Ⅳ 失陥
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
中興府。
李純祐は寝台に横たわっていた。
窓から差し込む光が眩しい。だが、体を起こす気力がなかった。
「陛下」
侍医が入ってきた。
「薬を」
苦い薬を飲まされる。何の効果もない。李純祐は分かっていた。
自分の体は、もう限界に近づいている。
二十代半ば。本来なら最も充実した年齢のはずだった。だが、病が彼を蝕んでいた。
「陛下、太后様がお越しになられました」
李純祐は顔をしかめた。
母后だ。また政務の話だろう。
「通せ」
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太后が入ってきた。五十を過ぎているが、まだ気力は衰えていない。
「純祐」
名を呼ぶ。皇帝への礼もない。
「母上」
李純祐が弱々しく答えた。
「北の国境から報告が来ています」
太后が書簡を差し出した。
「モンゴル軍が動いたと」
李純祐は書簡を受け取った。だが、読む気力がなかった。
「どうなさるおつもりですか」
太后が問い詰める。
「...兵を、送ります」
「どれだけの兵を?誰を将とするのです?」
李純祐は答えられなかった。
軍のことは分からない。詩文や仏典なら分かるが、戦のことは。
「やはり」
太后が溜息をついた。
「私が決めましょう」
「母上...」
「あなたには無理です」
太后が立ち上がった。
「李安全を呼びなさい」
「李安全を...?」
李純祐が驚いた。
李安全は従兄弟だ。武勇に優れ、軍にも人気がある。だが、野心も強い。
「彼なら、モンゴルと戦えます」
太后が断言した。
「ですが...」
「他に誰がいるのです」
太后の声が冷たい。
李純祐は何も言えなかった。
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李安全が参内した。
三十代。がっしりとした体格。鋭い目をしている。
「陛下」
李安全が跪いた。
だが、その目には敬意がない。李純祐にはそれが分かった。
「李安全」
太后が言った。
「北のモンゴル軍を迎え撃て」
「承知しました」
李安全が即答した。
「兵は二万。甘州の守備兵と合わせれば二万5千になる」
「それで足りるか」
「十分です」
李安全が自信ありげに言った。
「モンゴルなど、所詮は野蛮な遊牧民。我が西夏の精兵の敵ではありません」
李純祐は不安だった。
だが、何も言えなかった。
「では、すぐに出陣せよ」
太后が命じた。
「はっ」
李安全が退出した。
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李安全が去った後。
太后が李純祐を見た。
「純祐」
「はい」
「あなたは帝として弱すぎます」
冷たい声だった。
「もし、このままでは...」
太后は言葉を切った。
だが、李純祐には分かった。
母は、自分を見限ろうとしている。
「...申し訳ありません」
李純祐が謝った。
太后は何も言わず、部屋を出て行った。
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一人になった李純祐は、窓の外を見た。
青い空。雲海が悠々と泳ぐように見える。
美しい景色だった。
だが、自分にはもう、何もできない。
国を守ることも。
民を救うことも。
「父上...」
李純祐が呟いた。
父も、病弱だった。だから早くに亡くなった。
自分も同じ道を辿るのだろうか。
李純祐は目を閉じた。
涙が流れた。
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甘州。
城壁の上で、守将の趙元が北を見ていた。
地平線に、黒い影が見える。
それが次第に大きくなっていく。
「来たか」
趙元昊が呟いた。
モンゴル軍だ。
数千騎。整然と並んでいる。
「将軍」
部下が声をかけた。
「敵の数は?」
「およそ七千と見られます」
「こちらは?」
「城内に三千。李安全将軍の援軍が二万」
趙元は頷いた。
数では優位だ。
だが。
「あの軍は...」
趙元が呟いた。
モンゴル軍の動きを見ていた。無駄がない。統制が取れている。
これは、ただの遊牧民ではない。
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モンゴル軍が止まった。
城から五百歩ほどの距離だ。
一人の男が馬から降りた。
テムジンだ。
「あれが...モンゴルの首領か」
趙元は見つめた。
テムジンは城壁を見上げている。
そして、何かを指示した。
兵たちが動き始めた。
「何をする気だ」
趙元昊が警戒した。
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モンゴル軍は攻めてこなかった。
ただ、城を囲んだ。
東西南北、全ての方向から。
「囲むだけか」
趙元昊が訝しんだ。
「将軍、これは...」
部下が言った。
「補給を断つつもりです」
「何?」
「城を攻めず、ただ囲む。食料が尽きるのを待つのです」
趙元昊は歯噛みした。
「騎兵で囲むとは、前代未聞ぞ」
しかし、城内の食料は、三ヶ月分しかない。
「李安全将軍の援軍は?」
「まだ、中興府を出たばかりです。到着まで十日はかかります」
「...十日か」
趙元昊は拳を握った。
それまで、持ちこたえなければならない。
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モンゴル軍の陣営。
テムジンが地図を見ていた。
「甘州の守備兵は五千」
ボオルチュが報告した。
「援軍は?」
「中興府から二万。だが、まだ遠い」
「ならば、問題ない」
テムジンが頷いた。
「城を囲み続けろ。誰も出すな、誰も入れるな」
「はっ」
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舜と星歌は、陣営の隅にいた。
「舜」
星歌が不安そうに言った。
「これから、どうなるの?」
「囲んで、待つだけだ」
舜が答えた。
「攻めないの?」
「ああ。攻城戦は損害が大きい。だから、飢えさせる」
「...それって」
星歌が言葉を詰まらせた。
「残酷だね」
舜は何も言えなかった。
戦とは、そういうものだ。
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三日が経った。
城内では、焦りが広がっていた。
「援軍はまだか」
兵たちが不安そうに言っている。
「あと一週間はかかる」
「一週間も...」
趙元は城壁の上を歩いていた。
モンゴル軍は、微動だにしない。
ただ、囲んでいるだけ。
だが、それが恐ろしかった。
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五日目。
城内から、一人の兵が脱出を試みた。
だが、すぐに矢を射られた。
こちらの弓は正確だった。
その遺体は、城門の前に放置された。
見せしめだ。
兵たちの士気が下がった。
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七日目。
李安全の援軍が、ようやく見えてきた。
二万の大軍。
趙元昊は安堵した。
「ついに来た」
だが。
モンゴル軍は動かなかった。
李安全の軍が近づいても、囲みを解かない。
「何を考えている」
李安全が苛立った。
「将軍、どうします」
副将が聞いた。
「攻める」
李安全が命じた。
「モンゴル軍を蹴散らし、甘州を救う」
「はっ」
西夏軍が突撃した。
二万の兵が、モンゴル軍に向かって駆ける。
だが。
モンゴル軍は巧みに退いた。
そして、弓を放った。
矢の雨が降る。
西夏軍の先頭が崩れた。
「何だ、あの動きは」
李安全が驚いた。
モンゴル軍は、攻撃と撤退を繰り返す。
決して正面からぶつからない。
「卑怯な...」
李安全が叫んだ。
だが、戦は続いた。
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日が暮れた。
西夏軍は、疲弊していた。
死傷者は動けないものも入れてなんと三千を超えた。
だが、モンゴル軍の損害は軽微だった。
「くそっ...」
李安全が拳を握った。
「将軍、一旦退きましょう」
副将が進言した。
「退く?」
「このままでは擦り潰され、全滅します」
李安全は歯噛みした。
だが、認めざるを得なかった。
「...退却する」
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西夏軍が退いた。
モンゴル軍は追わなかった。
ただ、甘州を囲み続けた。
城内では、絶望が広がっていた。
「援軍が...負けた」
兵たちが呟いた。
趙元は黙っていた。
もう、終わりだ。
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十日目。
城門がすべて開いた。
降伏だ。
趙元が城門から出てきた。
テムジンの前に跪いた。
「我らは降伏します」
「...」
テムジンは趙元昊を見た。
「城内の民を傷つけるな。それが条件だ」
趙元が言った。
テムジンは頷いた。
「約束する」
甘州は陥落した。
モンゴル軍が城内に入った。
だが、略奪はなかった。
テムジンの命令は徹底していた。
民は怯えながらも、無事だった。
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舜と星歌は、城内を歩いていた。
記録を取るためだ。
「人口は...」
舜が数えていく。
「建物の数は...」
星歌も記録していく。
民たちが、二人を不思議そうに見ていた。
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その夜、テムジンが趙元を呼んだ。
「お前は勇敢だった」
「...恐れ入ります」
「だが、李純祐は弱い」
テムジンが言った。
「あいつは、もう長くない」
趙元は黙っていた。
「次は誰が立つ」
「...おそらく、李安全かと」
「李安全か」
テムジンが興味深そうに聞いた。
「あの男は、野心家だな」
「はい」
「ならば」
テムジンが笑った。
「いずれ、また会うことになる」
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中興府。
李純祐に、甘州陥落の報が届いた。
彼は何も言わなかった。
ただ、空を仰いだ。
太后は冷たく見ていた。
李安全は、拳を握りしめていた。
西夏は、終わりの始まりを迎えていた。
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