第700話 神舞
このまま部屋でゆっくりするのもいいけれど、久々に軽くなった身体を動かしたい思いも……。
少し走ってくるか。
夜明け前の離島リゾートで軽くランニング、簡単な鍛錬。
悪くないな。
「なら、さっそく」
武上と里村を起こさないよう、気配を消して寝室を出る。
そのまま入り口から廊下、そして1階のエントランスを抜けると。
「……いい空気だ」
このリゾートホテルのような宿舎の周りには青々とした木々がこれでもかと生い茂っている。その緑と海からの風、新鮮な早暁の空気が相まって、とんでもなく心地いいい。
日の出前という時間もあって、ランニングにも適温。まだ暗いというのが難点ではあるが、俺の眼なら大きな問題もないだろう。
では、まずは林を抜けて海岸へ。
やはり、潮風を受けてのランニングは爽快そのもの。
肺を満たす酸素もどこかいつもと違う感じがする。
それゆえに、速度も上がってしまう。
「はっ、はっ」
身体強化なしでこの速さはなかなかだ。
もう既に軽いレベルを超えている。
それでも、まだ加速を……うん?
誰かいる?
俺が走る海岸沿いの道の向こう、白砂の浜に誰かが?
「……幸奈?」
予想もしていなかった光景を前に、一瞬我が目を疑ってしまう。
が、この後ろ姿に気配は間違いない。
幸奈だ、幸奈が白砂の上に立っているんだ。
しかし、どうして?
まだ夜も明けていないのに?
「……」
ランニングを中断し、砂浜に足を踏み入れる。
白砂の上をゆっくりと歩き、幸奈に近づいていく。
幸奈は波打ち際に立ち、こちらに背を向けたまま。
「幸奈……」
散歩していたのか?
早くに目が覚めたから、日の出でも見に来たのか?
確かに、旅先ではあり得ることかもしれない。
ただ、宿舎からここまでは結構離れている。
この距離を夜明け前にひとりで歩いて来るというのも……。
ザッ、ザッ、ザッ。
白砂を踏み鳴らしながら近づく俺を幸奈はまだ認識できていない。
僅かに白み始めた水平線を眺め、こちらを振り向くこともない。
「ふぅぅぅ」
幸奈が大きく息を吐いた。
そして、海に向かって手を伸ばす。
右足を後ろに引き、静かに回り始める。
俺との距離は10メートル程度。
それなのに、気づかない。
「……」
若干顔を傾け、伏せられた目を半眼に保ち、砂上をなぞるように足が動く。
両手は足に合わせ、緩やかな弧を描き出す。
これは、舞ってるのか?
「……」
夜明け前、悠然と横たわる大海は息をひそめたまま。
砂浜は幽光の中にうっすらと白く浮かび上がり、寄せては返す波を粛々と受け入れている。
微かに刻む波音に呼ばれるかのように手足は移ろい。
その身を折り結び、正しつづける。
潮風に揺れる髪は邪気を払い。
神気を思わせる気が伸ばされた指先から溢れ始める。
鮮やかに弧を描く両腕が空と海と砂浜を繋ぎ。
有が無に、無が有に。
境界が消え、渾然一体と化していく。
すべてが、何もかもが……。
……。
……。
……。
……終わった。
そう認識すると同時に東の空が微かに色づき。
大海が呼吸を始める。
そんな中、幸奈は動きを止め。
全身は弛緩状態。
「幸奈」
「……」
驚かせないようゆっくりと近づき、声をかける。
「お疲れさま」
ただ、ありきたりの言葉しか出てこない。
神がかった素晴らしい舞を見せてもらったというのに。
「幸奈?」
「……えっ!?」
まるで電気が流れたかのように幸奈が跳ね。
振り向いた目が大きく見開かれている。
これでも驚かせてしまったか。
「功己? どうして?」
「……」
「どうして、どうして??」
それはこっちのセリフだ。
「ランニングしてたら幸奈を見かけたんでな」
「ランニング、こんな早くに?」
それもこっちのセリフ。
「功己……また悪夢を見たの? 眠れなかったの?」
「いや、昨夜はよく眠れたぞ。だから、夜明け前に眼が冴えてしまってな」
「ほんと?」
「本当だ、まったく問題ない」
「ならいいんだけど」
「それより幸奈、今の舞は?」
「まさか……ずっと見てた?」
「ああ、最初から最後までな」
「ぅぅ、声をかけてくれたら良かったのに……恥ずかしい」
「何言ってる、とんでもなく素晴らしかったじゃないか」
「えっ、あっ……そう?」
「間違いない、抜群だった。見てるこっちの心身も魂も浄化されるくらい最高だった」
「そ、そこまでじゃないから。功己、褒めすぎだから」
「いいや、まだ褒め足りないくらいだな」
「……」
「で、今の舞は?」
「セレスさんの神舞、奉納舞? それを真似しただけだよ」
なるほど、セレス様の記憶と経験からか。
だったら舞えたこと自体は納得できる。
とはいえ、あの神がかりはただ事じゃないだろ。
「ちょっとした真似事だからさ、そこまで褒められるほどじゃないって」
「いや、あれは真似の水準なんかじゃない。幸奈に神が憑依してるレベルだったな」
「ぅぅぅ、もう」
本当に最高の神舞だった。
それを舞踊経験などないはずの幸奈が舞ったというのが……。





