第29話 風を通す家
井戸の水を得て、最低限の生活が成り立つとわかった廃村。
次に必要なのは「眠れる場所」だった。
蒼月亭として使うことを決めたこの大きな家を、人が泊まれる場所へ――
静かな復興の一歩が、今日もまた積み重ねられていく。
◆埃の匂い
朝の光が、割れた窓から斜めに差し込んでいた。
その光の中で、埃がゆっくりと舞っている。
「……やっぱり広いねぇ」
ミレーヌは腰に手を当て、家の中を見渡した。
廃村で一番大きな建物。
壁は厚く、柱も太い。天井も高い。
「元は……集会所か、村長の家だったんでしょうね」
カイが言う。
広間の中央には、長机が並んでいた痕跡。
壁際には掲示板の名残。
柱には、子どもの背丈を刻んだような細い傷も残っている。
「人が集まる家だったのは間違いないね」
ミレーヌはそう言って、袖をまくった。
「だったら、また集まれるようにすりゃいい」
◆洗えるもの、使えるもの
最初に手を付けたのは、布だった。
押し入れの奥から引きずり出したシーツ、毛布、カーテン。
色はくすみ、匂いも強いが、破れてはいない。
「これは洗えば使える」
ミレーヌが即断する。
「全部ですか?」
「全部。
布は貴重だよ。宿をやるなら尚更さ」
井戸水を汲み、桶に張る。
灰を少し混ぜ、踏み洗いをする。
「……誰も来ないのに、宿の準備を?」
カイがぽつりと聞いた。
ミレーヌは笑った。
「来ない“今”だからできるんだよ。
客が来てからじゃ遅い」
◆風を通す
次は部屋だった。
蒼月亭として使う予定の個室。
扉を開け、窓を外し、風を通す。
「カビは……少ないですね」
カイが梁を確認しながら言う。
「人が急にいなくなった感じだね」
ミレーヌが応じる。
「疫病じゃない。争いでもない。
……だから家が生きてる」
屋根の一部は、カイがすでに直していた。
昨夜の雨が、床を濡らしていない。
「直した屋根、役に立ってるよ」
ミレーヌが言う。
「……よかった」
カイは小さく息を吐いた。
各部屋の床を拭き、埃を払い、
使える寝台を一か所に集める。
数は少ない。
だが、泊まれる。
◆「まだ」だけど「もう」
作業が一段落した頃、広間に二人が集まった。
「客は、いない」
ミレーヌが言う。
「看板も、出してない」
カイが続ける。
「でも――」
リディアが静かに言った。
「泊まれる」
その一言に、空気が少し変わった。
「そう。
宿ってのはね、“泊まれる”だけで成立する」
ミレーヌは頷く。
「酒も料理も、あとからでいい」
「近いうちに……誰か来るでしょうか」
カイが聞く。
「来るさ」
ミレーヌは迷いなく言った。
「ダリウスみたいな人もいる。
それに――」
少し間を置いて、笑う。
「人が行かない場所に、わざわざ行く商人もいる」
カイはその言葉を胸に刻んだ。
◆夜の蒼月亭
その夜。
広間の隅に灯した小さな明かりの下で、二人は簡単な食事を取った。
まだ客はいない。
でも、家はもう“宿の顔”をし始めている。
カイは壁を見回し、心の中で呟いた。
(……いつでも、開けられる)
蒼月亭は、静かに息を整えていた。
蒼月亭を「人が泊まれる場所」にするための静かな準備が描かれました。
洗われたシーツ、風を通した部屋、直された屋根。
まだ客は来ない――けれど、宿としての条件は整い始めています。
次にこの扉を叩くのは、旧知の人物か、それとも異質な行商人か。
蒼月亭は、開店の日を待たずして、すでに“宿”になっていました。




