蝉しぐれ
誰にでもある夏休み前の記憶。
凄まじい蝉しぐれだった。
夏の夕暮れどき。
少しだけ涼しく感じる風が木々を揺らしては、山の稜線に消えてゆく太陽の残り火をコンクリートの地面にチラチラと映している。
「今年はどうするの?」
「うん?」
「夏休み、どこか行くの?」
学校の帰り道。
私の問いかけにあの子は、にこりと笑って教えてくれた。
「今年はね、海に行くんだって!」
「え、良いなぁ」
私たちの住む場所から海は遠いところにしかなかってので、とても羨ましかったのを覚えている。家族みんなで、夏休み前日の夜遅くに家を出て、朝になったら海に着いているんだ!と嬉しそうに話していた。
夏休み前のあのワクワクして浮き足立つ心は、大人になった今でも分かる。
あの子は本当に楽しみにしていた。
「でもね、わたし、もう学校には行けないかも」
「──え?なんで?」
「お父さんとお母さんがね、そう言ってた。だから今のうちにみんなとたくさんお話しておきなさいって」
「どうして?帰ってこないの」
「転校……かな?もう、ここには帰れないんだって」
手に持った給食袋をぎゅう、と握ってあの子は俯いた。
思わず立ち止まってしまった私たちを、後ろからきた男の子たちが走りながら抜いていく。
少しの無言も気にならないくらい、凄まじい蝉しぐれ。
「そう、なんだ……」
「うん……うん……だから、夏休み、までなんだ……」
「そっか……あ!文通しようよ!」
「──する!!お母さんに新しい家の場所えてもらうから、交換しよう!」
嬉しかった。
あの子が居なくなってしまうのは悲しいが、遠くでも手紙を通じて友達のままでいられる事が。たくさん送ろう。その日、私は家に帰ってから母親に早速その事を話した。友達が転校してしまうこと、その子と文通をする約束をしたこと、住所を交換したいこと。
母親は、知らなかったわ、そうなのね、と言ってすぐに私の家の住所を記した紙を便箋に入れ、渡してくれた。
──その便箋は、今も私の手元にある。
今は黄ばんで少しよれたその便箋を、当時の私はあの子に渡せなかった。
次の日からあの子は学校に来なかった。
ひとりになった帰り道、それでも、いつか、ふとあの子が来てもいいように便箋は学校のカバンに入れたままで、いつも歩いていた。
蝉しぐれ。
トボトボ歩く私を走って追い越していく男の子たち。
何年経っても、何度夏休みを迎えても、あの子は帰らなかった。
そんな私を見て母親は何も言わず、便箋の事も聞かず、夏休み前になると私の大好きな晩御飯を毎日作ってくれていた。
今でも思い出す。
今になって理解出来た。
今だからこそ。
あの日、一台の車が海へ落ち、三人の家族の命が失われた。
そのニュースを私は見ていた。
あの子にその日、渡すはずだった便箋を片手に。
凄まじい蝉しぐれだった。
夏の夕暮れ、今よりも涼しく感じた記憶の中の風。
山の稜線に消えてゆく太陽の、眩しい残り火。