Ⅴ 開禧
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1206年、春。
モンゴルでクリルタイが開かれていた頃。
南宋の都、臨安では、別の動きがあった。
宰相府。
韓侂胄が、将軍たちを集めていた。
「諸君」
五十を過ぎた韓侂胄が立ち上がった。
「時は来た」
「金を討つ」
将軍たちがざわついた。
「宰相殿」
郭倪が前に出た。
「金はまだ強大です」
「いや」
韓侂胄が首を振った。
「金は衰えている」
「北からモンゴルという部族が圧迫している」
「西夏も弱体化している」
「今こそ、失地回復の好機だ」
将軍たちは顔を見合わせた。
「だが」
呉義が口を開いた。
四川を統治する、建国の英雄の呉璘の孫だ。
「準備は十分ですか」
「十分だ」
韓侂胄が断言した。
「兵は二十万」
「士気も高い」
呉義は眉をひそめた。
だが、何も言わなかった。
「では、決まりだ」
韓侂胄が地図を広げた。
「五月に出陣する」
「目標は、開封府だ」
将軍たちが息を呑んだ。
開封府。宋の旧都だ。
「そこを落とせば、金は崩れる」
韓侂胄の目が光った。
「そして、我が宋の名が再び轟く」
会議が終わった後。
呉義は一人で月を見ていた。
「将軍」
部下が来た。
「どう思われますか」
「...無謀だ」
呉義が呟いた。
「韓侂胄は、金を甘く見ている」
「では、なぜ反対なさらなかったのですか」
「言っても無駄だ」
呉義が溜息をついた。
「あの男は、功名に目が眩んでいる」
「...」
「だが」
呉義が部下を見た。
「我らは、四川を守る」
「宰相殿が失敗しても、我らは生き残る」
部下は、呉義の意図を理解した。
別の場所。
賈似道が、韓侂胄の屋敷を訪ねていた。
「宰相殿」
「賈か」
「北伐、素晴らしい決断です」
賈似道が笑顔で言った。
「お前も、そう思うか」
「もちろんです」
だが、賈似道の目は笑っていなかった。
内心では、こう思っていた。
(愚か者め。失敗すれば、お前は終わりだ)
(その時こそ、私の出番だ)
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1206年、五月。
南宋軍が出陣した。
二十万の大軍。
旗が翻り、太鼓が鳴る。
民衆が見送った。
「勝ってこい!」
「金を倒せ!」
韓侂胄は、馬上から手を振った。
郭倪が軍を率いている。
呉義は、四川に留まった。
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金。中都。
章宗が、南宋侵攻の報を受けた。
「何だと?」
「南宋が、二十万の軍で攻めてきたとのことです」
臣下が報告した。
「...また、か」
章宗が溜息をついた。
「南蛮どもは、懲りないな」
「陛下、どうなさいますか」
「迎え撃て」
章宗が命じた。
「完顔遠理を呼べ」
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完顔遠理が参内した。
「陛下」
「南宋を叩け」
章宗が冷たく言った。
「兵は?」
「五万で十分だ」
章宗が鼻で笑った。
「南宋など、烏合の衆だ」
完顔遠理は、何も言わなかった。
ただ、頭を下げた。
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完顔遠理は、耶律楚材を呼んだ。
「楚材」
「はい」
「南宋が来る」
「承知しています」
耶律楚材が頷いた。
「どう戦いますか」
「騎兵で翻弄する」
完顔遠理が地図を広げた。
「南宋の歩兵は、騎兵に弱い」
「正面からぶつからず、側面を突く」
「そして、補給路を断つ」
耶律楚材は感心した。
「さすがです」
「だが」
完顔遠理が真剣な顔をした。
「本当の敵は、南宋ではない」
「...モンゴルですね」
「そうだ」
完顔遠理が北を見た。
「あちらが、本当の脅威だ」
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南宋軍は、北上していた。
だが、進軍は遅かった。
「遅い!」
韓侂胄が派遣した軍監が苛立った。
「もっと速く進め!」
だが、郭倪は首を振った。
「軍監殿、補給が追いつきません」
「二十万の軍を養うには、膨大な食料が必要です」
「それは分かっているが...」
軍監が歯噛みした。
そして、金軍が現れた。
完顔遠理率いる五万騎だ。
「敵だ!」
南宋軍が慌てた。
「陣形を組め!」
郭倪が叫んだ。
だが、金の騎兵は速かった。
正面からぶつからず、側面に回り込んだ。
矢が雨のように降る。
「くそっ!」
南宋の歩兵が混乱した。
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戦いは、一方的だった。
南宋軍は、騎兵の機動力についていけなかった。
包囲され、補給路を断たれた。
「撤退だ!」
郭倪が叫んだ。
だが、撤退も容易ではなかった。
金軍が追撃してくる。
何千もの兵が、逃げる途中で倒れた。
南宋軍は、ようやく国境まで戻った。
だが、二十万いた兵は、十五万に減っていた。
五万の損害。
大敗だった。
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臨安。
韓侂胄が、敗北の報を受けた。
「何だと...」
顔が青ざめた。
「五万の損害...?」
「はい」
報告者が震えている。
「郭倪将軍は、辛うじて逃げ延びました」
韓侂胄は、椅子に崩れ落ちた。
「...終わった」
朝廷では、非難の声が上がった。
「韓侂胄の無謀な北伐のせいだ!」
「五万もの兵を失った!」
「責任を取らせろ!」
韓侂胄は、何も言えなかった。
賈似道は、その様子を遠くから見ていた。
(やはり、失敗したか)
内心で笑っていた。
(さあ、私の出番だ)
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呉義は、四川で報告を受けた。
「やはり、な」
予想通りだった。
「将軍、どうなさいますか」
部下が聞いた。
「...様子を見る」
呉義が答えた。
「韓侂胄が失脚すれば、朝廷は混乱する」
「その時こそ、我らの機会だ」
部下は、呉義の野心を感じ取った。
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金。中都。
完顔遠理が凱旋した。
「よくやった」
章宗が労をねぎらった。
「南宋など、恐れるに足らず」
だが、完顔遠理は浮かない顔をしていた。
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その夜、耶律楚材と話していた。
「楚材」
「はい」
「我らは、南宋に勝った」
「はい」
「だが」
完顔遠理が窓の外を見た。
「喜べない」
「...なぜですか」
「北だ」
完顔遠理が呟いた。
「モンゴルが、動いている」
「クリルタイを開き、チンギス・ハンが即位したと聞いた」
耶律楚材も頷いた。
「はい。そして、西夏に侵攻したとも」
「...」
「次は、我らです」
耶律楚材が断言した。
「南宋は、脅威ではない」
「だが、モンゴルは違う」
完顔遠理は、拳を握った。
「分かっている」
「ならば」
耶律楚材が真剣な顔をした。
「備えましょう」
「朝廷は、動かない」
「ならば、我らだけでも」
完顔遠理は頷いた。
「...そうだな」
二人は、静かに決意を固めた。
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1206年、秋。
南宋の開禧北伐は、完全な失敗に終わった。
韓侂胄は、権力を失い始めていた。
だが、まだ失脚はしていなかった。
それは、翌年のことになる。
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一方、モンゴルでは。
チンギスが、怯薛の創設を進めていた。
舜と星歌は、その様子を見ていた。
「南宋が、金を攻めたらしいね」
星歌が言った。
「ああ」
舜も頷いた。
「でも、負けたって」
「金は、まだ強いんだ」
舜が呟いた。
「殿が攻めるのは、まだ先だろうな」
だが、舜は知らなかった。
自分の策が、歴史を早めることになると。
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冬が来た。
各国は、それぞれの思惑を抱えていた。
南宋は、敗北の傷を癒やそうとしていた。
金は、北の脅威に備えようとしていた。
そして、モンゴルは。
西夏への遠征を、準備していた。
歴史の歯車は、着実に回っていた。
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