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4 侍女の慰め



 ゆらゆらと揺れる乳白色の水面を眺めながら、ルーラはため息を吐き出した。

 入浴はルーラが最も好きな時間だ。暖かなお湯は身体を温めてくれる。けれどこの頃はそれで気持ちが晴れることもなく、身体の重さも大きく改善することはない。


「お嬢様」


 侍女のマリーが静かにルーラを呼んだ。

 マリーはルーラが幼い頃から側にいた乳母のような存在。ルーラにとっては母同然の人であると同時に、大事な侍女だった。歳は親子ほどに離れているのに、マリーはいまだ若々しく見える。それはその美しさ故のことかもしれない。

 若い頃は、それは多くの男性を魅了したのだと、父である公爵が言うほど。

 そんなマリーのわずかに皺の入った目尻を見つめる。


 幼い頃、グレンと共に野を駆けたことがあった。危ないと言われながら手を繋いで走った。風を切って先導するグレンの後ろ姿を見ていたルーラは、その時初めて、グレンについていこう。彼のためにできることをしよう。そう決めた。

『いつかグレン様をおたすけできるようにがんばるわ』

 健気にもそう言って意気込むルーラをグレンは嬉しそうに見返した。

『それじゃあ、ルーラはしょうらいぼくのお嫁さんになってくれる?』

『およめさん?』

『そうお妃様だよ。そしたらずぅっといっしょだ』


『ええ! 約束ね』


 子供の口約束だ。けれどルーラの両親はルーラのその想いを汲んでくれた。もしかしたら、幼い頃にそう約束したのだと、まだ何もしらない子供の頃に無邪気に陛下に伝えていれば、グレンとの婚約はその時に成り立っていたのだろうか。そんなことを考えても仕方ないとわかっていながら、ルーラは過去を振り返ることをやめられない。


「お嬢様。入浴がすみましたら、何か温かい物をご用意しますね」


 マリーの声はいつもより一層優しかった。

 あの約束を、マリーも聞いていた。つい最近まではルーラとグレンが親しくしていた姿を側で何度も見ていた。ルーラの気持ちを一番理解しているのはマリーだろう。

 そのマリーが、慈愛の籠った瞳でルーラの心境を慮ってくれる。

 

「マリー」


 呼びかけても、その先の言葉は出てこなかった。

 お湯に浸かった膝を抱える。


「マリー」


 この気持ちも、この想いも、この両目から溢れる熱い涙も、全てこの浴室に置いていこう。

 毅然として、淑女らしく、公爵令嬢らしくしっかり前を向いて国のために、できる限りのことをしていこう。

 全て、全て、ここに……。


「ごめんなさい……」


 涙が止まらなかった。


「ごめんなさい……。今だけ、今だけこうしていさせて……。そしたら、明日から、ちゃんと、頑張るから」


 嗚咽混じりの声が浴室に響く。

 マリーが露出したルーラの肩を抱いた。

 いつもならきっとしないこの行為は、ルーラを慰めるマリーの優しさだ。

 今だけ普通の女の子でいさせてくれる。そんなマリーの優しさが滲みて、ルーラは涙を流し続けた。






 いつもより長めの入浴を済ませて、ルーラは部屋で静かに座っていた。

 泣いたせいだろう。体力を一気に消費したように頭も体も力が出ないのだ。まぶたはまだすこし重い。明日は腫れてしまうだろうか。と一瞬懸念したルーラの前に、タオルが差し出された。


「マリー」


 ニコリとマリーが笑う。

 お礼を言って手に取ると、思った通りしっとりと濡れてほかほかと暖かい。そっとまぶたに当てれば、暖かさがじんわりと染み込んだ。


「お嬢様。ホットチョコをお持ちしました」

「こんな夜に甘いものなんて、いけないことをしているようだわ」

「ふふ。では今日だけ贅沢ですね」


 マリーの優しさが胸にしみる。笑ってカップを受け取る。ゆらゆらと揺れるカップの表面は茶色く濁っていて、ルーラの顔が映ることはない。今とてもひどい顔をしていると自覚があったから、ルーラはわずかにほっとした。

 口に含めば、じんわりと体に染み入る。


「ありがとう。すこし元気が出たわ」


 ルーラは自然に溢れた笑顔をそのままに、マリーを見上げた。


「お嬢様。明日は何も予定はありませんし、久しぶりに気分転換はいかがですか?」

「気分転換……」


 それはルーラとマリーの間でのみ通じる言葉だった。

 ルーラは昔からこっそりと街に出ることがあった。マリーを連れていくそれは気分転換と称されていて、ルーラの元気がないと必ずマリーが街に連れていってくれた。危険もあるということもあって、こっそり護衛がついてきていることを知ったのは、10代の後半に入ってからだった。

 こっそりとは言えないわね。なんて思ったものだが、大事にされている証のようで嬉しくもあった。

 

 ――そういえば、ここのところ忙しくて、街に降りることはなかったわね。

 

 街は、どうなっているのだろう。エルマルからの使節団がきたことも噂になっているだろうし、当然グレンのことも噂になっているのだろう。そしてルーラのことも。

 行けば何かを突きつけられるような予感もあり、しかし同時に行かなければいけないような予感もあった。そして純粋に街をみたいという気持ちがあった。


「そう、そうね。そうしようかしら」


 明るい声でそう言うと、マリーがほっとしたような顔をした。


「なぁに?」

「お嬢様、最近ずっと根をつめていらっしゃいますし。それに息抜きができていなかったので」

「心配かけてごめんね」

「まさか。謝罪など不要ですわ。お嬢様がお元気であることこそ、マリーの一番の幸せでございますもの」


 本気で言っているのだろう。真剣な目でマリーが言う。

 本当に、こんなに思われて幸せだとルーラは思った。



「わたしが結婚したら、マリーは一緒に行ってくれるかしら」


 ポツリと呟く。マリーが驚いたように目を丸くしていた。こんな時だ。結婚といえばグレンと、と考えられた今までとは違うのだから、そういった話題が出ることが意外だったのだろう。驚くマリーにルーラは馬車の中での出来事をかいつまんで話した。

 

「ジョエル様とは、マリーはあったことないわよね」

「はい。ですがお話だけは伺ったことがございます。王子殿下と親しくされていて、東に留学していたこともあるとか……たしか剣技には目を見張るものがあると」

「ええ、以前手合わせを見せていただいて……ジョエル様もグレン様もとてもすばらしかったの」


 思い出すだけでも鳥肌がたちそうな手合わせだった。そして終わったあとは心底楽しそうに話していたことも思いだす。二人は、それは仲がよかったのだ。


「ジョエル様なら、グレン様も祝福してくださるかしら」


 眉をさげてそんなことを呟けば、マリーが心配そうにルーラの顔色を見ていることに気づく。


「ごめんね。分からないの。グレン様はきっと今回の事わたしに申し訳なく思っていると思うの。そういう方だもの。だからきっとわたしが幸せになるためだったら色々と手を尽くしてくださるわ。でも……でも、グレン様はそれを……」


 悲しむかしら。


 いつかお嫁さんに。そんな子供の約束はルーラの中だけでなく、グレンの中にもずっとあったのだと知っている。特別扱いをされていることは自覚もあって、明確に言葉にされたことはなかったが、グレンとルーラとの間に好意があったのはおそらく間違いない。それをルーラはずっと感じていた。だから嬉しかったし、側にいたいという気持ちが強くあったのだ。

 だってお互いに想いあっている結婚ほどすてきなものはない。

 でも、だからこそ彼はきっとルーラの幸せを願うだろう。たとえ自分以外と結婚する事になっても。

 しかしそうなった時、自分以外と結婚するルーラにどんな想いを向けるのだろうか。悲しむだろうか。寂しいだろうか。虚しいのか、苦しいのか、どんな気持ちになるのだろう。


「わたくしは……」


 マリーが静かに語り出す。


「わたくしは、殿下のお気持ちはお嬢様と同じだと思っております。ですからきっと、お嬢様と同じお気持ちになるのではないでしょうか」

「それは……いやだわ」


 そうか。こんな想いをすることになるのか。いや、もしかしたら先に結婚するのはグレンの方になるのだろうから、もっと辛いのかもしれない。自分がそこにいたらと何度も思うだろう。そしてそれができないのは自分のせいだと思うのかもしれない。

 それはとても悲しいことだった。そんな想いはさせたくなかった。


「でも、一生結婚しないなんて無理だわ。……グレン様より先に結婚してしまえば、少しはグレン様のお気持ちも楽になるかしら」

「それは……」

「分からない、わよね」


 でも、そうしたらすこしは楽になるだろうか。本当に、罪悪感など持たないで欲しい。それなら、自分から裏切った方がずっと良い気がした。

 やさしいグレンのことだ。それも分かってしまうかもしれないが。


「だめね。こんなこと考えていては」


 グレンにもジョエルにも失礼だ。

 それに、浴室に全て置いてくるとそう決めたのだ。うじうじとしている自分がみっともなく思えた。


「お嬢様……」

「明日は朝市に行ってみようかしら。おいしい果物があったらいただきましょう?」


 つとめて明るく言葉にする。マリーは一瞬顔に影を落としたが、すぐに穏やかに笑って「そうしましたら、早く寝ないといけませんね」と答えた。


「そうね。ありがとうマリー」


 飲み終わったカップを渡し、ベッドにはいる。

 ベッドサイドの灯だけつけて、マリーが部屋の明かりを消すのを眺めた。


「お嬢様、おやすみなさいませ」

「ええ、おやすみなさい」

 

 静寂が訪れ、ルーラは1人でベッドの中で寝返りをうつ。

 明日にはこの悲しい気持ちもすこしは楽になっていればいい。すこしでもグレンを祝福できたらそれでいい。

 一瞬舞踏会で言葉を交わしたレティシアを思い出す。


 ――グレンは静かな場所が好きだから、彼女とうまくやっていけるかしら……。


 もしうまくいかなくても、相談をしあうような関係にはなれないだろう。

 誰と結婚しても、ルーラはグレンを忘れられる気がしなかった。

 グレンもそうだといいと考える自分が醜く感じる。それでもグレンの心に自分が居続けたらいいと願わずにはいられなかった。



 









 




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