⑩偶然
半分開いた窓から冷たい夜風が時折吹き込み、窓枠をカタカタと小気味良く鳴らす。薄く靄のかかったような夜空からはぼんやりとした月の光しか届かなかった。
「どうしたんだヤク、そんなところで。窓閉めろよ、寒いだろ」
「……シキくん。先輩たちは?」
「二ヶ月間の謹慎処分だそうだ。流石に家柄があれだから退学処分までにはできなかったらしいが……まああの様子じゃいくらかは反省して戻ってきそうだな」
シキは飼い主に鞭打たれる仔馬のように怯えきったルゼの瞳を思い出しながらそう言った。ヤクはそう、と呟いて窓の外を見つめた。暖色寄りの室内灯の明かりから顔を背けるようにして俯いたヤクの表情は、外の暗がりに紛れてしまってよく見えなかった。
「ミュレットについては残念だったな。連帯責任がここの制度とはいえ……」
「しょうがないよ。そういう決まりだもん。僕が気にしたって、しょうがないよね。だって」
別人だから。そう呟いて星のない空を静かに見上げるヤクは、シキの知らない人間のようだった。
「別人……?」
「ねぇシキくん、ここって、いろんな人がいるんだね」
「ショックだったか?」
「……ううん」
ヤクは静かに首を振った。
「嬉しいよ。ここなら、同じひとがいるかもしれないから」
「同じひと?」
シキが見たことのない顔をして、ヤクは微笑んでみせた。
「この世界に、同じひとがいる気がするんだ。なんとなく。そう思わない?」
「……よくわからないな」
いきなり何を言い出すんだ。
シキは困惑したまま、いつもより落ち着いたルームメイトを見つめた。
「ミュレット先輩はね、『同じひと』みたいだって思ったんだ」
「ミュレットが? お前と?」
「ううん、僕の大事なひとと」
ヤクは目を細めて笑った。
「だから嬉しかったよ。僕がミュレット先輩の冤罪を晴らそうと言った時、君が協力してくれて」
「あれは断れないだろ……。お前、学生たちを猛獣から助けたのもそのせいか?」
ヤクはきょとんとした。
「え? ううん」
「じゃあなぜ? あんな即座に、迷いなく……」
若干、問い詰めるような口調になった。
「お前は全く関係のない人間を、お前よりも価値のない人間を助けようとする。己の命も顧みずに……。なぜだ? なぜそんなことをするんだ?」
ヤクは窓の方へ目をやった。それからまたゆっくりと振り向いてこちらを見た。藍色の夜気が滲んだその瞳はいつになく穏やかで真剣だった。
「もしも僕がある人よりも価値があるというのなら、それは僕の命がその人の命よりも多くの命を救えるからだ。僕はそのために生まれ、それを許された存在……だからシキくん、君の問いに答えるとしたらそれは」
ヤクはふっと目元を緩めて微笑んだ。
「僕がこの国の王子だからだよ」
ひんやりとした夜風が一瞬大きくカーテンをたなびかせたかと思うと、ぴたりと凪いで細やかなカーテンレースに余韻を残した。頬を撫でた冷たい風の感触も残された白い揺れも今、シキにとってひどく遠いものに感じられた。視覚のみならず思考を左右するあらゆる感覚が目の前の瞳に釘付けにされているという奇妙な不自由があった。けれど沈黙のまどろみを弄ぶように、ヤクは軽やかに言葉を紡いでいく。
「あの時のことで、僕も言いたいことがあるんだ」
「……なんだ」
「ありがとう、シキくん。僕を助けてくれて」
「……俺は、何もしていない」
シキは思わず目を逸らした。ヤクは両手を合わせて身を乗り出す。
「前に君が教えてくれたよね?多くの猛獣の毛皮は頑丈で火も水も電気も通さない。だから先生たちの攻撃も効かなかったんだ。けれど『偶然』にも、毛のない顔面に雷が落ちたことで、電気を通さない毛皮の上にいた僕を除いて猛獣の全身に感電した」
「……よく、覚えているな」
「僕はずっと、なぜ僕が王立学園に送られたのか考えていたんだ。父上の考えだけじゃない。王家の決定は常に神様の心と結びついているのだから……」
シキは再び目を上げてヤクを見た。濡れたように輝くその瞳と目が合った瞬間、吸い込まれそうになる。
「それであの時、やっとわかったんだ。きっとこの『偶然』を与えることが、神様の御意志だったんだって。だってシキくん、君と出会えなければこの『偶然』は起こり得なかったんだもの」
かなわない。
不意に強く、そんな予感がシキを貫いた。この世間知らずの王子の見てきた自分の知らぬ世界が、果てしなく広く遠いものに思えてならなかった。
「ねぇ、シキくん」
ヤクは窓から一歩離れると、シキをそっと手招きした。吸い寄せられるようにシキもそちらに近づく。
「君にだけは教えるよ。僕の本当の名前を」
まだ誰にも名乗ったことのない、その名を__
薄い雲が浄化されたかのように消え去って、煌々と冴え渡る白い月の光が窓辺から降り注いでいた。何本もの光の筋が白く煌めく細い金髪をさらさらと梳かしていく。そういえば彼は、いつもこんなふうに光を背負っていた。入学式で目が合ったあの時も、猛獣の上でこちらを見上げたあの時も。
王家は神に最も近しい存在だという。端から迷信だと笑っていたその定説を、今になって思い出すのはなぜだろうか。
「__ユリヤクス=アトレウス=メジアスト。これが僕の、本当の名前だよ」
一音一音を象るようにして耳元を揺らしたその名は、何よりも白いこの夜とともにシキの記憶に刻みつけられていった。




