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第20話 最後通牒

蒼月亭の夜は、いつも通り賑やかなはずだった。

けれど最近、街の空気のどこかが冷たい。

――カイの名を、遠い王都が思い出したからだ。

夕暮れの扉が開く音は、時に笑い声より重い。

蒼月亭の扉が再び開かれたのは、夕暮れの喧騒の真っ只中だった。

冒険者たちの笑い声と酒の匂いに満ちた空気は、一瞬で凍りつく。


入ってきたのはクローディア家の従者たち。前回よりも数は増え、中心には威圧感を漂わせる初老の男が立っていた。

彼は店内をぐるりと見回し、扇を鳴らして告げた。


「クローディア家よりの命である。――これは最後通牒だ」


ざわめきが止み、沈黙が落ちた。


「お前の力はクローディア家のものだ。王都に戻り、家のために尽くすのが当然。

それを拒み、この場末で宿屋の椅子やら剣を直すなど……笑止千万」


冒険者たちの顔が険しくなるが、相手は貴族。誰も軽々しく声を上げられない。

男はさらに声を低め、冷たく言い放った。


「これは温情だ。だが、この温情を踏みにじるなら……蒼月亭がどうなっても、我らの知ったことではない」


その一言で空気が爆ぜた。

「なんだと……!」と冒険者が立ち上がるが、ミレーヌが手を挙げて制する。


カイは唇を噛み、うつむいた。

――自分がいるせいで、大切な場所が危険に晒されている。


「……わかりました。僕が出ていきます」


その言葉に、酒場全体が沈痛な空気に包まれる。


◆炎の宣言


「ふざけるんじゃないよ!」


ミレーヌが拳でテーブルを叩き、酒が跳ね散った。

「カイ、あんたはうちにとって大事な弟みたいなもんだよ! 弟が困ってるのに、姉が黙って見捨てると思うかい!」


「でも、僕は――」


「でももヘチマもあるかい! あたしが一緒に行くよ! どこへでも!」


その炎のような眼差しに、従者たちでさえ気圧され一歩退いた。


初老の男は鼻で笑い、扇を閉じる。

「勝手にすればいい。だが覚えておけ。クローディア家の命を拒む者が、安寧に生きられると思うな」


従者たちは冷笑を残して去っていった。


◆迫り来る影


その夜の蒼月亭は、いつもより早く店を閉めた。

「今日はもう閉めたよ。裏口から従業員と客を順に出して。樽の水は全部ここに寄せる」

ミレーヌの声は落ち着いていたが、低く張り詰めていた。


カイは頷き、鼻口を濡れ布で覆い、工具箱と消火用の毛布を抱えた。

表戸の向こうから響くのは、複数の足音。革靴が石畳を踏みしめる重々しい音。


窓の隙間から覗けば、粗末な革の肩当てに黒いマントを纏った男たちが列を成していた。

先頭の男は左手に油壺、右手に松明。その指には、月明かりを反射する銀の指輪――クローディア家の家紋が刻まれていた。


(やっぱり……)

心の奥で予感が現実に変わる。


「火をつけろ!」

短い号令と共に、松明が持ち上がった瞬間――。


「カイ、樽、前へ! 扉を少しだけ開けたら、すぐぶっかけるよ!」

ミレーヌの怒鳴り声が響く。


戸板が叩かれ、蝶番が悲鳴を上げた。


◆豪剣、現る


その瞬間、空気を切り裂くような咆哮が轟いた。


「――道を空けろォ!」


突風のごとき勢いで飛び込んできた巨体の男。

幅広の剣が松明を弾き落とし、油壺を柄の底で叩き割る。

火花が散り、油が床に飛び散るより早く、男は肩越しにニヤリと笑った。


「遅くなったな、カイ!」

「ダリウス隊長!」


「よそん家に火なんざ点ける礼儀は、この俺の剣で折る主義だ!」


豪快な声と共に、ダリウスは前へ踏み込んだ。

刃は人を斬らず、柄と鞘で手足を打ち据え、膝を払う。

鈍い悲鳴が響き、襲撃者たちは次々に倒れ込む。


カイは隙間から水樽をひっくり返し、油の臭いを洗い流す。

ミレーヌは客が残したコートで火の粉を踏み消し、割れた瓶を蹴飛ばして足場を作った。


「退け! 退け! あの剣は本物だ!」

襲撃者の一人が叫び、後方へ雪崩れる。


その背を押しとどめるように、後方の影が静かに一歩踏み出した。

面布の下から響く声はくぐもり、冷たかった。


「勘違いするなよ。これは“警告”だ。……次は、もっと連れてくる」


一礼すらせず、その影は闇に消える。

残りの襲撃者も蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。


◆夜明けの前に


静けさが戻ると、蒼月亭の梁から黒い煤がぽろりと落ち、カウンター脇の椅子が軋んだ。

「ふぅ……」

ミレーヌは額の汗を拭う。手は赤く、指先に切り傷が走っていた。


「助かりました、隊長」

「礼はいい。……詳しく聞かせろ。最後通牒を受けたってのは本当か?」


カイは昼間のやり取りを包み隠さず話した。

クローディア家の使者は“家のため”を大義名分に掲げ、蒼月亭を人質に取るような言葉を放った。

拒めば実力行使も辞さず――今夜、それが現実になりかけたのだ。


ダリウスは舌打ちした。

「貴族の体面だのなんだの、そんなもんに酒場の灯を消されてたまるか」


「でも……この街の人にまで火の粉が飛ぶかもしれない」

カイの声は小さいが、はっきりしていた。


ダリウスはしばし黙り、剣を壁に立て掛けると椅子にどかりと腰を下ろした。

「夜明けまで俺が張り付く。明日、腕の立つ奴を一人呼ぶ。お前らが“次”を決めるまでの盾くらいにはなってやる」


「隊長……」

カイが言葉を探す横で、ミレーヌが静かに言った。


「ねえカイ。あたし、今夜決めたよ。看板を外そう。――一緒に、出よう」


カイは拳を握り締め、うなずいた。

「はい。必ず、直してみせます。どこに行っても」


窓の外、東の空の黒が薄れ、わずかに光が滲み始める。

火の匂いは残っているのに、空気は冷たく澄んでいた。


「ミレーヌ、少し休め。見張りは俺と――」

「俺ですよ」

カイが割り込むと、ダリウスは豪快に笑った。


「なら交代だ。……夜明けは、きっと忙しくなる」


灯りを落とした蒼月亭のホールで、三人の影が揺れていた。

それは新しい一日の前触れのように。

守るために、いったん手放す。

そんな決断が必要になる夜もある。

火の匂いが残る静けさの中で、蒼月亭は次の朝を待っている。

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