第五章 恋だと気づく瞬間
工房は、
静かすぎた。
人の気配が、
一つ消えただけで、
こんなにも空になる。
ナタリーは、
炉の前に座り込んでいた。
灰色の薬瓶を、
膝の上に置いたまま。
――行ってしまった。
頭では、
分かっている。
最初から、
そうなると知っていた。
それでも、
胸の奥が、
ひどく痛んだ。
時間が、
ゆっくり流れる。
昼になり、
夕方になり、
夜が来る。
ナタリーは、
何も食べなかった。
薬草の匂いだけが、
彼女を包む。
棚を見るたび、
思い出す。
笑った顔。
弱い咳。
自分を見る目。
「……馬鹿みたい」
呟いて、
唇を噛む。
救うと、
決めただけだ。
それ以上の感情など、
持つつもりは、
なかった。
夜更け。
外から、
馬の音が聞こえた。
ナタリーは、
はっと顔を上げる。
――まさか。
扉が、
静かに開く。
そこに立っていたのは、
リオだった。
息を切らし、
外套を脱ぎ捨てている。
「……何を、
しているんですか」
声が、
震えた。
「戻ってきた」
彼は、
短く言う。
「行けなかった」
ナタリーは、
立ち上がる。
「あなたは、
王子です」
「それでも」
彼は、
彼女を見る。
まっすぐで、
逃げ場のない目。
「君を、
置いていけなかった」
その言葉に、
胸が壊れた。
「だめです」
ナタリーは、
首を振る。
「ここにいたら、
あなたは死にます」
「それでもいい」
即答だった。
「君が、
いないなら」
ナタリーの呼吸が、
乱れる。
こんな言葉を、
向けられるなんて、
想定していなかった。
「……私は」
言葉が、
続かない。
灰色の薬瓶を、
抱きしめる。
「私は、
あなたを生かします」
「君は?」
「私は、
どうでもいい」
その瞬間、
彼の顔が歪んだ。
「それが、
一番許せない」
彼は、
一歩近づく。
「君は、
自分を捨てすぎだ」
距離が、
近い。
触れれば、
壊れてしまいそうな距離。
ナタリーは、
初めて思う。
――触れたい。
その感情に、
自分で驚く。
「……怖い」
小さく、
本音が漏れる。
「あなたを、
失うのが」
リオは、
目を見開く。
そして、
静かに息を吸う。
「それは、
恋だ」
はっきりと、
そう言った。
ナタリーの胸が、
強く鳴る。
否定できない。
理解してしまった。
この痛み。
この不安。
この温度。
全部、
恋だ。
「だから、
一緒に行こう」
彼は、
手を差し出す。
王都へ。
危険へ。
重い未来へ。
ナタリーは、
その手を見つめる。
そして、
首を振った。
「行けません」
声は、
優しかった。
「あなたは、
生きてください」
「君は?」
「私は、
ここに残ります」
涙が、
一粒落ちる。
自分の頬が、
濡れていることに、
今、気づいた。
リオは、
何も言えなかった。
ただ、
彼女を抱きしめた。
初めての、
抱擁。
温かくて、
苦しくて、
短い。
「……ありがとう」
その言葉が、
別れの合図だった。
扉が閉まる。
今度こそ、
戻らない。
ナタリーは、
その場に座り込む。
泣いた。
声を殺して、
長い時間。
泣き終えた後、
彼女は立ち上がる。
灰色の薬瓶を、
手に取る。
――完成させる。
それが、
彼女の恋の、
形だった。




