Ⅲ 初陣
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1206年、冬。
雪が降る中、出陣の準備が進められていた。
厩では馬に餌が与えられ、鍛冶場では矢じりが作られていた。
兵たちは弓の手入れをし、剣を研いでいた。
舜と星歌は、物資の記録を取っていた。
「矢が三万本」
「食料は二月分」
「馬は予備を含めて四千頭」
星歌が数字を読み上げ、舜が記録していく。
「足りるかな」
「分からない」
舜が首を振った。
「でも、これが全力だ」
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オゴデイは、自室で鎧を着ていた。
初めて身につける戦装束だ。
重い。
動きにくい。
「兄上たちは、これを着て戦ったのか」
オゴデイが呟いた。
その時、扉が開いた。
ジョチとチャガタイだ。
「オゴデイ」
ジョチが声をかけた。
「兄上」
「初陣、か」
チャガタイが言った。
「緊張しているだろう」
「...はい」
オゴデイが正直に答えた。
「怖いです」
ジョチが笑った。
「当然だ。俺も最初は怖かった」
「本当ですか」
「ああ」
ジョチが頷いた。
「血を見るのも、人を殺すのも、初めてだった」
「だが」
チャガタイが続けた。
「やらなければ、殺される」
「それが戦だ」
オゴデイは黙っていた。
「オゴデイ」
ジョチがオゴデイの肩を掴んだ。
「お前は優しすぎる」
「だが、それは弱さではない」
「戦場では、その優しさを忘れろ」
「生き延びることだけを考えろ」
「...はい」
オゴデイが頷いた。
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出陣の朝。
全軍が集結していた。
三万騎。
整然と並んでいる。
チンギスが馬上から見渡した。
「諸君」
その声が響いた。
「今日から、西夏を攻める」
「この遠征は、試しだ」
「西夏の力を測り、弱点を探る」
兵たちが頷いた。
「だが、油断するな」
チンギスの声が厳しくなった。
「敵も必死だ。命をかけて抵抗してくる」
「気を引き締めろ」
「はっ!」
全員が答えた。
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軍が動き出した。
南へ。
西夏へ。
舜と星歌も、軍に同行していた。
二人は荷馬車に乗っている。
「また戦場だね」
星歌が不安そうに言った。
「ああ」
舜も頷いた。
「でも、今度は違う」
「違う?」
「俺たちが、策を出すんだ」
舜が真剣な顔をした。
「ただ見てるだけじゃない」
星歌は黙っていた。
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十日後。
モンゴル軍は、西夏の国境に到着した。
見張り塔が見える。
西夏の兵たちが、慌てて城内に逃げ込んだ。
「殿」
スブタイが報告した。
「敵は城に籠もっています」
「数は?」
「およそ千」
「ならば、囲め」
チンギスが命じた。
「補給を断て」
「はっ」
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オゴデイは、初めて敵の城を見た。
高い城壁。
その上に、兵たちが並んでいる。
弓を構えている。
「あれと、戦うのか」
オゴデイが呟いた。
「そうだ」
隣にいたムカリが答えた。
「怖いか?」
「...はい」
「それでいい」
ムカリが頷いた。
「怖がらない者は、死ぬ」
「恐怖を感じるから、注意深くなる」
「それが、生き延びる秘訣だ」
オゴデイは、ムカリの言葉を胸に刻んだ。
---
包囲が始まった。
モンゴル軍は城を取り囲んだ。
だが、攻めない。
ただ、待つ。
三日が経った。
城内から、一人の兵が脱出を試みた。
矢が飛んだ。
ジェベの矢だ。
兵は馬から落ちた。
「見事だ」
チンギスが呟いた。
オゴデイは、その光景を見ていた。
人が死んだ。
初めて見る、戦場での死。
吐き気がした。
だが、堪えた。
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五日目。
城門が開いた。
西夏の将が、白旗を持って出てきた。
「降伏します」
将が跪いた。
「食料が尽きました」
「...」
チンギスは、将を見下ろした。
「城内の民は?」
「無事です」
「ならば、許す」
チンギスが言った。
「武器を捨て、城を明け渡せ」
「ありがとうございます」
将が頭を下げた。
モンゴル軍が城内に入る。
オゴデイも、初めて占領した城を見た。
民たちが怯えている。
子供が泣いている。
「略奪はするな」
チンギスの命令が響いた。
「民を傷つけるな」
兵たちは従った。
オゴデイは、ほっとした。
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その夜、オゴデイは父に呼ばれた。
「オゴデイ」
「はい、父上」
「初陣は、どうだった」
「...怖かったです」
オゴデイが正直に答えた。
「人が死ぬのを見て、吐きそうになりました」
チンギスは笑った。
「それでいい」
「...え?」
「お前は、優しい」
チンギスがオゴデイの頭を撫でた。
「それは、良いことだ」
「ジョチやチャガタイとは違う」
「お前は、民を思いやることができる」
「だが」
チンギスの目が真剣になった。
「戦場では、それを封じろ」
「生き延びることが、最優先だ」
「...はい」
オゴデイが頷いた。
---
モンゴル軍は、さらに南下した。
次の城、また次の城。
いくつもの城を囲んだ。
ある城は降伏した。
ある城は抵抗した。
抵抗した城は、攻め落とされた。
オゴデイは、その全てを見た。
血が流れるのを見た。
悲鳴を聞いた。
だが、次第に慣れていった。
それが、怖かった。
---
二月が経った。
モンゴル軍は、十の城を落とした。
だが、チンギスは深追いしなかった。
「ここまでだ」
ある日、チンギスが撤退を命じた。
「殿、なぜですか」
スブタイが聞いた。
「まだ、中興府まで行けます」
「いや」
チンギスが首を振った。
「今回は、様子見だ」
「西夏の力を測った。それで十分だ」
「...承知しました」
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軍は、アウラガへ戻り始めた。
帰路は、行きよりも遅い。
戦利品を運んでいるからだ。
絹、金銀、穀物。
大量の物資が、馬車に積まれている。
舜と星歌は、それを記録していた。
「すごい量だね」
星歌が呟いた。
「ああ」
舜も頷いた。
「でも、これだけじゃ足りない」
「え?」
「西夏を本当に支配するには、もっと必要だ」
舜が真剣な顔をした。
「今のままでは、毎年遠征しなければならない」
「それは...」
「非効率だ」
舜が呟いた。
---
アウラガに戻った。
民衆が出迎えた。
「殿が帰られた!」
「勝ったぞ!」
歓声が上がる。
オゴデイも、無事に帰還した。
ボルテが息子を抱きしめた。
「よく帰った」
「母上...」
オゴデイの目に、涙が浮かんだ。
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その夜、軍議が開かれた。
「今回の遠征は、成功だった」
ボオルチュが報告した。
「十の城を落とし、多くの物資を得た」
将軍たちが頷いた。
「だが」
チンギスが言った。
「これで終わりではない」
「来年も、また行く」
「再来年も」
将軍たちが顔を見合わせた。
「殿、それは...」
ムカリが言いかけた。
その時。
「お待ちください」
舜が立ち上がった。
場が静まり返った。
「舜か」
チンギスが見た。
「何か?」
「はい」
舜が前に出た。
「毎年遠征するのは、非効率です」
「...」
「馬も兵も損耗します」
「物資も大量に必要です」
舜が続けた。
「ならば、一気に攻めるべきです」
「一気に?」
ボオルチュが聞いた。
「そうです」
舜が頷いた。
「西夏を完全に屈服させ、属国にする」
「それができれば、毎年遠征する必要はありません」
将軍たちがざわついた。
「だが」
ジェベが言った。
「城攻めは、我らの苦手とするところだ」
「一つ一つ落としていけば、時間がかかる」
「その通りです」
舜が認めた。
「ですが、方法はあります」
「方法?」
チンギスが興味を示した。
「言ってみろ」
舜は深呼吸した。
そして、言った。
「内応です」
「...内応?」
「はい」
舜が頷いた。
「西夏には、降伏した将がいます」
「趙元か」
「彼を使うのか」
ボオルチュが言った。
「そうです」
舜が地図を広げた。
「趙元は、西夏の内情を知っています」
「彼に、城門を開かせるのです」
「裏切らせる、と?」
「いえ」
舜が首を振った。
「もう、彼は殿に仕えています」
「ならば、それは任務です」
チンギスは、しばらく黙っていた。
そして。
「面白い」
笑った。
「舜、お前の策を採用する」
「...!」
舜が驚いた。
「次の遠征は、お前の策で行う」
チンギスが宣言した。
「準備しろ。夏には、再び西夏を攻める」
「はっ!」
舜が跪いた。
---
会議が終わった後。
星歌が舜に駆け寄った。
「舜、すごいよ!」
「...ああ」
舜は、まだ実感がなかった。
「俺が、策を出した」
「うん」
「歴史を...変えるかもしれない」
舜の手が震えていた。
星歌が、その手を握った。
「大丈夫」
「私が、一緒にいるから」
「...ありがとう」
舜が星歌を抱きしめた。
---
中興府。
李安全は、モンゴル軍撤退の報を受けた。
「撤退した...?」
「はい」
臣下が答えた。
「十の城を落とし、物資を奪って帰りました」
李安全は拳を握った。
「また来そうか」
「...おそらく」
「くそっ」
李安全が叫んだ。
「どうすればいい」
「軍は弱い、民の支持もない」
「このままでは...」
臣下は何も言えなかった。
西夏の終わりが、近づいていた。
---
アウラガ。
舜は、一人で地図を見ていた。
西夏の城々。
街道。
河川。
全てを頭に叩き込む。
「舜」
チンギスが来た。
「殿」
「お前、本当にやれるのか」
チンギスが聞いた。
「...分かりません」
舜が正直に答えた。
「でも、やります」
「...」
「俺がここに来た」
舜がチンギスを見た。
「理由は分からない」
「でも、きっと何か意味がある」
「だから、全力でやります」
チンギスは、舜の肩を叩いた。
「頼んだぞ」
---
冬が去り、春が来ようとしていた。
第二次西夏遠征の準備が、始まっていた。
舜の策が、試される時が来る。
歴史が、動き出そうとしていた。
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