人質王女は魔王に愛されていると知らない
フィオラは幼い頃、蝋燭の火が好きだった。ゆらゆらと揺れる小さな炎は気持ちを落ち着かせる。
生前、母はよくその火にフッと息を吹きかけて、頭を撫でてくれた。
「炎を見過ぎてはだめよ。魅入られてしまうから」
その言葉がずっと忘れられないでいる。
魔王城――食堂。
長いテーブルの端と端。魔王と王女フィオラは向かい合って座っていた。
減らない蝋燭の火がゆらゆら揺れる。
目の前には人間の食事が並んだ。
フィオラが魔王城の人質となって二百日。この光景は毎晩変わらない。魔王はなぜか毎日人質であるフィオラと人間の食事を摂る。
(そもそも、魔王が人間の食事を摂るなんておかしいわよ)
時折揺れる禍々しい角を目で追いながら、そっとため息を吐いた。
「勇者が城の最上部まで上がったという報告を受けた。王女フィオラよ。ようやくお前の望んだ日が来たな」
「魔王様こそ。悲願だったではありませんか」
フィオラは最後の肉の一切れを口に含む。魔王の目は何か言いたげだった。しかし、言葉を発することはなく、飲みかけの葡萄酒を喉に流しこむ。
勇者が魔王城を目指したのは、ちょうど二百日前。フィオラが人質としてこの城に来た日のことだ。
「お前こそ、婚約者が迎えに来ているというのに、あまり嬉しくなさそうだが?」
「そんなことはございません。……ただ、彼が苦しい思いをしているのではないかと気が気ではないからでしょうか」
フィオラは目を伏せて見せた。
王女であるフィオラは、勇者の婚約者だ。彼が魔王を倒したのち、結婚をする予定である。これは、勇者が選出されたときに決まったことだ。
「それなら安心するが良い。勇者が死なぬよう、あいつらの行く道には弱い魔物しか放っていない。これだけ弱くしたのにも関わらず、二百日もかかったのは想定外ではあったが……」
今夜、魔王は勇者に討たれる予定だときいている。これは、二百日以上前に彼が決めた脚本だった。
全ては予定調和だというのに、彼は綺麗な顔を僅かに歪めてため息を吐く。黒の髪が揺れた。
「あまり乗り気ではなさそうですのね。いまさら魔王の地位が惜しくなったのでしょうか?」
「まさか。この千年、この日を今か今かと待ちわびていた」
彼は継ぎ足されたワインを一口で飲みきり、重いため息を追加した。
目の前にいるこの男――魔王は、一千年前にこの世界へとやってきたのだという。本人から聞いたのだが、フィオラの知っている歴史とも合致するため、事実なのだろう。
魔王は一千年前、北の地を治めた。
「魔界での賭けに負けたのでしたっけ」
前に聞いた話を思い出し、口に出す。毎日顔を合わせていると話題が足りないのだ。フィオラはこの城から出られない身。しかも、魔王はどちらかといえば無口だった。
無言で食事をし続けるほど、フィオラの心臓には毛が生えてはいない。
そんなとき、彼の昔話は役に立った。彼が魔界の賭け事に負けて、仕方なく人間の世界で『魔王』をやっているというのは、二人の共通の話題でもある。
「ああ、この世界には『魔王』の存在が必要だ。魔界貴族の一人がそれを担うのは慣わしのようなものだ」
「いつも、魔王はゲームで決めておいでですの?」
「そうだな。大抵はゲームだ。時々、魔界に飽きたと言って志願する奴もいたが」
「魔王様はそのゲームに負けて千年も?」
「二百年程度で良いのだが、ずるずると生きているうちに千年が経ってしまった」
大きく切った肉を口にの中に放り込む。フィオラは眉尻を落とした。
(この千年で、何人の勇者が魔王に挑み命を落としたことかしら……)
「帰る方法は他にないのですか?」
「勇者に殺される以外に、か? ないな。勇者の持つ剣に宿る力がこの魂を貫いた時、魔界との道が開かれる。そういう決まりだ」
「面倒な決まりですのね」
「そうしなければ、魔界の魔物が好き勝手するぞ? それは本意ではあるまい」
魔王は少しばかり顔を歪めてフィオラを見た。
「では、この世界を守るための決まりですのね」
ナプキンで口元を拭う。魔王城での人質生活ももう終わる。明日には勇者一行と共に自国へと戻るのだ。
「俺の我儘に付き合わせて悪かったな」
「いえ、彼は心優しいお方ですから、私が人質にでもならない限り、この城には攻め込まなかったでしょう」
勇者の使命は魔王討伐であった。しかし、フィオラが自国にいたとき、彼は魔王の支配する国への侵入は一度たりともしていない。王都を根城にし近辺で悪さする魔物を退治して回っていた。
準備を万全にしたいと、彼は常々言っている。フィオラはそれで良いと思っていた。もう千年、魔王は倒されていないのだ。
現世の勇者が倒し損ねたからとて問題はない。
何よりも、魔王は伝説ほどに脅威ではなかった。
不毛の地である北の領地を魔王の国として治めているだけだ。フィオラの暮らす国をじわじわと占領してはいるものの、寒さゆえ作物が不作で実りが少ない地域だった。
しかし、建前というものはあるもので。王族は勇者を立て、魔王討伐を示さなければならない。
長きに渡りそうしてきたのだ。
無言が続いた。しかし、フィオラはこれ以上口を開かなかった。
魔王が葡萄酒を飲み干すと同時に、扉が叩かれる。彼が短い返事をすると、いつも側に控えている糸目の男が現れた。
彼は深々と礼をする。
「そろそろ、ご準備を」
「ああ、分かっている。さて、王女フィオラ。共に来てもらおうか」
まだ、デザートが来ていない。少しくらい待たせておけば良いではないか。二百日も待ったのだから。
しかし、有無を言わさない二つの視線を向けられ、フィオラはナイフとフォークを置いた。
「最後の晩餐は慌ただしく終わるのですね」
「家に帰ったら好きなだけ食えるだろう?」
「そうですね。彼に、お願いしてみます」
フィオラが作り笑いで返すと、魔王は眉根をぎゅっと寄せる。
この顔を見ての食事も、もう終わりだ。今後は一人きりの食事となるのだろう。
小さなため息が漏れた。
ふいに、魔王の手が差し出された。フィオラはわけもわからず、目を瞬かせる。彼の眉がぴくりとはねた。
「王女様というのは、エスコートが必要な生き物なのだろう?」
人質になって二百日、一度だってエスコートをされた記憶はない。どういう風の吹き回しなのか。
(まあ、最後だし良いかしら)
フィオラは魔王の手を素直に取る。エスコートされるあいだ頭に浮かぶのは、食べる予定だったデザートのことばかり。この城で食べるデザートはどれも美味しかったのだ。
もう食べられないのであれば、昨日もっと堪能しておけばと後悔ばかりが募る。
勇者との対峙に選ばれた場所は、玉座の間だった。煌びやかな内装は誰の趣味なのだろうか。この男のものとは思えない。
赤と黒、そして金色で彩られた室内は、魔王がいるのに相応しいともいえる。
(この男の趣味とは思えないけど、雰囲気はそれっぽいわね)
豪奢な椅子に座る姿は、さすがは魔王といったところか。その椅子の隣に立つように命じられた。
「客人を立たせるのは申し訳ないが……」
「構いません。私はあくまで人質ですもの」
人質とは名ばかりの待遇ではあったが。城の中ならば自由に動き回ることを許されていた。食事は美味しい。辛いことなど一つもなかった。なんなら、一生人質だって良いくらいだ。
彼はそれ以上、なにかを言ったりはしなかった。正面の扉をボーッと眺め見る。
(一生あの扉が開かなければいいのに)
勇者一行が現れたのは、それからしばらくしてからだった。これならば、デザートを楽しむ時間は充分に確保できたと思う。
あんな男にそれすらも奪われるとは、悲しいことだ。
勇者は魔王を見据えた。フィオラはため息を飲み込みながら、勇者一行を見る。
(帰ったら結婚か……。二百日なんてあっけないものね。あと五年くらい放っておいて欲しかったわ)
勇者の側にいるのは、魔法使いにエルフ、巫女……どれも魅力的な女性達だ。彼女達が勇者の恋人であることは知っていた。
彼がフィオラと結婚し、自由を奪われることを嫌っていたことも知っている。王族の一員となれば、なにかと不自由になるのだ。
王家には王家の思惑がある。魔王を倒せば、英雄だ。そうなる前に王家で囲い込みたい。
そのためにフィオラが選ばれた。――魔王を倒したのち、婚姻を結ぶというものだ。まるで報酬のようだと思ったこともあった。
フィオラは王女ではあるが、身分の低い妾の娘である。他の王女のような扱いをされるわけがない。小さな一室に押し込められ、ほとんど公式の場に出ることもない。数人の侍女は仕事のできないあぶれた者ばかり。
周りはそんなフィオラを『生贄王女』と呼んでいたようだ。
「よく来たな」
ニヤリと笑う魔王は、決して笑顔ではない。
(茶番は早く終わらせてほしいわ)
魔王は接戦のあと、僅差で負けるという筋書き。勇者の剣に突かれて死に、勇者は王女を助け出すという茶番だ。
「お前の悪事の数々は許されない! 今日がお前の最期だ」
勇者が吠える。そして、剣を鞘から引き抜いた。女達の声援が甲高く響く。彼女達は武器を手に戦う仕草はしなかった。
(応援なんかしてないで手伝ってあげなさいよ。相手は魔王なのよ。……それともあの声になにか特別な力があるのかしら?)
フィオラにはわからない。しかし、彼女達が手伝わなくても勝てる脚本なのだから、心配する必要もないのだ。
勇者が大きな声で吠えながら、魔王に向かって突進する。魔王は気怠そうに腰の剣を引き抜くと、勇者の一撃を受け止めた。
その時点で、二人の実力には大きな差があることがわかる。魔王は本来なら、到底勝てる相手ではないのだ。
何度も剣を交わらせるが、まるで指南でもしているかのようだった。
(すぐに殺されるわけにはいかないものね。決着がつくまで暇だわ。そうだわ。助けてもらったあとの一言くらい考えておかないと。『ありがとうございます』じゃ、あまり可愛げがないわよね)
勇者と魔王の攻防が繰り広げられるなか、魔王の椅子に隠れるようにして、フィオラは淡々と考える。
(『怖かった……』とか言った方が良いのかしら? 『待っていました』だとちょっと傲慢に見えてしまうわよね)
そうこう考えているあいだに、勇者の剣が魔王の腹に刺さった。魔王の眉根が寄る。呆気ないものだ。
剣が引き抜かれると、鮮血がドクドクと流れ出た。魔王は膝をつく。真っ赤な血が床を汚した。
(血も人間みたいに赤いのね)
悲しみもなにもあったものではない。これは、魔界に帰るための儀式なのだ。種明かしをされている身からすれば、茶番以外のなにものでもない。
勇者は勝ち誇った顔で魔王を見下ろした。
「あっけないものだな」
勇者の一言に、女達が歓喜する。彼らは御膳立てされた勝利に酔っているようだった。
(おかしいと思わないの? 他に供も連れずに相手をするような戦いだというのに……)
勇者をジッと見つめた。彼は魔王からフィオラに視線を移すと、顔を歪める。乱暴に足音を立て、フィオラの側まで歩く。
冷たい目で見下ろされる。これは、今に始まったことではない。勇者は一度だってフィオラに甘く微笑んだことなどないのだ。
罵詈雑言を予想し、身構えた。しかし、彼の行動はその上をいく。血がべったりとついた剣を振りかざしたのだ。
思わず後ずさると、剣が高い音をたてて足元に突き刺さる。彼の舌打ちの音が響いた。
「なんで……」
「『目の前で婚約者を殺された勇者は、苦しみをのりこえ魔王を倒した』……良い筋書きだろ?」
「そんなに、結婚がお嫌ですか?」
「ああ、嫌だ。俺はあんたみたいにツンッとした女より、可愛げのある女が好きなんだ。折角だらだらと生活できていたのに、あんたのせいで計画が台無しだ。こんな城までくる羽目になった」
勇者は顔を歪ませる。
彼が魔王の治める国に入らず、王都の近くで国の金を使いながら生活していたのは知っている。仲間の力をつけるためだと、国王を騙していたことも全て。
フィオラもそれで良いと思っていた。好きな男ができても結婚はできないだろうが、勇者との結婚も延ばし延ばしになるのだ。
二百日前、魔王は勇者を追い立てるため、フィオラを拐かした。フィオラは、自身にその価値がないことを秘密にし、二百日ものあいだ人質生活を満喫したのだ。
誤算は、勇者が魔王を討伐するために立ち上がったことだ。国王がどんな風に追い立てたのかわからない。
(苦しい結婚生活を耐えるよりは、次の人生に期待した方が良いかもしれないわね)
命からがら逃げだしたところで、生きていくあてもない。妾の子とはいえ、王女として育ったのだ。大したことはできない。
(やっぱり、デザートは是が非でも食べておくべきだったわ)
フィオラは死を決意し、ゆっくりとまぶたを落とした。
風を切る音が聞こえる。剣を振り上げたのだろう。
(痛いのは嫌。一瞬で終わると良いのだけれど……)
早く終わることを祈るしかない。しかし、いくら待っても痛みは訪れなかった。
「ぐっ……ぁ……」
くぐもった声が耳に入り、フィオラは恐る恐る瞼を上げた。目の前では、魔王が勇者の首を絞めている。勇者の手から剣が零れ落ちた。
「俺の急所は心臓だ。腹など刺されても、意味がない」
とても機嫌の悪い声だ。苛立ちが伝わってくる。予定通り魔界に帰ることができなかったせいなのだろう。
魔王は勇者を放り投げる。見守る女達の側に転がった。まるで人形のようだ。
彼にジッと見下ろされる。その目は、どこか呆れすら感じられた。
「あんな男が好きなのか?」
その問いに答えることなどできるだろうか。二百日間、『愛する婚約者を待つ人質の王女』を演じてきたのだ。
震える足を叱咤し、立ち上がった。魔王は不快そうに顔を歪める。その視線に耐えられず、背を向けた。
「王女にも、色々あるのです」
どうせ魔界に帰るのだ。放っておいてほしい。
「そうか。色々か……」
魔王は後ろから力強くフィオラを抱き寄せた。こんな風に抱きしめられるのは、人質として捕まって以来だ。
「帰ろうと思ったが、気が変わった。死ぬのはあと数十年先延ばしだ」
彼の低い声が耳元で響く。
彼が片手を勇者に向けて伸ばした。空気を握るような仕草と共に、勇者たちはこの部屋から消えてしまう。
「えっ!?」
「安心しろ。お前の愛する勇者は死んではいない」
不機嫌そうな声が聞こえる。後ろから抱きしめられていて、彼の顔は見ることができなかった。
「あいつらは、今頃城の入り口にでもいるだろう。次は二百日か……それとももっとかかるか……」
「魔界に帰る予定ではなかったのですか?」
「その予定だったが、やめた。あんな男に負けたとあっては、この先色々と言われかねない」
不機嫌な声は変わらない。小さなため息が聞こえた。
「私に利用価値がないことくらい、もうわかっているのでしょう?」
「さて、どうだったか。腹が痛んで聞こえていなかったな」
腹を刺されたとは思えないほどピンピンしている。勇者との会話がまるっきり聞こえていなかったとは思えない。
勇者がもう一度魔王討伐を考えるだろうか。彼ならば、適当に街で過ごして十年、二十年経ってもおかしくはない。
それでは、魔王は魔界に帰ることができないのだ。
「なぜですか?」
「さて……。お前を気に入ったと言ったら信じるか?」
「気に入ってもらうようなことをした記憶がありません」
ただ、一緒に食事をとり、似たような会話を繰り返しただけだ。
「理由が必要か? そうだな……。俺を恐れることなく真っ直ぐ見るその目が気に入った。食事のとき、毎日話題を探す姿も悪くない」
「それは、あなたが何も喋らないから……」
「日に日に可愛く思えてくるというのに、本人は愛する婚約者のことばかり」
「それは……」
勇者を誘き寄せるために人質となったのだ。もしも、勇者がフィオラに興味なしだとわかれば、自国に戻されると思った。フィオラにとって、自国は住みよい場所ではない。人質となっていた方が幸せだと思ったのだ。
フィオラは、魔王を利用した。したたかだと眉をひそめられてもおかしくはない。
「全て忘れて魔界に帰るつもりだったが……あんな男より俺の方がマシだ」
声は苛立っている。魔王はどんな顔をしているのだろうか。背を向けていて良かったと思う。
まるで愛されているようではないか。
こんな風に愛してくれる人を知らない。母は幼い頃に死に、父はフィオラを政治に使う駒としか見ていなかった。婚約者はフィオラを殺そうとするような男だ。
気持ちがぐらりと傾く。
無言のままでいることが許せないのか、彼はグイッとフィオラの顎を掴む。少しばかり強引に、振り向かせられた。
「次に勇者が来るまで時間がある。お前が『俺の側の方が良い』というまで、たっぷり口説いてやる」
いつも不機嫌そうに下がっている唇が、三日月のように上がった。
「俺にしておけ。フィオラ」
魔王の燃えるような赤い瞳にフィオラが映る。
これ以上見てはだめだ。魅入られてしまう。