ヴァージンスーサイズ (1999 /アメリカ)
原作の邦題は「ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹」。
内容はタイトルの通り、まだ十代の姉妹達が次々と自殺するお話し。
と聞くと、「じゃなんで自殺したの?」ていうことになるけど
結論から言って「これが自殺の理由!」というのは、はっきりとはわからない。
その理由はこの物語の描かれる視点にある。
そしてこの描かれ方こそがこの物語の旨味、みそ汁の「だし」にあたる。
その視点とは、姉妹達と同年代で、同じ街に住む「ぼくら」からの視点。
しかもこの「ぼくら」が回想するという描かれ方。
「ぼくら」と姉妹達の出来事、あるいは姉妹について
人から聞いた話によって物語は展開していくので、
我々観客は「ぼくら」とおんなじ視線で姉妹達を追うことになり、
「ぼくら」が知ってる以上のことは我々に与えられない。
つまり、「あるスキャンダルについて取材してる芸能リポーターをワイドショーで見てる状態」だ。
主人公である姉妹達と我々に距離がある。
普通だったらこれがこそばゆいんだろうけど
慣れてくるとこの距離感がミョーに心地いい。
ふと、思い出したことがあった。
まだ、恋愛=つきあった、別れた、またつきあった、また別れた、
ではない頃、世間では「子供」と言われてる頃、
となりのクラスの女の子がすごく気になって、
でもこれが「好き」という感情だということを知らなくて、
名前や何委員なのかは知ってるけど、かといって
彼女本人に話しかけて仲良くなろうとはしない。
いや、できない。
いつも遠くから見ていた、あの距離感。
あの頃の僕と同様、「ぼくら」は五人姉妹に魅かれ、
姉妹達を理解しようとした。
そしてあの頃の僕と同様、「ぼくら」がただひとつ分かったことは
彼女達について「何も知らない」ということなのだ。
2000,7/22