第32話「最初の客」
廃村での暮らしは、少しずつ形になり始めていた。
火は安定し、水は尽きず、食料も当面の目処が立った。
だが――
宿としての蒼月亭には、まだ欠けているものがあった。
それは「泊まる人」。
迎える相手がいてこそ、宿は本当に息をし始める。
そんなある日、土埃を上げて、一頭の馬が廃村へとやって来る
昼過ぎ。
畑の縁で土を均していたカイが、ふと顔を上げた。
遠くから、規則正しい蹄の音。
風に混じって、金属の触れ合う音と、酒の匂いがした。
「……来るぞ」
ミレーヌも気づき、腰に手を当てる。
次の瞬間、村の入口に馬影が現れた。
堂々とした体躯の栗毛馬。その背には、これでもかというほどの荷。
「おーい! まだ看板は出してねえのか!」
聞き慣れた豪快な声。
「……ダリウス隊長!」
カイが駆け寄ると、男は馬上から大きく手を振った。
「生きてたな! 噂通り、面白い場所に根を張ったじゃねえか」
馬から降りると、まず最初に下ろしたのは麻袋だった。
どさり、と地面が鳴る。
「干し肉、穀物、塩。
あとは保存のきく豆と粉」
次に、木箱。
蓋を開けると、中には酒瓶がぎっしり。
「こっちは酒だ。安物だが、数はある」
ミレーヌが吹き出す。
「……初日から酒樽代わりとはね」
「宿に酒がねえのは罪だろ?」
ダリウスは笑い、周囲を見回した。
「なるほどな。
廃村だが……悪くない。
風向きもいいし、水も近い」
リディアが一歩前に出る。
「しばらく泊まる?」
「一晩だけだ。
王都に戻る前の中継だな」
その言葉に、ミレーヌの目が細くなる。
「王都、どうだい」
ダリウスは表情を引き締めた。
「クローディア家の動きは、今は表に出てねえ。
だが、その代わり……」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「王都の中が、きな臭い。
貴族同士の駆け引きが激しくなってる。
表に出ない争いが増えてきた」
カイは黙って聞いていた。
「だから、しばらくここには来られん。
だが――」
ダリウスは、蒼月亭の建物を見上げた。
「来られるようになったら、必ず来る。
ここは……帰ってくる場所になりそうだからな」
ミレーヌは、ふっと笑った。
「じゃあ今日は、“最初の客”だね」
「おう。泊めてくれ」
その一言で、空気が変わった。
蒼月亭に、はじめて「泊まる」という行為が生まれた。
⸻
夜。
ミレーヌの煮込みが、鍋でぐつぐつと音を立てる。
ダリウスは椅子に腰掛け、剣をテーブルに置いた。
「で、頼みがある」
「武器の調整ですね」
カイはすぐに分かった。
「おう。
最近、刃の入りが鈍くてな」
剣を受け取り、カイは静かに観察する。
刃そのものは良い。
だが、重心がわずかに前へズレていた。
「……柄ですね」
「やっぱりか」
「少し削って、締め直します。
今夜中に」
ダリウスは満足そうに頷いた。
「いい宿だな。
酒があって、飯があって、修理もできる」
「それが蒼月亭だからね」
ミレーヌが鍋を置く。
湯気と匂いが広がり、四人は無言で食べ始めた。
誰も喋らないが、空気は穏やかだった。
食後、調整された剣をダリウスが振る。
「……いい」
短く、それだけ言った。
夜は静かだった。
個室に明かりが灯り、ダリウスは一晩を蒼月亭で過ごした。
蒼月亭にとっての「最初の客」としてダリウスが登場しました。
彼は物資と酒を運び、王都の情勢を伝え、そして一晩泊まる――
宿としての蒼月亭が、初めて本来の役割を果たした瞬間です。




