第二話
火が爆ぜた。
廃墟の隅。ドラム缶の中で燃える木切れが、ふたりの影を長く伸ばしている。
カイは剣を抱いて眠っていた。若さだ。あどけない寝顔に、泥と煤がついている。だが、剣を握る右手だけは、眠りの中でも緩んでいない。
鬼は、スコープを覗くのをやめた。
闇を見る。
帝都の夜は深い。蒸気の排気音が、遠い獣の唸りのように響いていた。
四十年。
長すぎた、と思う。
ライフルを置く。金属の冷たさが、掌に吸いついてくる。この冷たさだけが、長年、唯一の友だった。
*
十二歳だった。
名前は、もう覚えていない。ただの浮浪児。ゴミを漁り、盗みを働き、逃げ回るだけの日々。
ダスク・ディストリクトの最下層。そこは、人間が住む場所ではなかった。
雨の日だった。
路地裏で、男が死んでいた。闇取引の売人か、脱走兵か。泥水に顔を突っ込み、背中にはナイフが刺さっていた。
死体の懐に、重たいものがあった。
銃だ。
旧式のボルトアクション。錆びかけていたが、ボルトは動いた。弾丸は三発。
それが、全ての始まりだった。
三日後、最初の引き金を引いた。
相手は、パンを奪おうとした大男だった。震える手で構え、目を閉じて撃った。
衝撃。硝煙の匂い。
目を開けると、男は倒れていた。動かなかった。
恐怖はなかった。
あったのは、奇妙な静寂だけだ。
自分が生き延びたという事実。そして、指先ひとつで他人の時間を奪えるという、冷徹な理。
吐き気は、あとから来た。
だが、パンは手に入った。生きるためには、食わねばならなかった。
それから、俺は影になった。
感情を殺した。恐怖を捨てた。
スコープ越しに見る世界は、単純だった。
風を読む。距離を測る。心臓の鼓動を、風の音に重ねる。
引き金を絞る瞬間の、あの空白。
そこにだけ、安らぎがあった。
依頼人は選ばなかった。金さえ積まれれば、誰でも撃った。英雄も、悪党も、等しく肉塊に変えた。
「鬼」
いつしか、そう呼ばれるようになっていた。
嘲笑。畏怖。憎悪。
どれも心地よかった。誰も俺の顔を知らない。誰も俺の心を知らない。
孤独こそが、最強の鎧だった。
だが。
四十年の歳月は、鉛のように魂を侵食していた。
撃っても、撃っても、世界は変わらない。
昨日の死体の上に、今日の死体が積み上がる。権力者がすげ変わるだけで、搾取の構造は微動だにしない。
虚無だ。
俺は、ただの錆びついた殺人機械になり果てていた。
あの少年、カイに出会うまでは。
*
風が変わった。
鬼は視線を戻す。
カイが目を覚ましていた。焚き火の明かりの中で、真っ直ぐな瞳がこちらを見ている。
「……起きたか」
「ああ」
カイは短く答え、身体を起こした。「見張り、代わろうか」
「必要ない」
鬼は懐から、一本の葉巻を取り出した。安物だ。火をつける。紫煙が立ち上り、一瞬だけ、硝煙の匂いを消した。
「あんた」
カイが言った。
「なんで俺を助けた」
問いかけは、鋭利な刃物のようだった。
鬼は紫煙を吐き出す。
「気まぐれだ」
「嘘だ」
カイは立ち上がった。炎が、その横顔を赤く染める。
「あんたの目は、死んでいなかった。あの時、俺を見る目は」
鬼は苦笑した。皮肉な笑みだ。
死んでいない、か。
四十年間、死に続けてきた男に向かって、この少年は何を言う。
「……昔の自分を見たのかもしれん」
ポツリと、言葉が漏れた。
「昔?」
「飢えて、怒って、世界を憎んでいたガキだ」
鬼はライフルを撫でた。
「だが、俺には銃しかなかった。お前には剣がある。そして、その目がある」
カイは黙って聞いていた。
「俺は、ただ撃つだけの男だ。だが、お前の剣は、何かを切り拓けるかもしれん」
それは、初めて口にする本音だったかもしれない。
鬼は葉巻をもみ消した。
「寝ろ。明日は早い」
カイはしばらく鬼を見ていたが、やがて小さく頷き、再び横になった。
背中を向けても、隙はない。
いい剣士だ、と鬼は思った。
バリオン帝国。鋼鉄の巨獣。
挑むのは、蟷螂の斧かもしれない。だが、錆びついた歯車を狂わせるくらいは、できるだろう。
鬼はライフルを抱き寄せた。
冷たさは、もう感じなかった。胸の奥に、微かな熱が灯っていた。
夜明け前。
一番深く、濃い闇が、ふたりを包んでいた。




