雪割草の咲く春、失われた光を取り戻すように微笑んだ輝朗。 だが夜半、盤が震え、廊下を“何か”が歩く。 希望と恐怖が交錯する瞬間、運命の歯車は静かに動き出す。
冬に向かう、灰色の曇天が続くある日のことだった。
敦史は教授の柏木に呼び止められ、研究室の奥の応接間に案内された。
窓辺に吊るされた古い気象観測用の硝子管が、風に叩かれて澄んだ音を響かせ、その音に呼応するかのようにストーブの鉄が唸り、乾いた熱が漂っていた。
「水沢。――信州に新しい天文台が建つのは聞いてるだろう。助手として我々と共に赴く気はないか?」
その声は穏やかに響いたが、どこか重苦しい気配を孕んでいた。
学問の新天地を示すはずの誘いが、敦史には奇妙に冷たく、運命を揺さぶるような響きとして届いた。
傍らには助教授の野口が立っており、来客用のソファに敦史を促した。
痩せた頬には戦地で負った焼痕が刻まれ、赤い影のように顔半分を覆っていた。
柏木は真剣な眼差しを敦史に向けた。
「君の今後の研究にも必ず役立つはずだ」
柏木は敦史が入学した頃から、研究を応援してくれた恩師だ。
野口も続いて柏木の隣に腰を下ろすと、低く声を添えた。
「……私自身も、水沢がいてくれると心強い」
ストーブの熱気に包まれているはずの研究室で、その言葉だけが氷片のように冷たく響いた。
淡々とした声色に、敦史の胸はわずかにざわついた。
信州――遠い山奥。新しい天文台という響きに心は高鳴るが、不安が胸の底に沈殿する。
思わず問いが口をついた。
「……私だけではなく、相馬も一緒に行けませんか?」
柏木はしばし沈黙し、眉を寄せた。
「もちろん。彼は優秀だ。しかし、相馬はまだ体調が良くないのだろう?」
教授の憂慮を帯びた声を切り裂くように、野口が重く言い放った。
「確かに……。彼と私は部隊は違ったが、上海の任務は過酷だった。……あれをほぼ無傷で帰れたのは、奇跡に近い。心の回復には、かなりの時間を要するだろう」
――その言葉の裏には、苛烈なものが潜んでいた。
敦史は、野口が帰還した日の光景を思い出していた。
野口は輝朗と別の部隊にいたが、同じく上海戦線を生き延びた男だった。
焼けただれた頬はその証であり、飢えと寒さに震えながら「どうやって生き延びたのかわからない」と呟いた姿を、敦史は今も忘れていない。
その彼でさえ言葉を失うほどに、上海は人を容赦なく削る戦場だった。
だからこそ、三か月後にほとんど無傷で帰還した輝朗を見たとき、敦史は喜びと同時に、言い知れぬ違和感を覚えざるを得なかった。
――輝朗の瞳からは、かつての光が欠けていたのだ。
「・・・・・・東京を離れた方が、彼の心は、少し晴れるのかもしれません」
敦史の言葉に、柏木は頷いた。
だが翌日、柏木の呼びかけに、輝朗は首を横に振った。
「私は……行けません。今の状況では、皆さんや水沢の足手まといになります」
硬く決意を帯びた声だった。
すると、野口がわざと机を指で叩き、低い声で挑発した。
「なぁ、相馬。気持ちはわからんでもないが……水沢に無理をさせても構わんのか?水沢は体が弱い。お前がいなければ、遠からず潰れてしまうぞ」
敦史の名を出された瞬間、輝朗の胸は強く疼いた。
野口は昔から、能力のある者を陰湿に引きずり下ろそうとする男だった。特に敦史の才能には執着していた。
もし、彼がいる部隊に自分が所属していたなら、生還できなかっただろう。
その底意地の悪さを悟りながら、敦史を見捨てることだけはできなかった。
そして――野口の片眼に宿る冷たい光が、輝朗を決断へと追い込むように射抜いていた。
「君に、無理をさせるつもりは無い。私たちも最大限力になりたいと思っているんだ」
野口とは逆に、柏木の言葉は思いやりに溢れていた。
「……わかりました。……私も行かせていただきます」
承諾の言葉は、まるで石を沈めるように重く落ちた。
野口の胸中は計り知れない。
一瞬、獣の存在が脳裏を掠めたが、現実に、敦史を守ることが先決だった。
――運命の扉が開いた瞬間だった。
こうして教授の柏木、助教授の野口、敦史、そして輝朗の四人は、冬の信州へと旅立った。
雪深い山あいに建つ新設の天文台は、白銀に閉ざされた孤高の砦のようだった。
凍てついた空気は鋭く澄み、どこか神聖な気配さえ漂っていた。
「すごい……」
夜空を仰ぎ、敦史は思わず息を呑んだ。
無数の星々が漆黒の天幕に張りつき、東京の空では決して見られぬ光景が胸を打つ。
その輝きに、輝朗の瞳もわずかに光を宿した。
やがて季節は春へと移ろった。
ある日、山道を歩いていた輝朗がふいに足を取られた。
「危ない!」
とっさに敦史が肩を支える。
「危うく踏んでしまうところだった」
輝朗が見つめる足元には、雪の間に凛と咲く一輪の花があった。
「あぁ……これは雪割草だ。雪解けに咲く、春を告げる花なんだ」
敦史はしゃがみ込み、手袋を外して花びらをそっと撫でた。
「なるほど。その通りの名前だな」
輝朗は小石を拾い、花を囲うように置いた。
――花の名前を知らずとも、小さな命を大切にする。輝朗の優しさは、まだ失われてはいなかった。
もしこの山の空気が、彼から少しずつ戦火の影を削ぎ落とすなら。
雪割草のように、新しい芽吹きが心に訪れるなら。
敦史はそれで十分だと願った。
だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある晩、観測室の隅で野口が震える声を上げた。
「……黒い獣がいる。そこだ、すぐそこに!みんな見えないのか……?」
あまりに唐突で、敦史も輝朗も息を呑んだ。
柏木は「疲労のせいだろう」と笑ったが、震える野口の手は机を掴み、骨が浮き出るほどに強張っていた。
翌朝、野口の姿は忽然と消えた。
机上には黒い影を描いた走り書きだけが残されていた。煤のように滲み、まるで生き物が蠢くかのようだった。
捜索は尽くされたが、彼は戻らなかった。
さらに柏木までもが「影が来る」と譫言を繰り返し、急遽東京へ戻されることとなった。
一人、また一人と、見えぬ何かに確実に心を蝕まれていった。
――しかし、輝朗だけは違った。
「二人が居なくても大丈夫だ。装置の操作は任せてくれ」
その声は淡々としていた。だが、その落ち着きが敦史には逆に不安を呼んだ。
輝朗の瞳には光が戻りつつあった。雪解けの土を割り、顔を出す雪割草のように。
だが敦史は、その光の奥に潜む影を見逃さなかった。
輝朗の沈黙の裏に、暗い“何か”の痕跡が漂っていたのだ。
春の雪がまだ溶け残る山あいに、不気味な静けさが忍び寄っていた。
夜半、廊下から“コツ、コツ”と足音が響く。
敦史は寝台の上で息を殺した。
輝朗の部屋を覗けば、彼は安らかに眠っている。
だが――足音はなお続く。
まるで失踪した野口の影が、まだ廊下を彷徨っているかのように。
やがて、輝朗の机上の盤が小さく震えるのを何度か目撃した。
盤は呼吸を刻むように、カタカタとかすかな音を立てていた。
敦史は背筋に冷たいものを感じた。
闇に潜む“何か”が、確かにそこに息づいているのを感じながら。
――それでも、敦史は声にしなかった。
もし真実を口にすれば、自分の目に見えぬ“何か”が、完全に形を得てしまう気がした。
静寂と闇のあわいで、敦史はただ心で願い続けた。
どうか――あの雪割草のように、輝朗に小さな希望がまた芽吹くように、と。
その祈りは、凍える夜気に吸い込まれ、答えのないまま消えていった。
→ 第四話「静寂の代償」に続く
※更新は毎週水曜日22:00頃を予定しております。
ここまでお読みいただきありがとうございました。次回は、盤の真実に近づいていきます。いつも読んでくださり、ありがとうございます。




