第18話 親方の影
蒼月亭の夜は、いつもなら笑い声で満ちている。
けれどその日だけは、酒の匂いの奥に、嫌な沈黙が沈んでいた。
◆黒鉄の塔からの帰還
蒼月亭の扉が、いつもより重く開いた。
ざわついていた酒場が、息を止めたみたいに静かになる。
入ってきたのは――王都のSクラス、《暁光の刃》。
数日前、英雄みたいに街を出た一団だった。なのに今は、鎧は乾き切っていない泥をまとい、視線は刺々しい。
「……帰ってきたのか」
誰かが呟いた。
別の誰かが喉を鳴らし、続ける。
「討伐……成功じゃ、ないな」
彼らは何も答えないまま、空いている席にどかりと腰を下ろした。
椅子が軋み、酒場の空気も軋む。
ミレーヌが、いつも通りの手つきで杯を並べる。
顔色ひとつ変えない。けれど目は、笑っていない。
「――何があったんだい」
答えたのはリーダー格の剣士だった。
短く、吐き捨てるみたいに。
「踏破を断念した」
その瞬間、店内がざわめいた。
Sクラスが、撤退?
言葉の意味が追いつかない。
「……理由は」
誰かが訊く前に、別の男が苛立ち混じりに言った。
「武器が使い物にならない」
「調整は済んでいたはずだ。王都の鍛冶師が仕上げた……なのに」
カイの胸が、きゅっと縮む。
王都の鍛冶師。
そこに浮かぶ顔は、ひとつしかない。
(オヤジさん……?)
あり得ない。
そう思うのに、彼らの手元の武器は確かに“疲れて”見えた。
剣の柄はわずかに歪み、刃先には微細な欠けが走っている。
盾の縁も、金具の締まりが甘い。
それは大きな破損ではない。だが――“命を預ける場面”では致命的だ。
(こんな調整、オヤジさんがするわけがない……)
けれど、カイはその場で口を挟めなかった。
Sクラスの空気が、拒絶そのものだったからだ。
彼らは杯を一口だけ飲み、席を立つ。
「王都へ戻る」
それだけ言い残して。
蒼月亭の扉が閉まったとき、ようやく酒場は息を吐いた。
笑い声は戻らない。
代わりに、薄い不安が残った。
ミレーヌがカウンターに肘をつく。
「……嫌な帰り方だね」
カイは返事ができなかった。
工具を握る手だけが、少し強くなる。
◆隊長の来訪
数日後。
昼下がりの蒼月亭に、豪快な声が飛び込んできた。
「しばらくぶりだな、元気にしてたか!」
ダリウス隊長だった。
その瞬間、酒場の空気がぱっと明るくなる。
「隊長だ!」
「また来たのか!」
常連たちの声に、ダリウスは手を振り返した。
カイは修理台から立ち上がり、思わず駆け寄る。
「ダリウス隊長……!」
「おう。顔、良くなったじゃねぇか」
肩を叩く手の重さは、あいかわらず安心する重さだった。
だが――次の言葉で、空気が変わる。
「今日は頼みがある」
「頼み、ですか?」
「俺の武器を調整してくれ」
カイは瞬きをする。
「……王都で、やらないんですか。オヤジさんが――」
ダリウスの笑みが、すっと消えた。
一度だけ、目を伏せる。
「そのオヤジさんがな……倒れちまった」
「……え?」
喉の奥が冷える。
聞き間違いだと思った。
でも、ダリウスの顔は冗談を許さない。
「Sクラスの連中がここに寄った直後だ。調整した……その、すぐあとらしい」
「いまはずっと寝てる。……仕事場にも戻れてねぇ」
カイの頭の中が白くなる。
あの頑丈な背中が、寝台に沈んでいる絵が浮かんでしまう。
「……僕、行かないと……」
口が勝手に動きそうになるのを、必死に抑えた。
ダリウスは、カイの目を真っ直ぐ見た。
優しいのに、逃げ道を塞ぐ目だ。
「だから来た。お前にしか頼めねぇ」
「……でも、俺は」
「言うな」
ダリウスは手を上げ、止める。
「お前がどう育ったか、俺は知ってる。
あの親方が、お前を“使える”って言った。それだけで十分だ」
カイは唇を噛み、拳を握った。
指先が痛い。
それでも、目を逸らせない。
(オヤジさん……)
胸の奥が、きしむ。
けれど、そこに別の火も灯る。
逃げたい火じゃない。
自分の手で守りたい、という火だ。
◆新たな決意
「カイ」
ミレーヌが、いつもより低い声で言った。
「悩むな。悩んでる暇があるなら、手を動かしな」
カイは、ゆっくり頷く。
修理台へ戻り、ダリウスの武器を受け取る。
重い。
けれど、重さは正直だ。
この重さを預けられるってことは――信頼だ。
「……やります」
小さな声でも、芯は折らさない。
ミレーヌが短く笑った。
「それでいい」
カイは工具に手を伸ばした。
金槌の柄は、指に馴染む。
それは親方がくれた時間の、形だった。
(オヤジさん。俺はここで、やります。
胸を張って会いに行けるように――)
カイが金槌を振り下ろす。
乾いた音が鳴った。
蒼月亭の呼吸が、またひとつ整った気がした。
Sクラスの帰還が落とした影は、街の空気を静かに変えていきます。
そして、ダリウスから告げられた報せ。
カイは“何かを取り戻すため”ではなく、
“いまここで支えるため”に、金槌を握ります。




