89話:岩妖鬼
「ふい~、やっぱシャバの空気は美味いわね!」
「出所した囚人かお前は……」
洞窟から出るなり思い切り両腕を振り上げて気持ちよさそうに伸びをするリアナ。
今回は初めてということで、探索はそこそこに切りの良いところで帰ってきた。フィリアが作った地図は初めてにしては思いの外わかりやすく、俺が刺した目印に頼ることなく出られた。
それでも帰りの道のりはそこそこ長く、坑道を抜けて外に出た頃にはすっかり太陽は沈み始めて空は真っ赤に焼けていた。
「とは言え、気持ちはわからんでもないがな。ずっと狭い洞窟にいたんだ。なんだかんだストレスを感じてたんだろ」
別に身を屈めて動いていたわけではないのだが、やはり何時間も暗く狭い所に居たためか、外に出てみると何とも言えない解放感を感じる。いや、この場合は開放感か? なんにせよ清々しい気分だ。あんまり良い思い出がない夕日も、今回ばかりはささやかながらも癒しを与えてくれる。
「しかし、思ったよりも人が居るな?」
坑道の入り口には俺達の他に何組もの冒険者がおり、それぞれが装備についた汚れを拭いたり隅の方で魔物の解体等をしている。中には探索中に軽い怪我でも負ったのか傷の手当をしている組もいた。
また視線を遠くへとやれば、別の坑道からは労働者達が列を成して出てきている。どうやら奴等の就業時間とも重なったようだ。
流石にこの距離では声どころか顔や体格すらはっきりと見えないが、時折こちらに視線を向けられていることだけは肌で感じ取れる。
相も変わらず友好的とは言えない視線だ。もっとも、それに気付いているのは俺だけだろうがな。
「たまたま帰る時間が重なったようね。鉱夫はともかくとして、今ここに居る冒険者のほとんどは討伐者なんじゃない? 見た感じほとんどがEランクで、高くてもDランクってところかしら?」
俺の言葉につられて辺りを見渡したリアナがそんな風に推察した。
「ほう……その心は?」
「装備の汚れ具合と荷物、それから怪我の具合かな? どの人も装備が揃ってないし、付いている傷や血の量も多い。まだ魔物との戦闘に慣れてないか慣れ始めって印象。だからD以下。討伐者って思ったのは、探索するにしては武装以外の荷物は最小限だから。魔石や討伐部位の入った袋はパンパン……十中八九、内部の調査よりも魔物の間引きをメインに動いている冒険者達よ」
なるほど。ここに居る者の多くは軽装ばかりで、荷物も小さい物ばかりだ。
俺とリアナも彼等と似たり寄ったりだが、フィリアだけは作図のための道具の分少しだけ荷物が多くなっている。一つ一つの道具はさしたる大きさではないが、それらを全てまとめるとそれなりの量になる。武器の整備道具や食料や倒した魔物から魔石やらを取り出せば更に増える。
戦闘のために激しく動き回る討伐者は、長時間の滞在を除けば本当に必要最低限の荷物しか持たない。討伐目標が弱くて数の多い魔物ならば、荷物が少ない方がそれだけ長く戦えるし持って帰れる魔石が増えるからな。
それを表すように、ここに居る冒険者の腰や背中には大小さまざまな大きさの袋がぶら下がっていた。中身は魔石や討伐部位、もしくは獲物の死体が丸ごと入っているのだろう。景気が良いようで何よりだ。
「しかし……少しばかり血の臭いが強いな。いや、俺が言えた義理ではないのはわかっているが……」
「気持ちはわかるけど、それも仕方なくない? 暗い洞窟の中でランタン点けて作業するより、夕暮れでも明るい太陽の下で作業した方がずっと楽だもん。それに、あの魔物の山を考えればどれだけ討伐したかわかるでしょ?」
確かに……今日の探索だけで既に何か所も死体が積み上がっている場所を発見した。死体も、俺達が見つけた物だけでも数十体はくだらない。
何組も冒険者パーティーが居るとは言え、よくもまあここまで狩ったものだ。いやあるいは、よくもここまで魔物が潜んでいたものだと言うべきか? そりゃあ血生臭くなるわな……。
なんにせよ、ここに長くいたらまた過去の嫌な記憶が蘇りそうだ。折角の良い気分が損なわれない内に冒険者協会へ戻るか。
「――ん?」
そう思っていた矢先――不意に坑道から複数の慌ただしい足音と息遣いが聞こえ、俺は背後を振り返った。
「どうしたのアゼル?」
俺の様子に気付いたフィリアが疑問を投げかけるが、俺の代わりに答えるように坑道の奥から二つの影が現れた。
「ど、どけっ……!」
「う、うう……」
焦りの混じった怒声と共に外に転がり込んできたのは二人の男冒険者。 ここまで相当走ったのか両者共に息は乱れ、片方に至っては重傷を負ったのかもう一人の男に肩を貸されて半ば引きずられるように歩いていた。
「ちょっ、どうしたの⁉ 中で何が――って、アンタ今朝の?」
リアナの声につられて視線を洞窟の奥から男達の方へ向けて見ると、重症の男に肩を回し運んでいた男の顔には確かに見覚えがあった。
「あん? 誰かと思えば、冒険者協会でリアナに絡んできた奴じゃないか」
冒険者協会の掲示板の前で、鉱山探索の依頼書を取るのを妨害していたあの男だ。肩に担いでいる重症の男は知らないが、状況的にこいつのパーティーメンバーだろう。
骨が折れたのか右腕はだらりと垂れており、左足は挫いたのか何かに強く打ちつけたのか痛みから庇うように歩いている。頭や口元からも血が垂れていたが、左側の顔が腫れて細かい傷が有ることから察するに岩壁に頭を打ちつけたのだろう。
頭を打って意識を飛ばさなかったとは運が良いな。
「あ、あんた、今朝のCランク冒険者か!」
男も思い出したのか、リアナの顔を見ると焦った様子から歓喜した顔へ一転する。
「た、頼む、助けてくれ! あいつ等が来る! 追って来てんだ!」
「お、落ち着きなさいよ! 来るっていったい何が?」
必死の形相でリアナに縋ろうとする男に、リアナも様子を見ていた周囲に居た冒険者達も戸惑っている。
そんな中俺は、顔を坑道の奥へと向けたままゆっくりと赤剣を抜く。
「フィリア、リアナ、入り口から離れたほうがいいぞ」
「アゼル?」
「奥から何か来る。それも、デカい奴がな」
それを言うと、二人も坑道の奥から響く思い音に気付いたようで、急いで男達も引きずって入り口から距離を取った。
それからほどなくして、入り口を埋める程の大きさの人型の影が二つ、のっそりと坑道の奥から現れた。
酷く太った腹に灰色の肌。身長は大体二から二.五メートルと言ったところか。人よりも幾分か大きく、トロッコが出入りするため少し高く掘られた坑道の天井付近まで頭が届いていた。
その姿を確認したリアナは驚愕から目を見開いた。
「ウソ、岩妖鬼⁉ なんでこんなヤツが……」
リアナの言葉に周囲に居た冒険者達からも動揺した声が上がる。
岩妖鬼の手には何故か剣やら鞄やらが握られていたが、その巨体が握るといささか小さい印象を受けた。それらを見て逃げ込んできた冒険者二人が呻くように呟く。
「ああ、畜生。あの鞄、あいつ等の……」
「ごほ……俺の剣まで……くそっ」
どうやら、あれらの持ち物はこの二人の仲間の物だったか。どうやらこの二人には他にも仲間がいたようだ。
重症の男の腰には空の鞘がぶら下がっているから剣の方はこいつの物だったとして、鞄が岩妖鬼の手に有るということは……まあ、手遅れだろう。
そんなことより、俺の興味は岩妖鬼に向いていた。
「ほう、岩妖鬼か。噂には聞いていたが、実際に目にしたのは初めてだな」
岩の如き肌と岩をも持ち上げる怪力を持った人食いの鬼――なんて話をどこかで聞いたような聞かなかったような。
「そんな暢気なことを言ってる場合じゃないわよ! ああいや、アンタの場合はそうかもだけど――アレ、Cランクの魔物よ」
「Cランクか……の割にはあんまり気迫を感じない気がするが?」
「だからそれはアンタだけだって! そりゃあ夜狩熊と比べたら大したことないかもだけど!」
だとしたらちょっと気を引き締めておかないと駄目かな。俺は良いが、二人や他の奴等に攻撃が向くと少し危ないかもだ。
「グフゥ……オオオオオオーー!」
「く、来るぞ! みんな逃げろ!」
「きょ、協会に連絡を! 高ランクの冒険者を連れてこい!」
「あ、おいバカ、逃げんな! 誰かがあいつを抑えなきゃ町にまで被害が出るぞ!」
岩妖鬼が低い声で雄叫びを上げると、それにビビった冒険者が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。一部の冒険者はその場に留まり戦うよう呼び止めるも、大多数の冒険者達は解体途中だった獲物すらも放り投げて逃げていった。
冒険者がそんなんでいいのかとも思うが、まあ全員EやDランク冒険者だというのならそれも仕方ないか。むしろ逃げて強い奴に救援を求めるのは正しいと言える。
「高ランクの冒険者って……いちおうアタシもCランクなんだけど?」
「例の如くそうは見えないんだろ……いっそのこと、この町に「狐走」の異名を広めてみたらどうだ?」
「……その異名嫌いなの知ってるくせに。それに名乗って「誰?」って言われたら更に恥ずかしいじゃん」
「確かに」
さて……ここに残ったのは俺達と三人組の若い冒険者、そして逃げ込んできた二人の冒険者だけか。
逃げ込んできた二人は必死にここから逃げようとしているが、地下からここまで来るのに随分と体力を消耗したのか、岩妖鬼がここまで追ってきたことに恐怖したのか、足が震えて上手く歩けないようだ。地下から地上まで追ってくるとは、岩妖鬼は中々しつこい魔物だな。
冒険者が一斉に逃げ出したことで、向こうの鉱山労働者達も異変に気付いたようだ。詰所に控えていた警備の兵士も動き出して慌ただしくなっている。
ここで俺達まで逃げ出したら岩妖鬼は間違いなくあちらの方へ向かうだろう。いや被害が出たところで俺には関係はないと割り切ることもできるが……。
「どうする? 一応俺達も逃げることはできるが」
「そんなわけにはいかないでしょ! ここで止めなきゃ町に下りてきちゃう」
「アタシ達が止めないで誰が止められるっていうのよ。逃げるなんて論外!」
だろうなあ。二人の性格から考えて、向こう側に大勢人が居る状態で岩妖鬼を放置するわけがない。
気迫は夜狩熊に劣っているとは言え、相手はCランクの魔物だ。しかも俺にとっても初めて相対する魔物だ。リアナはともかくとして、フィリアを戦わせても大丈夫なものか……。
「リアナ、一体は倒せそうか?」
「余裕……って言えたらカッコイイんだけどねー。言うてアタシもつい最近まではDランクだったから。Cランクの魔物との戦いは正直不安なところはあるわ」
「ん、そう言えばそうだったな?」
昇格間近だったとは言えロスウェル村に来たときのリアナがまだDランクだったな。リアナよりも歴が長いカイル達でさえ、Cランクの魔物との戦闘は少なかった。なりたてのリアナは尚更だろう。だが――
「――それでも、ここなら十分戦える! 狭い洞窟の中だったら危なかっただろうけど、広い場所ならそうそう捕まるようなことはないわ!」
そう言ってリアナは力強く頷いて見せた。
「ふむ……フィリアはどうだ? 魔力は大丈夫か」
「十分に余裕あるわ」
「そうか、よし――二人は協力して片方と戦ってくれ。もう片方は俺が片付けておく」
「了解!」
「わかったわ!」
リアナの肉体のポテンシャルは既にCランクに届いている。でなけりゃ若くしてCランクまで上り詰められなかっただろうし、魔物相手に生きていられるわけがない。
生まれ持っての才能――いや、生まれながらにして魔力で変質した肉体を持っていたのだろう。本人に自覚はないだろうが、リアナの健脚はそれによるものだ。だからこそ、リアナに付いて来れる新人が他に居なかったのだろう。
フィリアも同様だ。リアナとは方向性は違うが、同じくらいのポテンシャルは秘めている。常人よりも多めの魔力を持ち若くして中級魔術を行使できる彼女もまた、能力だけで言ったらCランクに手は届いていると言える。あとは経験と技術を積ませるだけで「ポテンシャル」はすぐ「実力」になる。
この二人が協力すれば、多分岩妖鬼は倒せるだろう。さて後は――――
「おい、そこの三人組! 悪いがそこでひいひい言ってる二人を連れて離れてろ」
「なっ――三人だけで岩妖鬼二体と戦うつもりか⁉」
「ああそうだよ。なあに、俺ともう一人はFランクだがうちのリーダーはCランクの異名持ちだ。そっちに岩妖鬼が行くようなことは無いはずだ」
「え、Fランク⁉ 俺達よりも下じゃないか! そんな危ないことさせられるか、俺達も――」
「ちっ……余計なこと言ったか。悪いが割って入られると邪魔なんでな!」
それだけ吐き捨ててから俺は剣を持った岩妖鬼に向かって駆ける。
岩妖鬼は手に持った小さな剣を乱暴に振り下ろすが、それを横に大きく跳ねて躱す。剣が叩きつけられると、重々しい音と共に砂利が跳ね僅かに地面が窪んだ。
「パワーはそれなりだが、道具使ってそれなら夜狩熊には遠く及ばないな。魔力を使う様子もなければ動きも鈍い。おまけに道具の扱いもなってないときた……まあ、魔物に剣の振るい方なんてわかるわけもないか」
叩きつけられた剣を見ると、今の一撃で刃は欠け刀身は曲がっていた。そりゃあ、あんな力任せに叩きつけたらそうなる。むしろ折れなかったことを褒めるべきだろう。
岩妖鬼とは始めて戦うので警戒して大げさに躱したが、この程度の腕力なら普通に打ち合いもできるな。
「――【紅蓮の焔槍】!」
「ブオアアアアアアーー!」
「お、向こうでも始めたか」
フィリアが放った【紅蓮の焔槍】がもう一体の岩妖鬼の胸に命中する。もうすっかり詠唱せずとも魔術の起動語だけで発動できるようなった中級魔術【紅蓮の焔槍】が、岩妖鬼の胸を抉り焼き焦がす。
岩妖鬼が苦悶の声を上げて悶えている隙に、リアナが懐まで急接近しその腹に双短剣を突き立てていく。岩妖鬼が硬いのかリアナの力が足りないのか、フィリアに比べると傷は浅いがそれでもダメージを与えることはできているようだ。
岩妖鬼は再び痛みに呻いてリアナを捕まえよう腕を振るうも、その鈍い動きでは到底素早いリアナを捉える事はできない。腕を振り始めた頃には既に、リアナは腕の下を潜り岩妖鬼の背後に回っていた。
「はあ!」
「グアッ! グウゥゥ!」
背中を斬り付けられた岩妖鬼は苛立たし気に振り返って手に持った鞄を背後に叩きつけるも、リアナはその動きにぴったりと合わせて身体の反対側を走り抜け、すれ違い様に脇腹を斬り付けながら再び背後を取る。
「ふむ……あれなら大丈夫そうだな」
ああやって身体の周りをぐるぐる回られて死角を取られ続けると厄介なんだよな。岩妖鬼みたいに図体がデカくて鈍い奴なんかは特に嫌だろう。
俺も登録試験の時にやられたが、あれ長くやっていると犬が自分の尻尾を追いかけている気分になるから絶妙にムカつくんだよな。だからあの時大人げなく【絡繰蜘蛛】使ってタコ殴りにしたんだよなあ。
「さて、あっちの調子がいいならこっちは少しのんびりするか」
脳天から振り下ろされる剣を今度は半身で躱しながら、意識を半分岩妖鬼に向け直す。
俺の足元で地面が窪み、二度目の衝撃に耐えきれなかったのか岩妖鬼の剣がポッキリと折れた。
すかさずその大きく膨れた腹に軽く赤剣を振るう。
「――なんだ。「岩の如き肌」って聞いたからてっきり岩レベルに硬いかと思ったが……見かけだけか」
剣でなぞった所がパックリと裂けてそこから大量の暗い血が流れ出る。
「グオオオオオオーーーーーー⁉」
岩妖鬼は堪らず低い絶叫を上げながら腹を抑える。
確かに普通の動物や森に住む魔物と比べて多少皮膚や肉質は硬かった。鑿牙鼠もそうだったが、岩場に住んでいる魔物は皆皮膚が硬い傾向にあるな。岩壁などに擦っても肌が傷付かないためだろうか?
「とは言え強化無しでも斬れる、か。足に比べ膂力は小さいリアナは大変だろうが、あれを使えば――ん?」
ふと違和感を覚え今しがた付けた傷を見ると、断面の肉が僅かに蠢ているように見える。更によく観察すると、ほんの少しずつではあるが断面が癒着し傷が再生し始めていることがわかった。
「グゥゥ、ブオオオッーー!」
「マジか」
横薙ぎに振るわれた左腕をしゃがんで躱しながら、俺は感心しながら尚も岩妖鬼の傷口を観察する。
未だ傷口は大きいが、出血は徐々に減り奥や端の方から少しずつ筋繊維が繋がっている。間違いなく再生している。
「まさかの再生能力とはな。治りは遅いが、目に見える程とは恐れ入った」
おそらくこれが岩妖鬼をCランクたらしめる力だな。人間よりも高い膂力と体躯に、若干硬い皮膚と肉、そしてこの再生能力。
動きは鈍く魔力を扱う様子はないが、身体強化や強化魔術が無ければDランクの冒険者では無理とは言わんが太刀打ちできんだろう。
「まさかこんなところで、似た奴に会うとはな。まあ、魔物なら無くはないよな」
その再生能力は奇しくも、今の変質した俺の肉体と似通っていた。残念なことに俺の肉体はまだこいつ程の再生能力を有していないが、俺が目指している肉体の到達点――その過程に在る状態であると言える。
「面白い。どこまでの傷なら生きられるか、その身体で試させてもらおうか」
フィリア達の方に何割かの意識を割きつつ、俺は目の前の岩妖鬼に集中する事にした。
折れては使い物にならないということは理解しているのか、岩妖鬼は握った剣の残骸を捨て拳を握った。
「オオオーーッ!」
雄叫びを上げながら振り下ろす右拳を、今度は避けるでもなく刃を立てた赤剣を盾のように左肩に構えて迎える。
「グギャオ⁉」
岩妖鬼の拳と俺の赤剣が激しくぶつかったが、手を引いたのは岩妖鬼の方だった。
岩妖鬼は苦痛と驚きが混じった悲鳴を上げて後ずさる岩妖鬼の拳には、一筋の赤い線が引かれている。まさか自分よりも小さい生き物相手に押し負けるとは思ってもみなかったのだろう。岩妖鬼の顔にはどこか動揺のようなものが見えた。
隙だらけだがそれに対して俺は攻撃に転ずることなく、ただじっと岩妖鬼の拳の観察に徹した。
「ふむ……やはり軽い切り傷ならすぐに塞がるな。だが再生速度は一緒か?」
見ている間にも肉は埋まり皮膚が繋がっていく。その間も腹の再生は衰えてはいない。
「なら――【血織刃:七死樹刀】」
長短様々な枝刃が生じた赤剣を岩妖鬼の横っ腹に軽く叩きつける。
本当に軽くだ。斬り付けるのではなく、どちらかと言えばほんの少し当てる程度。
「ブフウッ……ブオアアア―ッ!」
しかしそのひと振りだけで、岩妖鬼の腹には細かい傷が無数について、その傷口から血が細く垂れ流れる。
とは言え大したダメージではないためか岩妖鬼も軽く呻いただけですぐに反撃をしてくる。
「【血織刃:断紅障】――からの【紅鎖鞭】」
拳を開いた状態で薙ぎ払われた左腕を今度は大盾に変形させた赤剣で防ぎ、止めたところで瞬時に盾から生じさせた鎖で岩妖鬼の腕を拘束する。
「ブオ⁉ ブゥッ、ググウッ!」
岩妖鬼が絡まった【紅鎖鞭】を無理やり引き千切ろうと腕を引っ張るが、どれだけ引っ張ろうと【紅鎖鞭】が切れるどころか【断紅障】が動く気配はない。
当然だ。ポーチに入れた血染布ならいざ知らず、メイン武器として使用している赤剣だ。核にしている元の素材の強度と血の量が違う。そう簡単に壊されて堪るかよ。
「やっぱり、再生速度はどの傷も一定か」
【七死樹刀】で付けた無数の傷と最初に付けた深い傷は同時に再生が成されており、観察した限り傷の深さによって速度が早くなっていたり遅くなっていたりはしていない。
やはりどんな傷でも治る速度は一定か。
「まあ言ってしまえば肉体機能の話――体質のようなものだからなあ。傷の深さによって再生速度を早めるなんてことは、それはもう治療魔術の領分か」
俺の肉体が傷の再生速度に特化した性能に変質するなら、意図的に再生速度を早められたら嬉しいがなあ。こればかりは運や魔力、俺自身の肉体の相性次第かな。
「ブフ、グググゥ……ブアアアーーッ!」
「まあいい。ここまでは基礎確認だ。次は――」
左腕が抜けないと悟るや否や、岩妖鬼は再生が終わった右拳を大きく振り下ろす。
それをそっと左腕と身体の回転でそっと受け流す、残る右腕で岩妖鬼の腕を脇に抱えて拘束するとそのまま力を加えていく。
この程度の力ならば素の肉体強度でも正面から受け止めることはわけないのだが――流石にこの太さの腕を折るとなると身体強化が無いと難しい。
「そら骨折だ。治して見せろ!」
抑える右腕と身体を支点に左手に力を入れいくと「ボキンッ」という軽やかだが僅かに重厚感のある音がして、俺の脇の下で何かがズレた感触がした。
「ギャアアアアアアーーーー⁉」
「うっせえ……」
頭上で響いた大絶叫に顔を顰めながら、右腕を拘束している盾を剣に戻して距離を取る。
さて骨折のような内傷の治りはどうかな? 骨折とかは完治には何か月もかかる怪我だ。他の傷の再生にも影響が出るかもしれない。
「ブウアアーーーー‼」
もはや自棄といった様子で、左腕をだらりと垂らしたまま岩妖鬼は右腕を滅多矢鱈に振り回して迫る。その腕を受け流したり躱したりしながら付けた傷の状態を観察していく。
【七死樹刀】の傷は既に塞がって血が流れた跡だけが残り、深い方の傷は最初と比べると傷口は小さくなっているが未だ深いままだ。この調子では何十分――いや、何時間とかかるだろう。普通と比べたら何日とかかる傷を、僅か一日足らずで再生するのだから十分凄い事ではあるがな。
とは言え、俺が目指している肉体は他ならぬ「血塗れ夜王」の身体――不死の肉体が持っていた異常なまでの傷の修復力だ。また不死になりたいとは微塵も思って――むしろもう願い下げではあるが、その再生能力だけは欲しい。
しかしだ……前世の俺は「死と夜闇」を司る魔族によって労せず死なない肉体を与えられたから、高い再生力を持つが不死ではない肉体がどれくらい耐えられるかはわかっていない。不死の身体は欠損とは無縁だったから、正確なことは何もわからない。
傷をつけまくったら再生は止まるのだろうか? 一度に大量に失わなければ失血死は免れるのか? 腕を切り落としてもすぐに断面を押し付ければ癒着するのか?
それを調べるには岩妖鬼は俺にとってすこぶる都合がいい。
「いたぶるようで気が引けるが、運が悪かったと諦めてくれ。あっちが終わるまでの数分間。存分にその肉体の可能性を見せてくれよ?」
願わくばしぶとく生き残って欲しいところだ。そのしぶとさがそのまま、将来の俺の生存力に直接つながるかもしれないんだからな。




