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「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/17

「セレスティーヌ。私は聖女リリアーナを選ぶ。——君との婚約は、今日をもって破棄する」


 王太子レオナルドの声が、謁見の間に響いた。

 午後の陽光が、彼の金髪を眩しく照らしている。その隣には、涙ぐんだ聖女が寄り添うように立っていた。片手でレオナルドの腕にしがみつき、もう片方の手で口元を押さえている。

 臣下たちが息を呑む気配が伝わってくる。


「……承知いたしました」


 セレスティーヌ・リーデルハイトは、静かに頭を下げた。

 泣かなかった。

 声も震えなかった。

 ただ、腰に下げていた鍵束に手を伸ばす。

 七つの魔法錠に対応する、七つの鍵。五年間、入浴の時さえ手の届く場所に置いていたそれを、音を立てないようにそっと外した。


「こちらは禁書庫の管理鍵でございます。管理簿と共に、執務机にお返ししてまいります」


「……ああ、好きにしろ」


 レオナルドは鍵束を見もしなかった。

 隣の聖女が「よかった……争いにならなくて……」と安堵の声を零した。


(争い? 何のために?)


 そんなもの、最初からする気はなかった。

 五年間、この婚約から得たものは何もない。王太子は一度たりとも禁書庫を訪れなかったし、セレスティーヌの仕事に興味を示したこともなかった。夜会に連れていかれれば「もう少し華やかにできないのか」と言われ、政務の話をすれば「女が口を挟むな」と制された。

 半年前、魔法錠の老朽化に伴い後任の育成を上申した時も、レオナルドは書類を読みもせず判を押して突き返した。『禁書管理官の後任選定——不要』。あの赤い筆跡を、今でも覚えている。


(——五年間、ずっとそうだった)


 セレスティーヌは一礼し、背を向けた。

 この王宮に来たのは二十歳の春だった。禁書管理官の任を受けてから、一日も休まず、一冊の誤りもなく、機密文書を守り続けた。

 外交秘密協定の原本。王家の血統証明。軍の兵站記録と配備図。この国の根幹を成す文書のすべてが、あの書庫に眠っている。


(でも、もう私の仕事ではない)


 謁見の間を出て、長い回廊を歩く。

 誰もすれ違わない。いつもそうだ。この廊下を通るのはセレスティーヌだけ。禁書庫は王宮の最も奥まった場所にあり、日の光もほとんど届かない。

 五年間、この薄暗い道を毎日往復した。


 執務室に入り、鍵束を机に置いた。隣に管理簿を添える。五年分の貸出記録、封印履歴、温湿度管理の報告書。七冊の台帳に、一日の漏れもなく記録してある。引き継ぎに必要なものは、すべて整えてある。

 最後に、小さな封書を一通。辞表だった。


「——引き継ぎ書類は以上です」


 誰もいない部屋でそう呟いて、セレスティーヌは王宮を去った。

 振り返らなかった。

 母の声が、遠くから聞こえた気がした。


(『誇りを持ちなさい、セレス。どんな仕事でも、やり遂げた人は美しいのよ』)


 ——やり遂げた。最後まで。

 だから、もう泣く理由はない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝。

 王宮禁書庫の前に、文官たちが集まっていた。


「開かない……!」


「馬鹿な、鍵はあるだろう!」


「鍵はあります! ですが、魔法錠が反応しないのです——!」


 禁書庫の扉には七つの魔法錠が嵌め込まれている。この錠は管理官の魔力で刻印されており、管理官が直接鍵に魔力を通さなければ解錠できない仕組みだった。

 魔法錠の設計は、セレスティーヌが五年かけて独自に改良したものだ。以前の錠前は脆弱で、何者かに侵入された形跡があった。だから彼女は自分の魔力パターンでしか開かない錠に作り替えた。

 上司に報告した時、「好きにしろ、書庫番の仕事など知らん」と言われた。


 つまり——セレスティーヌ以外には開けられない。


「あの女を呼び戻せ!」


 レオナルドの怒声が廊下に響いた。

 しかし、宰相カルヴィンが蒼白な顔で首を振る。


「殿下。セレスティーヌ嬢は昨夜のうちに辞表を提出し、領地へ発ちました。……それと、もう一つ」


「まだあるのか」


「アルヴェスト帝国との不可侵条約、更新期限が六日後です。条約の原本は——」


「——禁書庫の中、か」


 カルヴィンが重々しく頷いた。

 原本なしでは条約更新の外交交渉ができない。そしてアルヴェスト帝国は、大陸最強の軍事国家だ。条約が失効すれば、国境の均衡が崩れる。


「他の文官に開けさせろ! 魔法錠くらい——」


「お試しいただきましたが、不可能です。あの魔法錠は設計図すら残っておりません。セレスティーヌ嬢の頭の中にしか」


「なら力ずくで壊せ!」


「扉ごと破壊すれば、中の文書に張られた保存魔法も解除されます。数百年分の外交文書が一瞬で劣化する可能性があると、魔法師が——」


 そのとき、聖女リリアーナが進み出た。


「わたくしにお任せください、レオナルド様。聖なる力で封印を解いてみせます」


 リリアーナは白い手を魔法錠にかざし、聖属性の光を注いだ。

 柔らかな光が扉を包む。

 臣下たちが期待の目を向ける。

 ——しかし、何も起きなかった。


「……あれ?」


 もう一度。今度はさらに強く。

 魔法錠は微動だにしなかった。

 そもそも、この錠は聖属性で動くものではない。セレスティーヌが設計したのは精密制御型の魔法錠であり、属性の力で押し開けられるような粗雑な構造ではなかった。


「な、なぜ……わたくしの聖なる力が通じないなんて……」


 リリアーナの声が震えた。万能であるはずの聖女の力が、たかが書庫番の錠前に歯が立たない。その事実は、謁見の間にいた全員の目の前で明らかになった。


「くそっ……!」


 レオナルドは壁を拳で殴った。

 たかが書庫番だと思っていた。地味で退屈な、書類の番人。それがいなくなっただけで、王国の外交と軍事と王位継承——そのすべてが凍りつくなど、想像もしていなかった。


「……殿下。それと」


「まだ何かあるのか!」


「アルヴェスト帝国の外交使節団が、本日到着いたします。団長はノヴァルティス公爵閣下。条約更新の事前交渉が目的です」


 そして宰相はもう一つ、静かに付け加えた。


「引き継ぎ書類を確認いたしましたが、セレスティーヌ嬢は後任への魔力刻印移行に三ヶ月を要する旨、注記しておりました。半年前に後任育成の上申書も出ていたようです。決裁欄には——殿下の『不要』の判がございました」


 レオナルドは言葉を失った。

 自分で自分の首を絞めていたのだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アルヴェスト帝国公爵、ヴィクトル・ノヴァルティス。

 帝国の諜報と外交を一手に束ねる男。冷徹な交渉術から「氷の公爵」と呼ばれ、彼と相対して無傷で帰った外交官はいないと言われている。

 三十歳、独身。社交界では数多の令嬢が秋波を送るが、「書類の山に埋もれている方が好きだ」と公言して全て断っている変わり者でもあった。


 その男が、ラグランジュ王宮の応接間で紅茶を口にしながら、淡々と告げた。


「条約原本をご用意いただけないとなると、交渉を進めることができませんね」


「も、もう少し待ってくれ。禁書庫の鍵が少々——」


「お待ちすることは構いません。ただ、期限は六日後です」


 レオナルドの額に汗が滲む。

 ヴィクトルはティーカップを置き、何気なく尋ねた。


「ところで。以前、文書照会の窓口をされていた管理官殿は、ご不在ですか」


「……あの女は、もう王宮にはいない」


「ほう」


 ヴィクトルの灰色の瞳が、わずかに細められた。

 それは三年前——初めて外交文書の照会を行った時から、ずっと気になっていた存在だった。


 返書はいつも正確だった。

 問い合わせの意図を完璧に汲み、必要十分な情報だけを端正な文字で記す。言葉は簡潔で、しかし冷たくはない。文末にはいつも『ご照会ありがとうございます。ご不明点がございましたら、いつでもお申し付けください』の一文が添えられていた。

 ある時、複雑な条約の解釈について照会を出したことがある。返ってきた書面は三枚に及んだ。関連条文の引用、歴史的経緯の要約。そして最後にこう書かれていた。


 ——『なお、本件については当該条約の第七条但書と、百二十年前の修正議定書の間に解釈の齟齬がございます。帝国側でお困りでしたら、双方の条文を対照した補足資料をお送りいたします。些末な点ではございますが、外交実務においては重要かと存じます』


 頼んでもいない補足資料を、ヴィクトルは即座に依頼した。一週間後に届いたそれは、帝国の文官でも数日かかる調査を、一人で完璧にこなした成果だった。しかも文面の最後には、小さな文字で『ご多用のところ恐れ入ります。お役に立てましたら幸いです』と添えられていた。


(あの時だ。この人に会いたいと思ったのは)


 書庫の専門家としての矜持と、相手への敬意。その両方が、文字の一つ一つから伝わってきた。以来、ヴィクトルは月に二度も三度も照会を出すようになった。業務上の必要はせいぜい年に数回。部下には「閣下、また照会ですか」と呆れられていたが、やめられなかった。

 あの端正な文字で綴られた返書が届くたび、執務室で封を開ける瞬間だけが、この男の一日で最も穏やかな時間だった。


 ヴィクトルは会談を終えると、すぐに部下に調査を命じた。

 翌日には全てが分かった。

 婚約破棄。聖女の存在。「地味で退屈な女」という評価。

 そして、彼女が領地に戻ったこと。


「ノヴァルティス閣下、お戻りの馬車を——」


「馬車の行き先を変えてくれ。リーデルハイト伯爵領へ向かう」


 従者が目を丸くした。


「条約交渉は……」


「原本が出ないなら、先に管理官殿に会うのが筋だろう」


 ヴィクトルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

 三年間、文字だけを追い続けた人に、ようやく会いに行ける。

 ——動機が外交だけではないことを、この男はとっくに自覚していた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 リーデルハイト伯爵領は、王都から馬車で半日ほどの田園地帯にある。

 小さな屋敷の書斎で、セレスティーヌは本を読んでいた。

 五年ぶりの実家は静かで、時間がゆっくりと流れている。


(……こんなにのんびりした朝は、いつ以来だろう)


 窓の外では小鳥が鳴いている。暖炉には穏やかな火が燃え、膝には飼い猫が丸くなっていた。

 王宮にいた頃は、夜明け前に出仕し、日が落ちても書庫の点検をしていた。それなのに、誰にも「ありがとう」とは言われなかった。レオナルドからは「まだ書庫にいるのか、暇な女だ」と笑われた。


(いいの。これで良かったの。私の仕事は、ちゃんと終わらせた)


 そう自分に言い聞かせたとき、使用人が慌てた様子で駆け込んできた。


「お、お嬢様! アルヴェスト帝国のノヴァルティス公爵閣下が、お見えです……!」


「——え?」


 玄関に出ると、黒い馬車の前に長身の男が立っていた。

 濃灰色の髪を後ろに流し、銀縁の眼鏡の奥で灰色の瞳が静かに光っている。帝国式の軍服に身を包んだその姿は、田園の風景に明らかに馴染んでいなかった。


「初めまして——いえ、初めまして、と申し上げるのは正確ではありませんね」


 ヴィクトルは一礼した。その所作は完璧だった。


「三年間、文書照会でお世話になっておりました。ノヴァルティスです」


「……文書照会の。あの、いつもご丁寧な問い合わせをくださっていた」


「覚えていてくださいましたか」


「ええ。質問の精度が高い方でしたから、印象に残っております。……照会の頻度は少々不自然でしたけれど」


 ヴィクトルの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。


(……気づかれていたのか)


「単刀直入に申し上げます」


 表情を取り繕い、ヴィクトルの声が一段低くなった。


「セレスティーヌ嬢。あなたに、アルヴェスト帝国の宮廷文書官長として来ていただきたい」


「——は」


「我が帝国の文書管理体制は、正直に申し上げて貴国の禁書庫には及びません。あなたが五年間で構築された管理システムは、大陸随一のものです。それを設計した人材を、我々は正当に評価したい」


 セレスティーヌは瞬きを繰り返した。

 五年間、王宮で誰にも言われなかった言葉を、この人は初対面で口にしている。


「……買いかぶりですわ。私はただの書庫番で——」


「ただの書庫番が、独自の魔法錠を設計しますか」


 ヴィクトルの声は静かだが、反論を許さない響きがあった。


「ただの書庫番が、三年間一度の誤りもなく外交文書の照会に応え続けますか。温湿度管理を毎日記録し、文書の劣化を十年単位で予測する体制を、たった一人で作り上げますか」


「…………」


「あなたの返書を受け取るたびに思っていた。この国は、あなたの価値を何一つ理解していない」


 最後の一言に、公爵の冷徹さとは異なる熱がこもっていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 セレスティーヌがヴィクトルの提案を検討している間に、ラグランジュ王国は急速に崩れていた。


 禁書庫が開かない。ただそれだけのことが、国を根底から揺るがしていた。


 まず条約交渉が停止した。原本がなければ更新条件の確認すらできない。

 次に、王家の血統証明が参照不能になった。折しもレオナルドの即位審議が控えており、血統証明なしでは即位の正当性が証明できない。

 さらに、軍の兵站記録と配備図が封じられたことで、国境警備の再編計画が頓挫した。

 加えて——過去二十年分の外交書簡の写しが全て書庫の中にあることが判明し、現在進行中の五つの通商交渉が全て中断された。


 腕利きの魔法師を三人呼んだが、セレスティーヌの魔力パターンを再現することはできなかった。

 ある文官が「引き継ぎ書類に手順が書いてある」と報告したが、カルヴィンが確認したところ、手順の第一項にはこうあった。


 ——『後任管理官を選定のうえ、魔力刻印の移行作業を開始してください(所要期間:約三ヶ月)』


 後任がいない以上、この手順書は一行目から実行不能だった。

 しかもその後任選定は、半年前にセレスティーヌ自身が上申し、レオナルド自身が『不要』と却下した案件だった。


 そして——三日後。


「殿下。ノヴァルティス公爵より書簡です」


 届いた書簡は短かった。


『セレスティーヌ・リーデルハイト嬢は、アルヴェスト帝国宮廷文書官長として正式に招聘いたしました。本人の同意を得ております。

 なお、条約更新につきましては、新文書官長の着任後に改めて交渉の場を設けたく存じます。

 ——ヴィクトル・ノヴァルティス』


 レオナルドの手から書簡が滑り落ちた。


「……嘘だろ」


「セレスティーヌ嬢を取り戻すことは、もはや不可能です」


 カルヴィンの声は淡々としていた。


「彼女は帝国の宮廷官です。帝国公爵の庇護下にある。こちらから手出しすれば外交問題になります」


 聖女リリアーナが不安そうにレオナルドの袖を引いた。


「レオナルド様、禁書庫のことは他の人に……」


「他の誰が開けるんだ! ——お前の聖なる力でも開かなかったではないか!」


 リリアーナが怯えたように身を竦めた。

 怒鳴ってから、レオナルドは自分の愚かさをようやく悟った。

 地味で退屈だと思っていた女は、この国の鍵そのものだった。

 後任の上申を自ら却下し、聖女を選んで鍵を捨てた。

 そして、その鍵は二度と戻らない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アルヴェスト帝国、帝都。

 宮廷文書館は、ラグランジュ王宮の禁書庫とは比べものにならないほど広大だった。

 天井まで続く書架。数千冊の文書がきちんと分類されている。ただし、管理体制にはまだ改善の余地があった。温湿度の記録がなく、貸出管理も紙の帳面のままだ。


(ここなら、一から理想の書庫が作れる)


 着任初日、セレスティーヌは書架の間を歩きながら、胸が高鳴るのを感じた。五年間培った経験のすべてを注ぎ込める場所が、目の前にある。しかも今度は、それを正当に評価してくれる人がいる。


「気に入っていただけましたか」


 背後からヴィクトルの声がした。振り返ると、軍服姿の彼が書架に肩を預けて立っている。


「ええ。素晴らしい蔵書量です。管理体制を整えれば、大陸一の文書館になりますわ」


「それを成し遂げられるのは、あなただけだ」


 ヴィクトルはそう言って、少し間を置いた。

 それから——いつもの冷静な声音ではなく、どこか慎重に言葉を選ぶように、続けた。


「一つ、告白させてください」


「……告白、ですか」


「三年前。初めてあなたの返書を受け取った時から、ずっと考えていたことがあります」


 ヴィクトルは眼鏡を外した。灰色の瞳が、まっすぐにセレスティーヌを見ている。

 外交の場で各国の重鎮を黙らせてきたその目が、今は少しだけ揺れていた。


「文書照会は年に数回で十分だった。それなのに私は、月に二度も三度も問い合わせを出していた。部下には不審がられていたと思います」


「……そういえば、貴国からの照会は不自然に多いと思っておりました」


「理由は一つです。あなたの文字が読みたかった」


 セレスティーヌは目を見開いた。


「正確で、端正で、一画ごとに誠実さが宿っている文字だった。返書を受け取るたびに、この人はどんな顔で書いているのだろうと考えた。どんな声で、どんな目をしているのだろうと」


 ヴィクトルが一歩近づいた。


「外交の建前で招聘したことは認めます。条約交渉に有利なのも事実だ。けれど——」


 声が、低く、静かに震えた。


「本当は、もっと単純な理由です。あなたに会いたかった。三年間、文字だけを追い続けて——もう、それだけでは足りなくなった」


 書架の間に、沈黙が落ちた。

 窓から差し込む午後の光が、古い書物の背表紙を金色に染めている。


「……ヴィクトル様」


「管理官殿ではなく。文書官長でもなく。——セレスティーヌとして、隣にいてほしい」


 セレスティーヌの視界が、滲んだ。

 五年間、泣かなかった。婚約破棄の日も、王宮を去る日も、一人きりの書庫で夜を明かした日も。

 けれど今、涙が落ちたのは悲しみではなかった。


「……私の文字は、そんなに良いものでしたか」


「大陸一だ。異論は認めない」


 その言い方があまりにも真剣で、セレスティーヌは泣きながら小さく笑った。


「では——お隣に置いていただけますか。文書官長として、それから」


 少し迷って、続けた。


「それから——セレスティーヌとして」


 ヴィクトルの手が、そっとセレスティーヌの頬に触れた。涙を指先で拭う。その手は少しだけ震えていた。


「二度と、一人にはさせない」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから一月。

 帝国の宮廷文書館は、見違えるほど整備が進んでいた。

 温湿度管理の魔道具を導入し、貸出記録を魔法台帳に移行し、劣化文書の修復計画を策定した。帝国の文官たちは最初こそ異国の若い女性に懐疑的だったが、その仕事ぶりを目の当たりにして、一週間で態度を改めた。


「文書官長殿、この分類で合っていますか」


「ええ、完璧です。ありがとうございます」


 部下に感謝される。仕事を認められる。当たり前のことが、こんなに嬉しい。


 夕刻、定時の鐘が鳴った。

 文書館の入り口に、ヴィクトルが立っていた。毎日、迎えに来る。帝国一の権力者が、毎日定時に文書館の前に立っている。文官たちの間では既に噂になっていたが、本人は気にする様子もない。


「今日の仕事は終わりましたか」


「ええ。西棟の再分類が予定より早く終わりました」


「なら、寄り道をしよう。帝都に良い書店を見つけた」


 セレスティーヌの目が輝いた。


「書店ですか?」


「古い装丁の技法書が入ったらしい。あなたなら喜ぶと思った」


 差し出された腕に、自然と手を添える。

 半年前には想像もできなかった光景だった。


 ——ちょうどその頃、ラグランジュ王国から四通目の書簡が届いていた。

 内容は毎回同じ。「セレスティーヌ嬢の帰還を要請する」。

 ヴィクトルは書簡を一瞥し、丁寧な返書を書いた。


『ご要望は承りました。しかしながら、当方の文書官長は帝国の文書管理体制の改革に従事しております。お返しする予定はございません。

 なお、禁書庫の解錠手順につきましては、引き継ぎ書類に記載済みとのことです。後任の育成をお勧めいたします。 敬具』


 封をしながら、ヴィクトルは薄く笑った。


「……閣下、またラグランジュからですか?」


 セレスティーヌが隣から覗き込む。


「ああ。四度目の帰還要請だ」


「まあ。……引き継ぎ書類は置いてきたのですけれど」


「読む能力がないのだろう」


「ヴィクトル様、それは言いすぎですわ」


「事実だ」


 セレスティーヌは小さくため息をつき——けれど、その唇は笑っていた。


 夕暮れの帝都を二人で歩く。

 石畳の道に、長い影が並んで伸びていた。


「セレスティーヌ」


「はい」


「明日の休日、庭園の薔薇が見頃らしい」


「素敵ですね。管理台帳を整理してから——」


「台帳は月曜でいい。明日は、私と過ごしてくれ」


 セレスティーヌは立ち止まり、隣の男を見上げた。

 氷の公爵と呼ばれた男の耳が、ほんの少し赤い。


(——ああ、この人は)


 文字だけで人を好きになれるほど、不器用で、誠実な人だ。


「……ええ。喜んで」


 つないだ手に、そっと力がこもる。

 鍵束はもう、腰にはない。

 けれどセレスティーヌの手の中には、もっと温かいものがあった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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