表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/1

雪割草の咲く春、失われた光を取り戻すように微笑んだ輝朗。 だが夜半、盤が震え、廊下を“何か”が歩く。 希望と恐怖が交錯する瞬間、運命の歯車は静かに動き出す。

冬に向かう、灰色の曇天が続くある日のことだった。

敦史(あつし)は教授の柏木に呼び止められ、研究室の奥の応接間に案内された。

窓辺に吊るされた古い気象観測用の硝子管が、風に叩かれて澄んだ音を響かせ、その音に呼応するかのようにストーブの鉄が唸り、乾いた熱が漂っていた。

「水沢。――信州に新しい天文台が建つのは聞いてるだろう。助手として我々と共に赴く気はないか?」

その声は穏やかに響いたが、どこか重苦しい気配を孕んでいた。

学問の新天地を示すはずの誘いが、敦史には奇妙に冷たく、運命を揺さぶるような響きとして届いた。

傍らには助教授の野口が立っており、来客用のソファに敦史を促した。

痩せた頬には戦地で負った焼痕が刻まれ、赤い影のように顔半分を覆っていた。

柏木は真剣な眼差しを敦史に向けた。

「君の今後の研究にも必ず役立つはずだ」

柏木は敦史が入学した頃から、研究を応援してくれた恩師だ。

野口も続いて柏木の隣に腰を下ろすと、低く声を添えた。

「……私自身も、水沢がいてくれると心強い」

ストーブの熱気に包まれているはずの研究室で、その言葉だけが氷片のように冷たく響いた。

淡々とした声色に、敦史の胸はわずかにざわついた。



信州――遠い山奥。新しい天文台という響きに心は高鳴るが、不安が胸の底に沈殿する。

思わず問いが口をついた。

「……私だけではなく、相馬も一緒に行けませんか?」

柏木はしばし沈黙し、眉を寄せた。

「もちろん。彼は優秀だ。しかし、相馬はまだ体調が良くないのだろう?」

教授の憂慮を帯びた声を切り裂くように、野口が重く言い放った。

「確かに……。彼と私は部隊は違ったが、上海の任務は過酷だった。……あれをほぼ無傷で帰れたのは、奇跡に近い。心の回復には、かなりの時間を要するだろう」

――その言葉の裏には、苛烈(かれつ)なものが潜んでいた。

敦史は、野口が帰還した日の光景を思い出していた。

野口は輝朗(てるあき)と別の部隊にいたが、同じく上海戦線を生き延びた男だった。

焼けただれた頬はその証であり、飢えと寒さに震えながら「どうやって生き延びたのかわからない」と呟いた姿を、敦史は今も忘れていない。

その彼でさえ言葉を失うほどに、上海は人を容赦なく削る戦場だった。

だからこそ、三か月後にほとんど無傷で帰還した輝朗を見たとき、敦史は喜びと同時に、言い知れぬ違和感を覚えざるを得なかった。

――輝朗の瞳からは、かつての光が欠けていたのだ。


「・・・・・・東京を離れた方が、彼の心は、少し晴れるのかもしれません」

敦史の言葉に、柏木は頷いた。


だが翌日、柏木の呼びかけに、輝朗は首を横に振った。

「私は……行けません。今の状況では、皆さんや水沢の足手まといになります」

硬く決意を帯びた声だった。

すると、野口がわざと机を指で叩き、低い声で挑発した。

「なぁ、相馬。気持ちはわからんでもないが……水沢に無理をさせても構わんのか?水沢は体が弱い。お前がいなければ、遠からず潰れてしまうぞ」

敦史の名を出された瞬間、輝朗の胸は強く疼いた。

野口は昔から、能力のある者を陰湿に引きずり下ろそうとする男だった。特に敦史の才能には執着していた。

もし、彼がいる部隊に自分が所属していたなら、生還できなかっただろう。

その底意地の悪さを悟りながら、敦史を見捨てることだけはできなかった。

そして――野口の片眼に宿る冷たい光が、輝朗を決断へと追い込むように射抜いていた。

「君に、無理をさせるつもりは無い。私たちも最大限力になりたいと思っているんだ」

野口とは逆に、柏木の言葉は思いやりに溢れていた。

「……わかりました。……私も行かせていただきます」

承諾の言葉は、まるで石を沈めるように重く落ちた。

野口の胸中は計り知れない。

一瞬、獣の存在が脳裏を掠めたが、現実に、敦史を守ることが先決だった。

――運命の扉が開いた瞬間だった。


こうして教授の柏木、助教授の野口、敦史、そして輝朗の四人は、冬の信州へと旅立った。

雪深い山あいに建つ新設の天文台は、白銀に閉ざされた孤高の砦のようだった。

凍てついた空気は鋭く澄み、どこか神聖な気配さえ漂っていた。

「すごい……」

夜空を仰ぎ、敦史は思わず息を呑んだ。

無数の星々が漆黒の天幕に張りつき、東京の空では決して見られぬ光景が胸を打つ。

その輝きに、輝朗の瞳もわずかに光を宿した。


やがて季節は春へと移ろった。

ある日、山道を歩いていた輝朗がふいに足を取られた。

「危ない!」

とっさに敦史が肩を支える。

「危うく踏んでしまうところだった」

輝朗が見つめる足元には、雪の間に凛と咲く一輪の花があった。

「あぁ……これは雪割草だ。雪解けに咲く、春を告げる花なんだ」

敦史はしゃがみ込み、手袋を外して花びらをそっと撫でた。

「なるほど。その通りの名前だな」

輝朗は小石を拾い、花を囲うように置いた。

――花の名前を知らずとも、小さな命を大切にする。輝朗の優しさは、まだ失われてはいなかった。

もしこの山の空気が、彼から少しずつ戦火の影を削ぎ落とすなら。

雪割草のように、新しい芽吹きが心に訪れるなら。

敦史はそれで十分だと願った。


だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。

ある晩、観測室の隅で野口が震える声を上げた。

「……黒い獣がいる。そこだ、すぐそこに!みんな見えないのか……?」

あまりに唐突で、敦史も輝朗も息を呑んだ。

柏木は「疲労のせいだろう」と笑ったが、震える野口の手は机を掴み、骨が浮き出るほどに強張っていた。

翌朝、野口の姿は忽然と消えた。

机上には黒い影を描いた走り書きだけが残されていた。煤のように滲み、まるで生き物が蠢くかのようだった。

捜索は尽くされたが、彼は戻らなかった。

さらに柏木までもが「影が来る」と譫言(うわごと)を繰り返し、急遽東京へ戻されることとなった。

一人、また一人と、見えぬ何かに確実に心を蝕まれていった。

――しかし、輝朗だけは違った。

「二人が居なくても大丈夫だ。装置の操作は任せてくれ」

その声は淡々としていた。だが、その落ち着きが敦史には逆に不安を呼んだ。

輝朗の瞳には光が戻りつつあった。雪解けの土を割り、顔を出す雪割草のように。

だが敦史は、その光の奥に潜む影を見逃さなかった。

輝朗の沈黙の裏に、暗い“何か”の痕跡が漂っていたのだ。


春の雪がまだ溶け残る山あいに、不気味な静けさが忍び寄っていた。

夜半、廊下から“コツ、コツ”と足音が響く。

敦史は寝台の上で息を殺した。

輝朗の部屋を覗けば、彼は安らかに眠っている。

だが――足音はなお続く。

まるで失踪した野口の影が、まだ廊下を彷徨っているかのように。

やがて、輝朗の机上の盤が小さく震えるのを何度か目撃した。

盤は呼吸を刻むように、カタカタとかすかな音を立てていた。

敦史は背筋に冷たいものを感じた。

闇に潜む“何か”が、確かにそこに息づいているのを感じながら。

――それでも、敦史は声にしなかった。

もし真実を口にすれば、自分の目に見えぬ“何か”が、完全に形を得てしまう気がした。

静寂と闇のあわいで、敦史はただ心で願い続けた。

どうか――あの雪割草のように、輝朗に小さな希望がまた芽吹くように、と。

その祈りは、凍える夜気に吸い込まれ、答えのないまま消えていった。


→ 第四話「静寂の代償」に続く

※更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。

挿絵(By みてみん)

ここまでお読みいただきありがとうございました。次回は、盤の真実に近づいていきます。いつも読んでくださり、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ