第六章 灰色の薬瓶
夜明け前の空は、
まだ色を持たない。
工房の中で、
ただ一つ、
炉の火だけが生きていた。
ナタリーは、
静かに立っている。
涙は、
もう出なかった。
泣く時間は、
終わった。
――これが、
私の選択。
灰色の薬瓶を、
机の中央に置く。
中身は、
まだ半分。
未完成。
それでも、
術式は整っている。
あとは、
最後の代価だけだった。
ナタリーは、
自分の左手を見つめる。
細く、
力のない手。
十四年分の、
時間が詰まっている。
「……少し、
もらいます」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
ナイフで、
指先を切る。
赤い血が、
静かに落ちる。
それを、
炉の中へ。
血が、
火に触れた瞬間、
炎が色を変えた。
灰色。
世界から、
色が抜け落ちたようだった。
胸が、
締め付けられる。
息が、
浅くなる。
それでも、
ナタリーは立ち続ける。
――止まれない。
止めたら、
彼が死ぬ。
それだけは、
絶対に、
許せなかった。
鍋の中で、
薬液が完成していく。
淡い灰色が、
深く、
濃く。
命の重さが、
色になったようだった。
ナタリーは、
それを慎重に、
薬瓶へ注ぐ。
満たされていく。
同時に、
自分の中から、
何かが抜けていく。
視界が、
少し暗くなる。
足元が、
揺れる。
「……まだ」
彼女は、
歯を食いしばる。
倒れるわけには、
いかない。
最後に、
封印の印を刻む。
震える指で、
一文字ずつ。
失敗は、
許されない。
刻み終えた瞬間、
炉の火が消えた。
静寂。
ナタリーは、
その場に崩れ落ちる。
床が、
冷たい。
どれくらい、
そうしていたのか。
目を開けると、
朝だった。
工房に、
淡い光が差している。
ナタリーは、
ゆっくり起き上がる。
体が、
重い。
それでも、
意識ははっきりしていた。
机の上に、
完成した薬瓶がある。
灰色の、
完全な一本。
「……できた」
声は、
かすれていた。
これで、
彼は生きる。
その事実だけが、
彼女を支える。
扉を叩く音。
外から、
慌ただしい気配。
王都の使者だった。
「殿下の容体が、
急変した」
ナタリーは、
何も聞かずに
薬瓶を掴む。
外套を羽織り、
外へ出る。
馬車の中。
揺れに、
体が耐えられない。
胸が、
痛む。
視界が、
何度も暗くなる。
それでも、
薬瓶だけは、
手放さなかった。
王都の宿舎。
寝台に横たわる、
リオ。
顔色は、
土のようだった。
ナタリーは、
彼のそばに跪く。
「……戻ったんだな」
微かな声。
彼女は、
頷く。
「これを、
飲んでください」
灰色の液体が、
彼の唇に触れる。
ゆっくり、
飲み干す。
一瞬、
何も起きない。
次の瞬間、
彼の呼吸が、
深くなる。
脈が、
強くなる。
命が、
戻ってくる。
ナタリーは、
それを見届けて、
微笑んだ。
膝の力が、
抜ける。
床に、
倒れる。
最後に見えたのは、
彼が、
必死に呼ぶ顔だった。
「ナタリー!」
その声は、
遠い。
――生きて。
そう言いたかった。
でも、
もう声は出なかった。




