第35話 森が見ている
廃村での生活が、ようやく「日常」と呼べる形を取り始めた頃。
修理、掃除、食事、見張り――単調だが確かな営みが、三人の間に静かなリズムを生んでいた。
だが森は、まだ沈黙を破っていない。
この日はただ、互いに「見られている」ことだけが、ゆっくりと共有されていく。
朝の空気は澄み切っていて、遠くの木々の葉擦れまでよく聞こえた。
蒼月亭の前庭――かつて村の集会場だったと思しき広場で、カイは木箱を修理していた。
釘を抜き、割れ目に木片を差し込み、締め直す。
単純な作業だが、こうした小さな直しの積み重ねが、暮らしを形にしていく。
少し離れた場所では、ミレーヌが干し物を確認し、リディアは建物の影で剣の手入れをしていた。
「……ねえ、カイ」
ミレーヌが、何気ない調子で声をかける。
「あんたも感じてるかい?」
カイは金槌を止め、静かに頷いた。
「はい。昨日より、はっきりと」
風でも、獣でもない。
視線――それも、ひとつではない。
ミレーヌは肩をすくめる。
「敵意はなさそうだね。少なくとも、今は」
その会話を聞いていたリディアが、布で刃を拭う手を止めた。
「……やっぱり、そう感じる?」
低い声だが、確信があった。
「リディアも?」とカイが尋ねる。
「うん。正確には――森の“向こう側”から」
彼女は剣を鞘に収め、木立の奥へ視線を向けた。
ミレーヌがちらりと横目で見る。
「向こう側、ねぇ……」
リディアはそれ以上は語らなかった。
ただ、小さく息を吐く。
「懐かしい感じがするだけ」
⸻
昼前。
カイはリディアの剣を預かり、作業台に置いていた。
刀身は細く、反りは浅い。
金属の色合いが、角度によって微妙に変わる。
「……見慣れない素材ですね」
カイは素直にそう言った。
「オルフェンじゃ手に入らないよ」
リディアは短く答える。
「向こう側のもの」
刃先には小さな欠けがいくつかある。
だが、致命的な損傷ではない。
カイは砥石を取り、いつも通りの手順で刃を整え始めた。
余計なことはしない。
癖も読まない。
ただ、今の状態を少しだけ良くする。
(……変わった剣だけど、何かあるな。)
(今日は、ここまででいい)
仕上げを終え、刃を拭く。
「大きな手は入れていません。
刃の通りと、重心だけ整えました」
リディアは剣を受け取り、軽く振った。
一度、二度。
「……十分」
短く、そう言って頷く。
その時だった。
「……今、見た?」
ミレーヌの声が低くなる。
三人の視線が、同時に森へ向いた。
木々の隙間で、影が一瞬揺れた――ように見えた。
だが、すぐに静けさが戻る。
リディアは、ほんのわずか目を細めた。
「……やっぱり」
「何かわかった?」とミレーヌ。
リディアは首を振る。
「まだ。ただ……」
自分の剣を見下ろし、静かに続ける。
「もし向こうが、私を見て“あれっ?”って思ったなら」
「それは、悪くない兆し」
カイは、その意味を完全には掴めなかった。
だが、リディアがこちらから仕掛けるつもりがないことだけは、はっきり伝わってきた。
⸻
夕方。
蒼月亭の影が長く伸び、森との境界が曖昧になる。
火を起こし、鍋をかける。
簡素な夕食。
だが、三人ともどこか気を張っていた。
「……もし、向こうから声をかけてきたら」
ミレーヌが言う。
リディアは少し考えてから答えた。
「その時は、私が前に出る」
「理由は?」
「私の剣を見て、気づく相手なら……話は通じる」
カイは、胸の奥で小さく息を吸った。
この廃村は、ただの隠れ家じゃない。
境界だ。
夜。
森は静かだった。
だが確かに――見ている。
そして、見返されている。
言葉のない、最初の均衡が、そこにあった。
今回描かれたのは、戦いではなく「境界に立つ感覚」です。
誰かが見ている。
そして、こちらも見返している。
衝突も、対話もない。
ただ、お互いが存在を認識しただけ。




