第9話 蒼月亭、戦場の入口へ
討伐隊が街を出発したあとのオルフェンは、不気味なほどの静けさに包まれていた。
酒場《蒼月亭》も、笑い声や歌声は消え、祈るように黙る人々だけが残る。
そんな中、血まみれの冒険者が駆け込み、カイに修理を依頼する。
女将ミレーヌは即断する――「酒場を戦場の入口に移す」と。
宿屋と修理屋が一体となって、街を守る者たちを支える物語が始まる。
◆静まり返る街
討伐隊が街を出発した翌日、オルフェンの空気はまるで風が止んだかのように重かった。
普段なら市場からは客引きの声が響き、酒場からは笑い声と歌声が漏れてくる。
しかし今は、石畳の通りを行き交う者も少なく、誰もが口を閉ざしていた。
「無事に帰って来てくれよ……」
祈るようにその言葉を口にする者の声だけが、街のあちこちで聞こえた。
蒼月亭の食堂も同じだった。
冒険者たちの常連席は空っぽで、残っているのは見送りを済ませた家族や仲間たちの沈黙だけ。
カイは工具箱を整理しながら、その空気を肌で感じ取っていた。
「……何もできないのかな、僕は」
小さく呟いたときだった。
◆血まみれの冒険者
ガンッ! と食堂の扉が叩かれた。
振り返ったカイの前に、泥と血にまみれた若い冒険者がよろめきながら立っていた。
「カイ! お前が修理できるって聞いた!」
荒い息を吐きながら、彼は剣を突き出す。
刃は無残に欠け、柄はぐらつき、今にも折れそうだった。
「戦場はまだ続いてる。だが、この剣じゃもう戦えない。……直せるか?」
カイは迷わず頷いた。
「使える程度までなら、すぐに修理します。ただ、切れ味は保証できません」
「構わない! 仲間が戦ってるんだ、俺も戻らなきゃならないんだ!」
カイは言葉を返さず、ただ作業に取りかかった。
◆無心の修理
金槌を握る手に力を込める。
カンッ、カンッ――火花は散らない。だが鉄を叩く音は、食堂の空気を震わせた。
余計な言葉はいらない。ただ無心で直す。
刃こぼれを削り、ぐらつく柄を締め直す。
ほんの数分が、永遠にも思えた。
やがて剣は戦える状態を取り戻す。
カイが差し出すと、冒険者は目を潤ませて叫んだ。
「ありがとう! 恩に着る!」
彼は剣を握り直し、踵を返すと駆け戻っていった。
カイはその背を見送りながら、胸が熱くなるのを感じていた。
◆女将の決断
「……みんな、出番だよ!」
その声に振り返ると、ミレーヌ女将が腰に手を当て、従業員たちに号令をかけていた。
「テーブルや椅子を持ってけ! 包帯と水もだ! 街の入り口で出張酒場をやるよ!」
「え、女将さん、戦場に近いんじゃ……」
給仕の娘が不安げに言う。
「バカ言ってんじゃないよ! 怪我人が戻ってくるかもしれないし、武器の修理もその場でやらなきゃ間に合わないだろ! 蒼月亭は戦う奴らを支えるんだ!」
その迫力に従業員たちは押し黙り、次の瞬間には顔を見合わせて頷き、慌ただしく動き始めた。
樽や食材を抱え、椅子や机を運び出す。包帯や清潔な布、薬草まで集められた。
◆もう一つの戦場へ
ミレーヌはカイの方を振り向く。
「カイ、あんたも来な。入口で冒険者どもの武器や防具を直してやりな。……街を守るのは、剣を振るう奴らだけじゃない。アンタの腕も必要なんだよ」
カイは大きく頷いた。
「はい! 僕も、できることをします!」
荷車に修理道具を積み込み、蒼月亭の従業員たちは街の正門へと向かう。
その足取りは急ぎながらも迷いはなかった。
石畳を抜け、城壁の影に広がる空き地。そこが、討伐隊の帰還を迎える臨時の野営所となる。
カイは金槌を握りしめ、深く息を吸った。
ここからが本当の「修理屋」としての試練だ。
酒場はもう「ただの酒場」ではない。
――それは、戦場に臨む者たちを支える、もうひとつの戦場へと姿を変えようとしていた。
第9話では、ついに《蒼月亭》が街を飛び出し、戦場を支える存在へと変貌しました。
血まみれの冒険者の剣を直した瞬間、カイは「自分も戦いの一部なのだ」と自覚する。
そして女将ミレーヌの決断が、宿屋と修理屋をひとつに束ね、街を守るための「もう一つの戦場」へと導くのです。




