①ぶつかりお兄さん
「ふぅーっ、やっとお昼だ~!」
「早く行くぞ、食堂が混んでくる」
入学式から一か月。学園生活にもだいぶ慣れてきたものの、朝から勉強というのはなかなか疲れるものだった。ヤクは背伸びして凝り固まっていた体をほぐすと、先に廊下へ出たシキを追いかけようと教室を飛び出した。
「待ってよシキくん!……うわっぷっ」
「いてっ」
駆け出した分の力がそのまま返ってきて、ヤクは盛大にしりもちをついた。目を上げると大柄な学生がしかめ面をしてヤクを見下ろしていた。
「いってーな!お前、いきなり飛び出してくんなよ!」
間髪入れずに恫喝されてヤクは思わずギュッと目を瞑った。
「ご、ごめんなさい……」
「ったく、これだから一年はよ……!浮かれるのもいい加減にしろってんだ!」
どうやら上級生だったらしい。騒ぎを聞きつけたシキが駆け寄ってきた。
「全くお前ってやつは……。彼も謝っていることですし、ここは許してもらえませんか」
「ああ?なんだお前、口出ししてくんじゃねぇよ」
シキはイラっとして上級生を睨みつけた。さっと緊張が走る。一気に張り詰めた空気の中で、不意に彼の背後からため息が聞こえた。
「お前こそいい加減にしろよケネー、相手は一年だろ。みっともない」
「ベスティ!だがこいつら……」
「わざとじゃないんだからいいだろう。君たち、僕のルームメイトが迷惑をかけたな。怪我はないか?」
「う、うん……」
ベスティと呼ばれた学生は細い金縁の眼鏡を指で押し上げると、転んだままのヤクに手を差し伸べた。その手をとろうとして、ヤクは自分の右手に血がついていることに気が付く。どうやら転んだ際にささくれだった床に擦れて皮が剥けてしまったものらしい。ベスティは眉根を寄せて言った。
「血が出てるじゃないか。医務室へ行こう」
「おい待て、俺たちも行くのか?」
「当然だろケネー、お前とぶつかってできた怪我だぞ」
「まじかよ……」
ケネーはがりがりと頭を掻いて気怠げな表情を浮かべた。ほら、とベスティに促されてヤクは立ち上がった。するとケネーにひと睨みされ、助けを求めるようにシキを見たものの。
「仕方ないな」
それだけ言ってシキはさっさと歩きだした。その後にぶつくさと文句を垂れるケネーが続く。不機嫌そうなルームメイトの後ろで、ベスティとヤクは顔を見合わせた。
医務室には先客がいた。
「あれ、ベスティじゃないか!君が怪我なんて珍しいね、あ、それともケネーがまた何かやったのかい?」
「半分正解半分不正解だ、ミュレット。怪我をしたのはこの彼、ケネーとぶつかった拍子に転んだのさ」
ミュレットと呼ばれた学生は寝台の上で身を起こして優しげな笑みを浮かべた。
「ああ、君たち一年生だね?ごめんね気づかなくて。よりにもよってケネーとぶつかるなんて災難だったね」
「何だとお前!」
「はい止め、お前たちがぶつかってどうする」
ベスティは慣れた様子でケネーを制止すると部屋をぐるりと見渡した。
「困ったな、先生は不在か」
「ちょうどさっき出て行っちゃったよ、運が悪いねぇ」
のんびりした口調でそう答えると、ミュレットはヤクに目を向けた。
「怪我、見せてもらっていいかな。僕はよくここに来るから、大体の備品の位置は把握してるんだ。先生はいつ戻ってくるかわからないし、僕が手当てするよ」
「ありがとう!…ございます!」
にこ、と目を細めて笑うミュレットにつられて、ヤクは思わず笑顔を浮かべた。とその時、ぎぃと扉が開いた。
「ミュレット、体調は……って、おや?」
新たに入ってきた黒髪の学生はヤクたちに気づいてはたと止まった。
「こんにちは、一年生かな?」
「はい。怪我しちゃって、ミュレットさ……先輩に手当てしてもらうところなんです」
「そうか、それは災難だったね」
ミュレットはヤクに向き直ってその学生を紹介した。
「彼はルゼ。僕のルームメイトなんだ。ルゼ、こちらは……そうだ、まだ名前を聞いていなかったね?」
「ヤクです。こっちはシキくん」
「ヤクにシキ、改めて僕はミュレット、よろしくね……ちょうどよかった、ルゼ、手伝ってくれる?」
「もちろん」
ミュレットはルゼが持ってきた消毒液を傷口に吹きかけると、慣れた手つきで包帯を巻き始めた。
「随分と手際が良いんですね」
今まで黙っていたシキが不意に口を開く。
「ミュレットは色んな動物を飼っているんだ。だからこういうのにも慣れてるんだよ」
ルゼの説明にシキは怪訝な顔をした。
「動物……?ここの寮はペットは禁止ではないですか」
「ミュレットは特別なんだ、なんたってこいつは……」
そこでルゼはとっておきの秘密を打ち明けるみたいにヤクとシキにぐいと近づいて声をひそめた。
「猛獣使いだからね」
「も、猛獣⁉︎」
「ほらヤク、動いちゃだめだよ〜」
「う、は、はい」
ヤクはまじまじと目の前のミュレットを見つめた。ふんわりカーブした柔らかな金髪を緩く結んで垂らしたこの穏やかな青年が、荒々しい獣を従えているところなど想像がつかない。ヤクの視線に気づいて、ミュレットは少し照れたように笑った。
「そういう特能なんだよ。それにルゼは猛獣と言うけど、本当はみんな可愛い子たちなんだ」
「喧嘩しないの?」
うっかり敬語が抜けてしまったが、ミュレットは気にする様子もなく微笑んだ。
「まさか。ケネーじゃあるまいし、もっぱら手当てが必要なのは訓練で怪我をしたときだよ」
「お前、いちいち俺を引き合いに出すんじゃねぇよ!」
部屋の隅でムスっとしていたケネーが苛立った声を上げる。ベスティは肩をすくめ、ルゼは困ったように笑って再びヤクたちに説明した。
「ケネーの家とミュレットの家は対立していてね、この通り二人はあまり馬が合わないんだ」
「な、なるほど……」
話には聞いていたが、家門同士の対立とは子どもにまで引き継がれるのだなあとヤクは実感した。
手当てが終わりかけているのを見て、ルゼはお茶でも淹れよう、と言って立ち上がった。医務室とは言っても飲み水と茶葉、それに軽食程度は常備してあるらしい。躊躇なく戸棚を開けるルゼを見て、シキはさすがは上級生だと半ば呆れながら思った。
「はい、手当て終わり!そんなにひどい怪我じゃないから大丈夫だとは思うけど、もし痛みが増してきたらまたここに来てね。あと、今日はあまり右手を動かさないこと。わかった?」
「うん!ありがとうございます、ミュレット先輩!」
元気のよい答えにミュレットは満足げに笑った。ちょうどそこにトレイにカップを六つ乗せたルゼが戻ってくる。
「どうぞ、お湯が作れないからあまり味が出なかったけど」
「わぁ、いい匂い!」
礼を言ってカップを受け取ると、ヤクは取っ手をつまんでそっと口をつけた。ほのかに香る茶葉の匂いと冷たい水の感触が渇いた喉を潤してくれる。
「うん、なかなか美味しいよねぇここのお茶」
ミュレットもそう言って一息つく。各々カップが空になったところで、ミュレットは手振りでヤクに立ち上がるよう促した。
「そろそろ次の授業が始まるよ」
「ほ、ほんとだ!お昼食べてないよー!」
「次の授業はなんだい?」
「ええっと……」
「実技です」
シキが代わりに答える。ルゼは苦笑した。
「それは……ご飯を抜かして臨むにはハードだね」
「ならちょうどいいじゃないか、ヤク。君は手を怪我していることだし、今日の実技は休んで昼食を摂るといい。今なら食堂も貸切さ」
「うん!」
ニコニコと手を振るミュレットに手を振り返して、ヤクはシキとともに廊下に出た。
「まあお前はどうせ休みだけどな」
「そうだね……」
実技は特能を発展させるための授業である。特能の使えないヤクは、生まれつき身体が弱いと偽って実技の授業を免除してもらっていた。
「でもシキくんは授業だよね?ごめんね、僕のせいでご飯……」
「問題ない。俺も授業行かないし」
「え?」
「あんな初歩的なことばっかりやってられるかよ。それよりさっさと飯食ったら部屋行って勉強するぞ」
「さすがシキくん!偉いなあ!」
「バカ、お前がやるんだよ!俺が教えてやるから、早く学年二位になれ」
「うぅ……それは……ありがとう」
渋い顔をして頷くヤクを見ながら、シキは思考を巡らせていた。




