第四話 松平竹千代、拐われる
年が改まり、天文十八年――。
正月が明けて、末森城の織田信秀から那古野城の信長に書状が届いた。これを開いた信長が眉を寄せ、「クソ親父」と呟いた。
「如何なされましたか? 信長さま」
那古野城の広間には信長と、その近習にして乳兄弟でも池田勝三郎恒興しかいない。
信長は上段の間で胡座をかき、なんとも嫌そうな顔をしている。
「美濃との和睦の段取りが進んだそうだ」
「それはよろしゅうございました」
「ちっともよくない」
「は?」
美濃は、木曽川を挟んで尾張と隣接する国である。
天文十三年九月二十三日、美濃・稲葉山城を目指して攻めた信長の父・信秀だったが、申の刻に一旦引き上げることにしたという。だが兵が半分ほど引いたところへ道三が攻撃してきたらしい。織田方は守備が整わず、五千人が討ち死にするという負け戦だったという。四年後、道三は織田家の城の一つ大垣城を攻めてきたという。
信秀は援軍に向かったそうだが、思わぬことが尾張国内で起きたらしい。
織田弾正忠家の本家であり守護代、織田大和家当主・信友が信秀の当時の居城である古渡城に攻めてきたという。
尾張の虎といわれた信秀も、さすがお手上げだったのか、道三の和睦に踏み切ったようだ。しかし、信長が不快に思ったのはそのことではなかったようだ。
「美濃と戦をしようが和睦しようが父上の勝手だ。それはいい」
「いったい、末森城の大殿はなんと言ってこられたのでございますか?」
「俺に蝮の娘を娶れ――だそうだ」
信長はそういって、眉間に皺を刻む。
「それはなんと申し上げていいのか……」
婚礼も政の一部とされるのが戦国の世、当事者の意見などお構いなしに縁組みが決まる。臣下として主の慶事を喜ぶべきなのだろうが、当の信長が全く喜んでいない。
当然だ。相手は蝮と言われる斎藤道三の娘である。
しかも信長は、まだ十五歳である。
「あの父上を手こずらせた蝮の道三だ。素直に和睦に応じたと思うか?」
「なにか魂胆があると?」
「さぁな」
信長はそう言って腰を上げた。
「どちらへ?」
「万松寺だ。父上が人質とした、三河の息子を見に行く」
「大殿のお許しもなくそのような……っ」
そう止めたものの、信長はもう広間から出ていた。
万松寺は那古野城の南側にある、織田家の菩提寺である。
問題は万松寺に行くことではなく、その寺にいる竹千代という少年である。
正式名を、松平竹千代(※のちの徳川家康)――、織田信秀がさる事情により人質とした三河国・岡崎城主、松平広忠の嫡男である。
◆
松平竹千代が生まれたのは、天文十一年だという。
母は三河国・刈谷城主、水野忠政の娘で於大である。
当時の三河は尾張の脅威に晒され、松平広忠は駿河の今川義元を後ろ盾になんとか抵抗していたらしい。
だが竹千代が産まれた翌年、祖父の水野忠政が死亡し、竹千代にとって叔父である水野信元は織田家と協力関係を結び、松平家の敵方になってしまったという。今川の手前、松平広忠は於大と離別。竹千代は母親と引き離されたのである。
天文十六年、今川氏からの支援を受ける見返りとして、竹千代は今川家へ人質に出されることになった。しかしその途中、同行していた戸田康光らが突如として今川を裏切って織田方へ寝返ったため、竹千代は尾張の織田家の人質となった。
戦国の世の習いとはいえ、生き延びるためには駒とされる弱小国の子である。
三河国が存続するために今川につくか織田につくか、広忠は迷ったことだろう。もし両者に対抗できる力があれば、竹千代は母と別れることもなく、人質として三河から出されることはなかったかも知れない。
万松寺の本堂にて、竹千代は万松寺の本尊・十一面観世音菩薩を拝んでいた。
なんでも十一面観世音菩薩は十種類の現世での利益と四種類の来世での果報をもたらすと言われ、その深い慈悲により衆生から、一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされるという。
不意に馬の嘶きが聞こえ、目を閉じていた竹千代は振り返った。
寺であるにも関わらずドタドタと響く足音が竹千代のいる本堂に近づき、そして止まった。
「――お前が三河・松平家の竹千代か?」
障子が乱暴に開かれ、変わった身なりの男が声を張った。
緋色の組み紐で髪を括り、緋と鬱金色の小袖は膝丈までしかなく、それを片肌脱ぎにして、腰に瓢箪をぶら下げている。
「何者だ!? 賊か!」
歳は竹千代より上、まだ十代だろう。
「この方は――……」
男の隣にいたもう一人は小袖に肩衣と至って普通の身なりだが、何かを言いかけて男が制した。
「お前、泳げるか?」
「え……」
意表をつく言葉に、竹千代の警戒が緩む。
「どうなんだ?」
「わ、わからぬ。水に入ったことなどないゆえ……」
「なら来い。寺に籠もっていては躯が鈍る」
「でも私は――」
そう言いかけて、竹千代の躯が浮いた。
なんと竹千代は、男の肩に軽々と担がれていたのである。
「こら降ろせ! 無礼者!!」
竹千代の抗議に、男の目が据わる。
「口だけは元気なガキだな?」
「お前だって子供ではないか! 私は賊になるつもりはないっ」
足をバタつかせたが、男は離さない。
そんな騒ぎが聞こえたのか、万松寺住職が駆けつけてきた。
「何事じゃ!? ……っ、の、信長さま!?」
住職の言葉に、竹千代は瞠目する。
竹千代を人質とした織田信秀の第二子は、確か信長という名前ではなかったか。
「和尚、こいつを借りていくぞ」
「大殿のお許しがございましょうや。竹千代どのは大殿が――」
「知っている。別に逃がそうとしているわけじゃない。それに、こいつだってわかっているさ。逃げたら三河がどうなるかを」
信長の肩に担がれた竹千代は、唇を噛み締めた。
外に出たとしても、人質である立場は変わらない。自分が逃げれば三河は今川、織田双方から攻め落とされてしまうだろう。
人質の立場では何をされても文句など言えないのだが、馬の上でも竹千代は担がれたままだった。まさに賊が人を拐うが如く、竹千代は寺から連れ出されたのである。
◆◆◆
一方の尾張・清須城では、尾張下四郡守護代・織田大和家当主、織田信友がほくそ笑んでいた。信友としては織田弾正忠家の勢力がこれ以上大きくなることに懸念があった。
現在は守護代の大和家だが、弾正忠家の力は大きすぎた。このままでは、斯波氏に代わる尾張の大名となる。
そこまで考えて、信友は考えを改めた。
信秀に万一のことがあれば、織田弾正忠家の当主となるのは信長である。
自由奔放で城を抜け出すのは日常茶飯事、この日は万松寺にいる三河側の人質を独断で連れ出したという。
「うつけは本物のようだな?」
上段の間にて、信友は嘲笑った。
報せてきたのは間者として潜り込ませている者からで、信秀ほどの力はないようだ。
「となれば、もはや弾正忠家など恐れるに足りませぬ。あの男は弾正忠家を潰しましょう。我らが手を出さずとも自滅してくれるのですから」
上段の間に向く家臣・坂井大膳が、そんな信友の野心を後押しした。
しかし信友としては、弾正忠家を潰すつもりはなかった。
現在の尾張守護・斯波義統にもう守護としての力はない。大和家が力を握っている現在、斯波氏は傀儡。ゆえに――。
「傀儡とする手もあろう?」
「末森城の信行でございますか?」
大膳が、信友の思惑を代弁した。
尾張を掌握するために、周りは黙らせて置く必要がある。
温厚と知られる信行ならば、大人しく傀儡になってくれるだろう。
信友は三度嘲笑った。
「消えるのはそれからでも遅くあるまい? だが、うつけであろうと奴は弾正忠家跡取り、信秀の意思が変わらねば、わしが押す信行は後は継げぬ。信行に傀儡となってもらうにはやはり、目障りよの? 信長は」
◆
木曽川――。
木曽川は尾張、美濃、伊勢を隔てて流れ、伊勢湾に流れ込む大河である。
松平竹千代にとって、河で泳がされる羽目になるとは予想外で大きなくしゃみが口が出た。何故この私が――と恨めしげに相手を見れば、竹千代を拐ってここに連れてきた信長も褌一枚で焚き火の前にいた。
「食え」
信長が差し出してきたのは、よく肥えて脂がのっていそうな岩魚の串刺しである。
「あなたもいずれは、我が三河の敵となる」
「かも知れないな。だが俺は、父上とは違う。見ての通りの放蕩息子だからな」
いずれ竹千代は元服し、戦場に立つだろう。その時彼が相まみえる敵の将はこの信長かも知れない。
しかし尾張の大うつけと言われ、派手な姿で野を駆けていると男は、妙に竹千代を引き付けるものがある。
もし敵同士に分かれなければ、自分とって大きな存在となるなにかを信長がもっている気がした。
この戦国の世は、裏切りも珍しくはない。
実際に叔父の裏切りによって母と引き離され、本来なら今川の人質となるはずだった竹千代は、織田方に寝返った家臣の裏切りによって織田方の人質となった。
誰が敵か味方か、更には人を利用して政を進める。情勢と人を見抜く力がなければ、この世で生き残るのは難しいだろう。
齧った岩魚はほんの少し苦味があったが、腹が空いたこともあり、美味であった。