第21話 焦げ跡と旅立ち
夜は明けたのに、蒼月亭にはまだ火の匂いが残っていた。
守り切ったはずの場所に、次の影が近づいてくる。
――逃げるためではない。守るものを選ぶために。
◆焦げ跡と来訪者
夜が明けた。
蒼月亭の床板には焦げ臭さがまだ沈んでいた。梁には黒い筋が走り、壁の一部は煤で灰色に染まっている。
カイは指でその黒い跡をなぞり、胸の奥で呟いた。
(木は生きている。直せる。けれど……このままじゃ、また来る)
鈴が小さく鳴った。
戸口に立っていたのはフードを下ろした女。冷たい灰色の瞳に、腰にはよく手入れされた細身の剣。孤高の歩みを纏う姿。
「リディアさん!」
ミレーヌが驚きに目を見張った。数日前、護衛の前に装備を預けたソロの冒険者。その人が再び姿を現したのだ。
「昨夜、火の手が見えたと聞いた。……何があったの」
「俺の家の連中が、力ずくで僕を連れ戻そうと」
カイが事情を簡潔に伝えると、リディアは短く息を吐いた。
「借りは作らない主義。剣が鈍ったとき、あなたは黙って直してくれた。……今度は私が、返す番」
その言葉に、奥から現れたダリウスが笑う。
「話が早くて助かる。俺が正面で崩す。嬢ちゃんは影に回って、要を落とせるか」
「任せて」
二人の視線が交わり、火花のような笑みが生まれた。
豪剣と影走り――不思議と噛み合う気がした。
◆炎再び
その時、表の石畳に靴音が広がった。昨夜よりも多い。
「出てこい、修理屋! 看板ごと灰にしてやる!」
ミレーヌは蒼月亭の看板を外し、胸に抱き締めた。
「これはあたしが守る。カイ、あんたは自分を守りな」
「はい!」
扉が蹴破られ、黒い影が流れ込む。
「――来いよ!」
ダリウスの剣が唸り、前列をまとめて弾き返す。盾を砕き、柄の捻りで手首を無力化する。
刃は振るっているのに、血の匂いが立たない――それが彼の“押し返す戦い”だった。
「左、三」
リディアの低い声が風に紛れる。彼女は柱の影に溶け、次の瞬間には敵の背へ回っていた。
鞘で顎を打ち、膝裏を払う。武器を落とした影は、崩れるように床へ沈む。
「嬢ちゃん、見事だ!」
「あなたこそ。音で誘ってる」
ダリウスは意図的に床を踏み軋ませ、敵の視線を集めた。
その一瞬を、リディアが刈り取る。豪剣と影――二人の呼吸は戦場で自然に重なっていった。
◆燃える梁
押し返せる――そう思った瞬間、背の高い男が酒樽の列へランタンを投げ込んだ。
「やめろ!」
カイが飛び込み、毛布で包み込んで押し潰す。だが火花は梁へと走り、乾いた木を舐めた。
「水、持ってきたよ!」
ミレーヌが桶を抱えて走り、従業員も必死に火を叩く。
だが二発目、三発目。火は天井裏に逃げ、煙が喉を締め付けた。
「下がれ! 梁が落ちる!」
ダリウスの叫び。嫌な軋み音が響き、梁が赤く裂け、火の粉が滝のように降り注ぐ。
「……っ」
ミレーヌは抱えた看板をぎゅっと抱き締め、泣き笑いを浮かべた。
「こいつだけは、連れてくよ」
リディアが最後尾を守り、通りへ退く。
次の瞬間、蒼月亭の屋根が崩れ落ち、炎の柱が夜空を焦がした。
◆決断
人々の叫び声が遠のく中、カイは拳を握り、爪が掌に食い込むのも気づかなかった。
「ごめんなさい……僕のせいで」
「違うよ」ミレーヌが首を振る。
「あたしが決めた。ここを畳んで、あんたと行くってね」
リディアがカイの目を真っ直ぐ見た。
「居場所は、作るもの。あなたの“修理”は、剣も心も繋ぎ直せる。――なら私も、その看板の下に立つ」
ダリウスが肩で息をしながら笑った。
「言ったろ。俺は盾になる。新しい店を構える場所まで、道は俺がこじ開ける。……辺境だろうが、亜人の里だろうが、連れてけ」
「ありがとうございます、隊長」
カイは燃え落ちる屋根を見つめ、深く息を吸った。
焦げた匂いの向こうに、まだ確かに残っている木の匂い――直せる。作り直せる。
「行きましょう、カイ」
「はい。――看板は“蒼月亭”、そのままで」
「決まりだね」
ミレーヌは涙を拭い、笑った。
「酒と料理と、あんたの修理。それで、また満席にしてやろうじゃないか」
救い出した工具、ミレーヌが抱える看板、リディアの軽装、そしてダリウスの豪剣。
四人の影は昼の光へと伸び、蒼い月を描いた古い板が、光を受けてほんの少し明るく見えた。
火に追われたのではなく、守るものを抱えて歩き出した。
蒼月亭の名も、修理屋の仕事も――まだ終わらない。




