第25話:火を入れる
広間を整え、掲示板を立て直した翌日。
廃村に残された大きな家は、少しずつ「使える場所」へと姿を変え始めていた。
次に手を入れるのは厨房。
客はまだいない。
泊まる者も、食べに来る者もいない。
それでも――宿として最も大切な場所に、火を入れる時が来た。
「……ここだね」
ミレーヌは、家の奥にある扉を押し開けた。
きしむ音と共に現れたのは、広間よりも低い天井の空間。
壁に沿って設けられた調理台、奥には大きなかまど。
床には割れた皿と錆びた鍋が転がっている。
「厨房……」
カイが小さく呟く。
空気は冷え、湿っていた。
長い間、火が入っていない匂いがする。
「ひどいね。でも……」
ミレーヌは一歩踏み出し、かまどを覗き込んだ。
「形は残ってる」
リディアは壁際の棚を調べ、黙って埃を払う。
「包丁は……使えない。でも、砥げばいける」
ミレーヌの目が、すっと細くなった。
「じゃあ、やろうか」
その一言で、空気が変わった。
まずは掃除だった。
灰を掻き出し、床を拭き、水を運ぶ。
カイは歪んだ調理台の脚を直し、緩んだ棚を留め直す。
「カイ、かまどの縁、ここ」
「はい」
石の欠けた部分を埋め、隙間を塞ぐ。
火が逃げないよう、丁寧に。
ミレーヌは鍋を一つ手に取り、重さを確かめた。
「いい鍋だよ。使い込まれてる」
「村の人たちが?」
「そうさ。毎日、誰かの腹を満たしてきた鍋だ」
昼を過ぎた頃、厨房は見違えるほど整っていた。
新品ではない。
だが、“使える”場所になっている。
「……火、入れるよ」
ミレーヌが言った。
薪を組み、火打石を鳴らす。
何度か火花が散り、やがて小さな炎が生まれた。
ぱち、と音を立てて薪が燃える。
「……あったかい」
カイが思わず口にする。
「当たり前だろ」
ミレーヌは笑った。
「厨房は、宿の心臓なんだから」
鍋に水を張り、乾燥肉と野菜を放り込む。
味付けは最低限。
だが、火にかける手つきは迷いがなかった。
しばらくして、湯気が立ち上る。
匂いが広間まで流れていく。
「客はいないけどさ」
ミレーヌは鍋をかき混ぜながら言った。
「腹を満たす場所がなきゃ、宿は宿じゃない」
スープができあがり、三人で囲む。
木の椀に注がれたそれは、素朴な味だった。
「……美味しい」
リディアがぽつりと言う。
「でしょ」
ミレーヌは誇らしげに胸を張った。
「誰もいなくても、作る。火を落とさない。それが宿屋さ」
カイは椀を両手で包み、湯気を見つめた。
(直したのは、屋根や床だけじゃない)
この火が、始まりだ。
第25話「火を入れる」では、蒼月亭の厨房が再び息を吹き返しました。
客はまだいない。
それでも、火を入れ、料理を作る――それは宿としての覚悟そのものです。
ミレーヌの手によって灯った火は、
やがて人を呼び、物語を呼び寄せるでしょう。




