たちは影の柱のように配置された黒い座に立つ。


その座は椅子ではなく、墓碑であった。

玉座は最奥にある。だが玉座は空である。


そこに座る者はおらず、ただ巨大な鎌の紋章が浮かんでいる。


死神の不在と存在を同時に示す象徴。


冥殿の奥底には「冥門」と呼ばれる裂け目が存在するとされる。


それは扉ではない。


世界の裏側へと繋がる、死の境界そのもの。


冥殿は建物ではなく、「境界」だった。


生と死


世界と冥界


記憶と忘却


そして光と闇


それらの境に建てられた神殿である。



冥殿の奥に潜む影たち。


揺らめく燭火が、彼らの輪郭を歪ませる。


死者の囁きが、石の壁の奥から絶え間なく滲み出ていた。


「ヴァルハリオンは討たれた。魂の残滓の回収は不可能だ」


鎖の擦れる音、重装の男が腕を組み、静かに口を開く。


鎧の隙間から青白い魂火が揺れている


「へぇ、帝級でも簡単に死ぬのね。実験対象として再利用していいかしら。ネレウス」


「よせ。所詮その辺の雑魚と同様、英雄クラスには程遠い。にしても気味の悪い鬼オーガを撒き散らすなリリス」


「良い作品だったんだけど、無理くりしたせいで腐敗して死んじゃったみたいね。でも面白いわよねぇ。ヴァルハリオンを殺せる人間がまだいたなんて」


指を机で遊ばせながら、白衣を纏った妖艶な女性は狂気を含みはにかむ。


魔族的な角が生えており存在感を放つ。


長い桃紫色の髪が背中に流れ、瞳は毒々しい翡翠色。


笑い方は軽く、言葉遣いも柔らかいが、リリスは狂気的な興奮を隠さなかった。


「殺したのは、ユリウスという名前の少年。でも気になることが一つある」


黒と灰のローブに包まれた少女は透けるような白髪と、焦点を結ばない蒼い瞳で常にどこか遠くを見ながらぽつりとつぶやく。


「聞かせよ、セラフィム」


玉座に座り静観していた男が言葉を発する。


黒と深紅の法衣は王族を彷彿とさせる。


肩まで伸びた長髪の黒に、全てを焼き尽くすが如く紅の瞳。


胸元には死神の紋章が刻まれており、頭には王冠ではなく「骨の輪」が載せられている。


「はい、ガウス様。あの名、死者の記憶に存在しない」


セラフィムという少女は水晶に手をかざし、覗き込む。


言葉は短い。


だがその一言は未来を歪める重みを持つ。



「不死身ということですか?」


整った顔立ちの紳士が指を組む。音もなく言葉を落とした。黒いスーツのような衣装に、白手袋を嵌めている。


「カイン、ちがう。死という輪廻にその名前がない。因果が逸脱している」


少女は少し考えた後、首を傾げながら言う。


感情の起伏はほとんどない。


ただ、わずかに瞳が揺れている。


「【冥界の預言者】の精度は間違いがない。恐らく敵でしょう。排除しますか?私の剣で」


黒い鎧を纏った白髪の女剣士は腰の剣に手を当てて尋ねる。背は女性にしては高く、170センチにもなる。


「控えよ、エルナギス。時期尚早。死の流れを拒む者はいずれ死を統べ、大きな大輪となる。」


ガウスは腕を組み、続ける。


「奴の監視は怠るな」


「まず、勇者を殺すのが先でしょう。18代目勇者アリス・ウェールの動向について説明して貰いましょう。【骸骨の楽士】オルフェ」


神士がタキシードを少し整えながら言うと、ヴァイオリンを撫でながら、影に潜んでいた男が歯を見せて笑う。


「【静寂の調停者】サマは人遣いが荒いねぇ。アリス・ウェールは現在大雪原大陸の雪の都市にて視察を行っているようで。先代勇者が死んだ場所を調査するとかなんとかでねぇ。こりゃまた死ぬねぇ、悲劇だねぇ」


長身で痩せた男は骸骨模様の衣装に、金の骸骨模様の意匠が施された楽器を携えている。


長い金髪が揺れ、瞳は狂気を宿した紫。


常に微笑み、まるで舞台に立っているかのような仕草を見せている。


「現勇者は……紋章が出ていないと聞くが」


重低音。


黒鉄の鎧が僅かに軋み、巨躯の騎士が口を開いた。


兜の奥にあるはずの視線が、卓の中心へと落ちる。


白い指先が机をなぞる。


「ええ、そうよ。グラウス。

彼女はまだ――勇者“適格”の段階。」


頬杖をついた少女が気怠げに答えた。


白磁の肌、淡い銀の髪。


だがその瞳は、幾千の死体を解剖してきた医師のように静まり返っている。


指先からは緑の霊光が滴り、背後では名もなき骨が音もなく漂っていた。


「ミント貴様……!」


魂を燃やす鎖が揺れる。

低い怒気とともに、霊鎖の男が身を乗り出した。


「終焉の座の御前だ。その態度、【死霊の絶傑】とて赦されぬ。改めよ」


だが少女は視線すら向けない。

頬杖の角度をわずかに変えただけだった。


「――構わぬ」


玉座から、静かな声が落ちる。


「余が許している。それよりも、だ。」


闇の中心が問いかける。


「何故、勇者に紋章が現れぬ」


勇者は“成った瞬間”に刻まれる。

手の甲に現れる紋章こそが、勇者の証であり、力の源。


だが当代勇者には――それがない。


沈黙。


その空白を、か細い声が割いた。


「……一つ、心当たりがある」


虚空を見つめたまま、預言者が呟く。

焦点の合わぬ瞳は、この場にない何かを追っていた。


「十七代勇者の死の流れが……見えない」


微かなざわめき。


「死はあった。けれど、流れが断絶している。

まるで――死んでいないように」


空気が凍る。


白衣の女が、くすりと笑った。


「へぇ。十七代勇者なら、私が“確かに”殺したはずだけど?」


衣を肩から滑らせる。

白が落ち、下から現れたのは死の香りを帯びた黒。


緑の霊光が、わずかに強まる。


「ねえ、それって――どういう意味?」


「終わりがない」


「は?」


リリスが眉をひそめる。


「何それ」


「死はあった。でも、流れが閉じていない」


沈黙。


「死者の記憶の海に、彼はいない。普通なら溶けるはずなのに」


冥殿の灯が、微かに揺らぐ。


「つまり……」


エルギナスが静かに言う。


「殺したはずの勇者が、完全には死んでいない可能性がある、と」


「そんなはずないわよ」


リリスは笑う。

だがその笑みには、わずかな違和感が混じっていた。


「アタシの研究は完璧よ。不完全な死なんて、ありえない」


「だが事実として、流れは歪んでいる」


ネレウスの鎖が静かに鳴る。


「勇者の死が閉じていないなら――次の勇者の覚醒もまた、不完全となる」


「それがアリスってわけね」


ミントが面白そうに笑う。


「可哀想に。勇者になったのに、勇者になりきれてない。彼女が背負うのは勇者の力ではなく、重圧だけ。」


「哀れ」


グラウスの声が落ちる。


「継承の歪みは、戦乱を呼ぶ」


「いいじゃない、戦乱。アタシは好き」


オルフェが弦を鳴らす。


「悲鳴が増えるほど、世界は美しい」


セラフィムが小さく言う。


「死の流れから外れた存在が、もう一人いる」


「誰だ」


玉座の闇が揺れる。


少女はしばらく沈黙し――


「まだ、形が曖昧。でも近い。とても近い」


「勇者か?ユリウスという少年か?」


「違う」


かすかに首を振る。


「勇者でも、彼でもない。

でも……死に触れている」


リリスの瞳がわずかに細められた。


「……面白いわね」


「物語を壊す異物ってやつか」


オルフェが笑う。


「舞台が荒れるねぇ」


その時、玉座から低い声が落ちた。


「勇者の死が未完ならば、十八代で補うまで」


闇が深まる。


「勇者の血は必須。例外はない」


静かな指先が机を一度だけ叩いた。

その音は小さいはずなのに、冥殿の全員の意識を引き寄せる。


「……では、結論といたしましょう。」


柔らかな声。

だが、そこに温度はない。


「十八代目勇者――アリス・ウェール。

紋章は未だ発現せず。現段階では完全な“勇者”ではなく、ただの器に過ぎません。」


わずかに間を置き、視線が虚空をなぞる。


「ゆえに、即時殺害の必要はありません。勇者の血は完全な覚醒体でなければ意味がない…

刺激は避け、静かに監視を継続してください。」


そして、言葉の刃が向きを変える。


「……問題は、もう一人です。」


冥殿の空気がわずかに重くなる。


「死の流れに存在しながら、その終着が見えない存在がいる。」


かすかな微笑み。


「勇者ではない。だが、勇者以上に不確定。」


白手袋の指が静かに組まれる。


「よって、彼は“観測対象”。

接触は任意。ただし――見失うことは許されません。」


そして最後に、静かな宣告。


「18代目勇者の紋章が発現した時点で、状況は変わります。その瞬間、彼女は器ではなく完全な“勇者”となる。」


一拍。


「確認次第、殺害。情も、猶予も、不要です。」


わずかな礼。


「以上をもって、本日の議題を終了といたします。

そして教団に対する妨害も顕著になっております。死の円環を乱すものには相応の終焉を」





馬車は、ゆっくりと揺れていた。


乾いた車輪の軋む音が、一定の間隔で耳に残る。


それは子守唄のようでもあり、遠ざかる過去を刻む鐘のようでもあった。


ウェスタリアの城壁は、もう見えない。


振り返らなかったからではない。


振り返ったとしても、きっともう見えなかったのだろう。


街というものは、案外あっけなく人の視界から消えてしまう。


僕は街から離れる経験をしたことがなかった。


たしかに今思えば、暮らした古家も森の中に溶けていった。


けれど、胸の中から消えることは、きっとない。



木製の座席に背を預ける。


薄い布越しに伝わる振動が、体の奥に残る傷を静かに揺らした。


身体の痛みは、まだ完全には引いていない。


だが不思議と、それは嫌な痛みではなかった。


生きているという実感に、どこか似ていた。


指先が、無意識に胸元へ触れる。


そこには何もない。


それでも一瞬だけ、微かな温もりの記憶がよぎる。


小さく息を吐いた。


街道は、静かだった。


風が草を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。

空は、どこまでも高い。


あの日見上げた空と、同じ色だった。


どこまで行っても、空は変わらない。


人が変わり、場所が変わり、時間が流れても、

空だけは――


ずっと、同じ場所にある。


それが少しだけ、救いのように思えた。


旅というものは、思ったより静かなものだ。


魔物も、戦いも、

剣戟の音も、悲鳴も、ここにはない。


あるのはただ、

車輪の音と、風と、

そして自分の呼吸だけだった。


静寂は、嫌いではない。


むしろ――慣れている。

失われた森で育ったからだろうか。


だが今日の静寂は、少しだけ違っていた。


それは、過去の余韻が薄く漂う静けさだった。



市場の喧騒。酒場の笑い声。


朝の光に満ちた街の空気。


それらは遠く、淡く、

夢のように思い出される。


記憶の中で、

一瞬だけ赤い光が揺れた気がした。


だがすぐに、風に溶ける。


思い出は掴むものではなく、きっと通り過ぎるものなのだろう。


きっとまた誰かと出会い、別れ、その刹那を人間というのは尊く想うのだろう。


きっと彼女も色々な人と出会って。


いや、今は億劫だから考えるのを辞めておこう。


馬車が小さな段差を越える。


体がわずかに跳ね、意識が現実へ戻る。


御者が口笛を吹いていた。


呑気な旋律だった。


それが少しだけ、羨ましくなる。


世界は、何も変わっていない。


誰かが死に、誰かが泣き、

それでも朝は来て、馬車は進む。


止まることなど、ない。


ふと、森の匂いがした。

懐かしい匂いだった。


湿った土と、葉の匂い。

遠くで流れる水の音。


一瞬だけ、幼い頃の記憶がよぎる。

小屋で過ごした日々、剣を振るった毎日。


豪邸や城みたいな絢爛な景色よりも、あの木の匂いが落ち着いた。


レヴァリアの背中。

剣の音。

焚き火の光。


「自由に生きろ」


その言葉が、胸の奥で静かに響いた。


僕は、頷いた。


誰に向けるでもなく、


ただ小さく。


きっとそれは傍から見たら馬車の揺れでしかないと思う。



孤独は、嫌いではない。


孤独は、誰にも縛られない証だから。


けれど、孤独の中にも、確かに残るものがある。


それは声であり、

笑顔であり、

触れた温もりであり。


だが今は、それを振り返る必要はない。


前へ進むために、

すべてを抱えたまま進めばいい。


だから今日だけは、孤独も良しと知る。


やがて、夕暮れが訪れる。


空が橙から紫へと変わる頃、

馬車は小さな宿場町へ入った。


灯りが一つ、また一つと灯る。


どこにでもある町。

誰にでもある夜。


それでも、

今日の空は少しだけ優しかった。


「……」


目を閉じる。


車輪の音が、遠ざかる。


意識が、ゆっくりと沈んでいく。


最後に浮かんだのは――


名前も形もない、

淡い光の記憶だった。


喧騒の街並み、活気ある市場。


焼けるパンの匂い、そして川のせせらぎ。


そして銀色の陽だまりのような少女。


過ごした日々に名前をつけてしまうのは、何だか陳腐に思えて気が引けた。


だから今日だけは名もない日々も、彩られたそれを、決して忘れないように胸にしまっておこう。


旅は、まだ始まったばかりだった。


それでも確かに、

何かを置いてきた。


そして同時に、

何かを手に入れた。


それが何かは、まだわからない。


だが――


胸の奥で、

小さな灯のように揺れていた。


消えない、灯だった。


余韻は、やがて風に溶けていった。


街道を進む日々の中で、

車輪の軋みも、宿場の灯りも、

旅人たちの何気ない会話も、

すべてが静かに重なり合っていく。


特別な出来事はなかった。


魔物に襲われることもなく、

剣を抜くこともなく、

ただ歩き、眠り、また歩く。


それでも――


確かに、心のどこかが変わっていた。


戦いの記憶も、別れの温度も、

完全に消えることはない。


だがそれは、痛みとしてではなく、静かな層となって心の奥へ沈んでいった。どこか深くに溶けていく。


その行き先は不明だが、追うものではない。


旅とは、そういうものなのかもしれない。


失ったものを抱えながら、それでも歩み続けること。

失ったものを数えながら、それでも忘れないこと。



数日後。


遠くの地平線に、

灰白色の壁が現れた。


最初は雲かと思った。だが違う、壁だった。


巨大な城壁。いくつもの塔が天へと伸び、

白い石が陽光を反射している。


その壁の末端を視認することすら叶わない。ただ、水平に少し浮かび上がる輪郭を捉えることでさえ必死だ。


帝都ロイヒリア。


その姿は、

まるで世界そのもののようだった。



街道は徐々に賑わいを増していく。


商人の隊列。

巡礼者の群れ。

冒険者らしき者たち。


皆が同じ方向へ進んでいた。


巨大な門の前には、

長い列ができている。


人種も、服装も、

言葉さえも異なる人々が、

ただ一つの門を目指していた。


世界が交わる場所。


それが帝都だった。



門をくぐると、空気が変わる。


石畳の広い道。整然と並ぶ建物。

高い塔、広場、噴水。


行き交う人の数は、ウェスタリアとは比べ物にならなかった。


雑踏の音が、

ひとつの巨大な波のように耳へ流れ込む。


喧騒というより、都市の鼓動、そして鳴動に近かった。


ここでは、誰もが矮小な存在だ。


それでも、その小さな存在が無数に集まり、

ひとつの巨大な生命のように街を動かしている。


立ち止まり、しばらくその光景を眺めていた。

ついに来た。あとはやることをやるだけだ。




帝都ロイヒリアは、夜にこそ真価を現す街だった。


幾重にも重なる橋は、光の帯となって水面を跨ぎ、水路をなぞる蒼い灯が、都市の輪郭を静かに縁取っている。


空へ突き刺さる白亜の尖塔。


その先端に灯る光は、まるで星をこの地に繋ぎ止めているかのように揺れていた。


街全体が、緻密に組み込まれた魔術と知恵だった。


石畳の隙間から滲む淡光。


塔の壁面を巡る魔法回路。


水面に映る灯火は、揺らぎながらも決して消えない。


呼吸するように、都市は光っていた。


俺は、しばらく立ち尽くしていた。


ここが、世界の中心。


学術と魔術と権力が交差する場所。幾多の天才と狂人を生み出してきた街。


帝都ロイヒリア。


かの有名な詩人は、ロイヒリアを「世界の半分」とすら喩えた。


胸の奥で、何かが小さく震えた。


だが感傷は長く続かない。


俺は旅人ではなく、受験者としてここに来たのだから。



試験会場は、魔術院と剣術院の境にある巨大な講堂だった。


双璧の門を潜る者たちが、一堂に集う場所。


人間だけではない。獣人、エルフ、魔族。族種も、年齢も、過去も関係ない。


ただ純粋に実力だけが問われる。


言葉のない緊張が、空気に沈んでいた。



筆記試験は、想像以上に難解だった。


魔術理論や歴史、魔力循環の構造解析、術式分解など、暗記ではなく、思考を要求する問題ばかり。


だが、不思議と焦りはなかった。


アリシア手稿に書き足してきた知識や旅の中で体得した感覚、そしてレヴァリアの教え。


それらが、静かに繋がっていく。

紙の上で、思考が自然と形を持つ。


久しく忘れていた感覚だった。純粋な、知の戦い。



実技試験は、屋外演習場で行われた。


広大なフィールド。

受験者が順に立ち、己の力を示す。


魔術発動の精度。

出力。

応用。

そして戦闘適性。


審査官たちは一言も発さず、ただ見ていた。


俺の番が来る。


場のざわめきが、わずかに沈む。


「開始」


短い合図。


僕は息を整え、左手を掲げる。


魔法陣が展開した。


水。

炎。

そして――影。


空気が揺れた。


影魔術は滅びたはずだと、誰かが囁く。


だが気にしない。


ただ静かに、術を制御する。


威力ではなく精度。

暴力ではなく理解。


魔術を収束させ、静かに消す。


審査官の一人が、わずかに目を細めた。


それだけだった。



結果発表は講堂で行われた。


受験者たちは壇上を見上げる。


ざわめき。期待。沈黙。


そして――


「首席合格」


声が、講堂に響いた。


「アリス・ウェール」


壇上へ歩み出たのは、赤髪の少女だった。


セミロングの髪が揺れる。

無駄のない引き締まった体躯。

そして、迷いのない眼。


自信家。


その言葉が、そのまま人の形を取ったような少女。


正直、ごく普通の可愛らしい女の子にしか見えない。


だが、その存在感は誰よりも明確だった。


彼女は振り返り、見渡す。


その視線は――頂点に立つ者のそれだった。



「次席合格」


「ユリウス・シュヴァルツヴァルト」


一瞬、空気が揺れた。

静かに立ち上がる。


壇上へ向かう足取りは、不思議なほど軽い。


歓声もない。

ざわめきもない。


ただ、視線だけが集まる。


それは羨望でも憧れでもなかった。

きっと、興味。勇者の次席というカタログ。


隣に立つ。


アリスがこちらを一瞥する。


「……へぇ」


感嘆を洩らすような小さな声。


挑発でも、軽蔑でもない。

純粋な興味。


「面白そうじゃん」


口角がわずかに上がる。


僕は何も返さない。

ただ前を見る。



他の合格者たちは一斉に掲示された木版にその名前が刻まれていた。


泣き叫ぶもの、叫ぶ者、受かったのに泣くなと諌める声。


様々が聞こえてくる。僕はそのまま家へ帰った。


帝都の夜は、変わらず静かに輝いていた。


塔の光。

水路の揺らぎ。

星の瞬き。


そのすべてを見下ろしながら、俺は思う。


旅は終わっていない。


むしろここからが、本当の始まりだ。


明日は入学式だ。もう寝るとしよう。

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