XVI 苦悩
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。金&南宋の登場です。
1204年、金の首都・中都(後の北京)。
宮廷の一角。
耶律楚材が書斎で書物を読んでいた。
20代。穏やかな顔立ちだが、鋭い知性を秘めている。
「耶律殿」
扉が開いた。
完顔遠理が入ってきた。
30代。武官だが、教養もあり、詩を吟じたりする男だ。
「遠理殿」
耶律楚材が顔を上げた。
「また、ですか?」
「ああ」
完顔遠理が溜息をついた。
「宰相と尚書が、また言い争っている」
「...またですか」
耶律楚材も溜息をついた。
「何についてです?」
「税の配分だ。どちらが多く取るか、で揉めている」
「...呆れますね」
二人は黙った。
「耶律殿」
完顔遠理が真剣な顔をした。
「北のモンゴル、聞いていますか?」
「ええ」
耶律楚材が頷いた。
「テムジンという男が、モンゴル高原を統一したと」
「そうです。他の部族を全て倒したそうです」
「...強いですね」
「ええ。そして、いずれ我らに来るでしょう」
完顔遠理の声が低くなった。
「ですが、朝廷は気づいていない」
「...」
「宰相も、尚書も、皇帝陛下も。誰も北の脅威を見ていない」
完顔遠理が拳を握った。
「内輪揉めばかりだ」
耶律楚材は何も言えなかった。
その通りだからだ。
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「耶律殿、あなたは契丹人だ」
完顔遠理が言った。
「モンゴルと近い。あの草原の恐ろしさを知っているはずだ」
「...ええ」
耶律楚材が頷いた。
「私の祖先は、遼を築きました。草原の民の強さを知っています」
「ならば」
完顔遠理が身を乗り出した。
「陛下に進言してください」
「...」
「モンゴルへの備えを、と」
耶律楚材は迷った。
「ですが...私の言葉など、聞いてくれるでしょうか」
「分かりません」
完顔遠理が正直に答えた。
「ですが、言わねば、後悔します」
「...」
「このままでは、金は滅びます」
完顔遠理の目が真剣だった。
金の皇族に連なるものとは思えない。
耶律楚材は深呼吸した。
「...分かりました。言ってみます」
「お願いします」
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翌日、耶律楚材は皇帝・章宗に謁見した。
「何か?」
章宗は面倒そうに聞いた。
「陛下、北のモンゴルについて、お話しが...」
「モンゴル?ああ、聞いている」
衛紹王が手を振った。
「草原を統一したらしいな」
「ふむ」
章宗は興味なさそうだった。
「で、何だ?」
「陛下、モンゴルは脅威です。備えを...」
「備え?」
章宗が笑った。
「あんな野蛮な部族が、我が金に何ができる?」
「ですが...」
「もういい」
章宗が遮った。
「今は南宋との交渉の方が重要だ。モンゴルなど、後でよい」
「陛下...!」
「下がれ」
耶律楚材は歯噛みした。
章宗は文人皇帝で知られており、軍事に興味はない。
つまり、従うしかなかった。
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廊下で、完顔遠理が待っていた。
「どうでした?」
「...無理でした」
耶律楚材が首を振った。
「全く聞いてくれませんでした」
完顔遠理は拳を握った。
「...やはり」
「遠理殿、私たちにできることは...」
「分かりません」
完顔遠理が窓の外を見た。
「ですが、準備だけはしておきましょう」
「準備...?」
「いずれ、戦が来ます。その時のために」
完顔遠理が耶律楚材を見た。
「あなたの知恵が、必要になる」
「...私に、何ができるでしょうか」
「多くのことが」
完顔遠理が微笑んだ。
「あなたは、賢い。だから、生き延びてください」
「...はい」
二人は、廊下で空を見上げた。
北の空。
そこから、嵐が来る。
二人は、それを感じていた。
1204年、南宋首都・臨安(杭州)。
宰相・韓侂胄の屋敷。
「諸君」
韓侂胄が集まった将軍たちを見回した。
50代。野心に満ちた目。
「時は来た」
「...と、おっしゃいますと?」
一人の将軍が聞いた。
「金を攻める」
韓侂胄が地図を広げた。
「金は弱体化している。西夏は衰え、北からはモンゴルという新勢力が圧迫している」
「今こそ、失地を回復する好機だ」
将軍たちが顔を見合わせた。
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「宰相殿」
呉曦(呉義)が口を開いた。
「ですが、金はまだ強大です。軽々しく攻めるのは...」
「呉将軍、あなたは臆病なのか?」
韓侂胄が睨みつけた。
「いえ、そうではありません。ですが、準備が...」
「準備は整っている」
韓侂胄が遮った。
「兵は十分にいる。士気も高い」
「...」
呉義は何も言えなかった。
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「私は賛成です」
別の将軍が立ち上がった。
郭倪。40代。野心家の最高司令官だ。
「金を攻めるべきです。このまま手をこまねいていては、我が宋の名が廃る」
「そうだ!」
「金を倒せ!」
他の将軍たちも同調した。
呉義は眉をひそめた。
(この者たち...実力はある。だが、金の本当の強さを知らない)
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「では、決まりだ」
韓侂胄が満足そうに言った。
「再来年、北伐を開始する」
「おお!」
将軍たちが歓声を上げた。
「呉将軍」
韓侂胄が呉義を見た。
「あなたも参加していただく」
「...承知しました」
呉義は渋々頷いた。
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会議が終わり、呉義が廊下を歩いていると、一人の男が声をかけてきた。
「呉将軍」
振り返ると、賈似道だった。
まだ20代前半。韓侂胄の側近だ。
「賈殿...」
「どうですか、北伐の話」
賈似道が笑った。
「素晴らしいでしょう?」
「...正直に言えば、無謀だと思います」
呉義が答えた。
「金はまだ強い。準備不足で攻めれば、負けます」
「ふむ」
賈似道が首を傾げた。
「ですが、宰相殿はやる気満々ですよ」
「それは分かっていますが...」
「呉将軍」
賈似道が声を低くした。
「宰相殿に逆らわない方がいいですよ」
「...」
「今、宰相殿は権力の絶頂です。逆らえば...」
賈似道が指で首を切るジェスチャーをした。
呉義は黙った。
(こうなれば、自立するしかない)
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その夜、呉義は一人で月を見ていた。
「将軍」
部下が来た。
「どうする?」
「一応...従うしかない」
呉義が溜息をついた。
「だが、負けるだろう」
「...やはり」
「ああ。金はまだ強い。特に騎馬隊は精鋭だ」
呉義は拳を握った。
「韓侂胄は、それを理解していない」
「では、なぜ北伐を...?」
「功績が欲しいのだ」
孟珙が苦笑した。
「金を倒せば、歴史に名を残せる。それが目的だ」
「...」
「国のためではない。己のためだ」
呉義が空を見上げた。
「だが、現実は甘くない。必ず失敗する」
「その時は...?」
「我が本拠の四川にて自立する」
部下が言葉を失った。
呉義の目が決意に満ちていた。
「これは、好機だ」
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一方、韓侂胄の屋敷では、宴が開かれていた。
「ははは!金など恐れるに足らず!」
郭倪が酒を飲んでいる。
「そうだ!我らが攻めれば、すぐに降伏する!」
別の将軍も調子に乗っている。
韓侂胄は満足そうに笑っていた。
「よし、来年は盛大に祝おう。金を倒した後にな」
「おお!」
歓声が上がる。
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部屋の隅で、賈似道が静かに観察していた。
(韓侂胄...愚かな男だ)
賈似道は心の中で呟いた。
(北伐は失敗する。そうすれば、韓侂胄は失脚する)
(その時こそ、私の出番だ)
賈似道が思い出して顔を少し顰めた。
(呉義。何か不審な気配を感じた)
賈似道は、すでに次の手を考えていた。
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その頃、金の都・中都。
耶律楚材が夜空を見上げていた。
「南宋が、動くかもしれません」
完顔遠理が言った。
「韓侂胄という男が、北伐を企んでいるようです」
「...愚かですね」
耶律楚材が溜息をついた。
「金はまだ、そこまで弱くない」
「ええ。騎馬隊は健在です。南宋など、簡単に撃退できます」
「ですが...」
耶律楚材が北を見た。
「本当の脅威は、北です」
「...モンゴル」
「ええ。あちらが来れば...」
耶律楚材は言葉を続けなかった。
だが、二人とも分かっていた。
南宋は敵ではない。
本当の敵は、北にいる。
だが、朝廷は気づいていない。
内輪揉めと、南宋への対応に追われている。
(このままでは...金も終わる)
耶律楚材は、そう感じていた。
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1204年秋。
金も南宋も、内部で揉めていた。
本当の脅威に、誰も気づいていなかった。
ただ、一部の賢者だけが、北の空を見つめていた。
そこから、嵐が来ることを知っていた。
だが、止められなかった。
歴史は、容赦なく進んでいく。
だが―
遠くない未来、全てが変わる。
モンゴルという嵐が、やってくる。
そして、金も南宋も、その嵐に飲み込まれることになる。
時代は、新たな英雄を求めていた。
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史実より登場人物たちは早めに生まれることになってるんですがどうかご容赦ください。




