首にかかった縄は冷たかった
人が死ぬということが、どういうことなのか。
この問いに正面から向き合うことは、多くの人にとって容易ではない。けれど、誰しも人生のどこかで、それを突きつけられる瞬間が訪れる。
本作は、一人の男がある女性との出会いと別れを通して、生と死の境界を見つめた物語である。
彼女を救えなかった彼が選んだ道とは——。
首にかかった縄は冷たかった。まるでそれが、生きることに疲れ果てた彼女の最後の意思表示であるかのように、凍えるほどの冷たさだった。
———
夜の仕事をしていた。ネオンが瞬く街で、俺は酒と嘘を売りながら生きていた。客の話を聞き、適当な相槌を打ち、時には媚びる。誰も本音を話さない世界で、俺もまた、自分の本当の気持ちを封じ込めていた。
彼女と出会ったのは、そんな飲み屋のカウンターだった。酔い潰れた女がひとり、虚ろな目でグラスを傾けていた。化粧の濃さと、どこか痛々しい笑顔が気になった。
「ずいぶん飲んでるな」
声をかけると、彼女はふっと笑った。
「死にたくてさ」
あっけらかんとした声だった。最初は酔いの戯言かと思ったが、彼女と関わるうちに、それが本音だと知った。
彼女は毒親に育てられた。愛情のない家庭で、ただ存在していることが罪であるかのように扱われた。心の拠り所がなく、大人になってからもその傷は癒えず、いつも生と死の狭間を揺れていた。
リストカットやODの写真を送ってくるのは、彼女なりの「助けて」だったのかもしれない。けれど俺は、そんなSOSにどう応えればいいのかわからなかった。
「やめろよ」と言っても、彼女は「ごめんね」と言うだけで、また同じことを繰り返した。
何度も別れ話をした。こんな関係は互いを蝕むだけだと、何度も説得した。でもそのたびに彼女は「私を捨てないで」と泣いた。
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別れ話が六回目に差しかかった頃、彼女からぱったり連絡が来なくなった。
最初は、駆け引きかと思った。でも、一日、二日、三日と経っても何の音沙汰もない。胸騒ぎがして、彼女の家へ向かった。
部屋の鍵はかかっていなかった。
呼びかけても返事はない。嫌な予感を押し殺しながら、奥の部屋の扉を開けた。
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彼女は首を吊っていた。
悲惨な状態だった。
「冗談だろ?」
震える声が部屋に響いた。冗談にしては、あまりにも残酷だった。
俺は彼女の手を触れた。その瞬間、血の気が引いた。冷たい。氷のように冷たい。
生きている人間の温もりがそこにはなかった。
そのとき、初めて「人が死ぬ」ということがどういうことかを知った。
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彼女の葬儀には行かなかった。行く資格がないと思った。俺は彼女を救えなかった。
それからしばらく、俺は自分を責め続けた。あのとき、もっと違う言葉をかけられたら。もっと寄り添えていたら。いや、そもそも彼女と出会わなければ、彼女は違う未来を歩めたのではないか。
答えの出ない問いが、夜ごと俺を締めつけた。
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俺はカウンセラーになった。
誰かを救いたかった。あのとき、俺がどうすればよかったのかを知りたかった。
首にかかった縄の冷たさを、二度と感じたくなかった。
もし彼女が今も生きていたら、俺の選んだ道をどう思うだろう。
「バカみたい」
きっと、彼女は笑うだろう。
でも、それでもいい。
誰かの手が、冷たくなる前に。
俺はこの道を歩き続ける。
この物語を書き終えたとき、ふと、彼女は本当に救われなかったのだろうかと考えた。
確かに彼女は命を落とした。しかし、彼女の存在は、主人公の人生を大きく変えた。
人は誰かのために変わることができる。
たとえ直接救えなかったとしても、その経験が別の誰かを救う力になることもある。
この作品を読んだあなたが、誰かの「冷たくなる前の手」に気づくきっかけになれば幸いである。