夏の川底
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、どうもここんところ、筋肉痛がひどいな……ちょっと歩き回っただけなのに、もうガタが来るようになっちゃったか。
昔は筋トレにはまっていた時期もあったけど、今となっちゃすっかりご無沙汰だ。しかも中途半端な負荷と身体が判断したようで、どうにも2,3日の時間を置いて襲ってくる。朝、起きた時に足にずんと来るようだと「ああ……」と、つい絶望顔さ。
お前は筋トレってどれくらいやっている? ムキムキマッチョを目指すつもりがなくても、体力維持のためにはある程度こなしといた方が良さそうだぜ。特に下半身はな。下手すっと、自重を支えきれなくなるとか。
――お、何だその顔は? さては「そんなこと、あるわきゃねえだろ」とでも思ってんのか?
だがな、どんなに馬鹿げた話と思っても、そいつは自分が体験していないせいだろ? 火のないところに、煙は立たねえ。その火元を追って、お前も日夜ネタを探しているんじゃないか?
俺もまた最近、新しい種火を見つけたんでな。お前の息、吹きかけてみないか?
肉体の鍛錬というのは、戦があろうとなかろうと、人々にとっては欠かせない要素だった。今のように機械なぞなかった時代なら、すべてが人力。嫌でもその仕事の中で身体には負荷がかかり、人々の健康を保つの役立っていたんじゃないかねえ。
俺はそれに加えて、美意識って奴にも影響を与えたんだろうと思っている。美っていうのは、有象無象の中に咲く毛色の違う鮮やかさを指すもんじゃないか、っていうのは俺がずっと昔から考えていたことだ。
美女美男つうのの判断は、結局は他人ありき。その他人ができないことができている奴へ、無意識に魅力を覚えるんのかもしれん。一時期、太っていた人が美しいっつうのも、たいていの人がやるような肉体労働をせずに済む、特権階級である証。その希少価値に寄り添おうと遺伝子が反応するんだろう。
だから身体を動かす必要が以前よりなくなり、太りが身近になった世界では、「痩せ」に魅力を覚える人が増えたんじゃなかろうか。しかし、誰もがたどり着けるレベルじゃダメだ。大勢を抜け出すことは不可能。
できる限り楽をして、だが誰も及ばない成果が欲しい。それに対する追求の手は、今も緩んでいないのは、お前もよく知っているだろ?
身体の肉を落とすために、効果的な方法に水泳がある。どうやらこのことは昔の人も理解していたようで、男女を問わず川や海に潜り、長く泳ぐ術を身につける者は多かった。
脂肪は水に浮き、筋肉は水に沈むという。実際には肺の中の空気も浮力に関係しているらしく、純粋な体脂肪のみで身体が浮くという人は、そういない。
その夏の日も、とある川で水練に望む若い男がいた。村一番の巨漢ではあったが、その身体はほとんどが脂ぎった肉の塊。特に生活を劇的に変化させたわけでもないのに、見る間に太ってしまった彼は、少しでも痩せるためにここへ赴いたんだ。
泳ぎは幼い時から達者だった。この川も泳ぎ慣れている。最も、腹に肉が溜まる前までの話だったが。
久方ぶりの水の中。最初こそ不安だったが、肩まで水が浸かってしまうと、身体が自然と水をかいていく。きっと無様な泳ぎぶりだろうなと、薄々予想していたから、人の目のない夜の時間を選んでいる。耳に届くのは川のせせらぎと、それを乱す自分の手足の音だけ。
幅2町(約220メートル)に及ぶ川。そこを数往復する予定だった男だが、二往復目の川半ばで、わずかだが自分の尻から足にかけてが、川の中へ沈んでいくのを感じたそうだ。
流れに引っ張られているのかと、力を込めて持ち上げようとするが、なかなか上手くいかない。やむなく、犬かきに近い無様な格好でどうにか対岸へたどり着く彼。しかし、しびれた感覚が残る下半身を川から引きずり出して、驚いた。
腕二本分はあろうかというほど、ぶくぶくと膨らんでいた両足が、すっかり細くなっていた。大根といい勝負になってしまったその足で、自分の体重を支えて歩くことはできず、彼は這いずりながら、家へと帰宅する。
夜が明けてから、一切がっさいを村の皆へ話した彼。警告のつもりだったのだが、それはかえって痩せたいものたちの心に、火をつける結果となる。
細さを求めるのは、断然、女たちの方が勝った。彼女たちは時間さえ作れれば、昼といわず夜といわず、例の川へ浸かるようになったんだ。見た目にも明らかな体型の者から、男たちが心配してしまう体型の者まで、誘惑に抗うことはできなかった。彼女らは湯浴みの着物を着たまま、我先にと川の中へ入っていく。
見張りに関しても抜かりはなく、影でのぞきたい男とのぞかれたくない女との間で密かな争いが続いていたとか。それからひと月ばかりが経ち、効果の出る者と出ない者の差も顕著になり始めた。
流されることを恐れて、川の半ばまで行かない、行くことができないものの場合は、ほとんど効果を得ることができない。自然、泳ぎが得意な者が恩恵にあずかれるようになった。そして夜が更ければ更けるほど、効果は増すということが分かったんだ。
足は細くなっても、彼のように自力歩行ができなくなるほどの者はいなかったという。みんな彼が太りすぎていたんだと笑っていたらしい。
しかし、下半身だけで満足がいく者は、そういないだろう。上も一緒に痩せなくては均衡が取れない。しかしそれは全身を川の奥深くまで沈める必要があるということ。
当初、躊躇していた女たちだが、ついにある一人の女性が挑むことにしたんだ。
彼女は夜中、静かに川べりに立った。その日は月明かりがほとんどないこともあって、自分の他に川に浸かろうとしている者は、見受けられない。
ほんの半月前まで、自分は村の中でもかなりの肥満体。男であれば関取になれたのに、と言われたことすらある体格だった。それを、下半身だけは他の女たちにひけを取らないほどにはできたが、腰から胸にかけては肉がだらしなく垂れ下がったまま。気味悪く思って、今まで以上に、人から距離を取られるようになっている自覚があった。
何としても、それを今日で終わりにしたい。彼女は川半ばまでたどり着くと、大きく息を吸う。めいっぱいにため込んだ空気と共に、ざぶんと水の中へ沈み込むと、川底目指して潜り始めたんだ。
川は、少し潜っただけでは底が見えないくらいに深かった。ただでさえ暗い夜の中、視界に関して水の外も内も、ほとんど区別がつかない。全身をなで、震えさせていく水流と、顔一面に張り付き、広がり始める息苦しさが、自分が水の中にいることを感じさせてくれる。
もう頭は、いつも引き込まれる場所を越えているはず。腰回りまでしっかりと深みに入れて、そのままこらえる。自然に浮き上がろうとしてしまう身体の力に抗いながら、彼女はなお深みに居続けようとしたんだ。
――もうちょっと。もうちょっとだけ留まったら、上にあがろう。
湯に浸かって数を数えているかのような心持ち。もう彼女の心には、どこかしら緩みが生まれ始めていた。
そうして息も限界が近づき、いよいよ身体を浮かそうとする彼女だったが、浮き上がらない。身体の向きを反転させることもできなかった。自分は川底へ向かって頭を下にした体勢のままで、固まっている。
流れにも変化が来た。向きが変わったんじゃない。水温が変わったんだ。彼女の頭から腰にかけて、次々に霜柱が押し寄せ、突き刺さる痛みが殺到した。同時に、ずきんと胸の奥にも激痛が走る。
心臓が脈打つたびに、口から息以外の何かが漏れ出していく。それは一瞬だけ、吐き出した彼女のぬくもりを帯びて顔をなぞったが、すぐさま冷たい水に流されてしまった。
やがて勢いも増した水流に、彼女は息も継げぬまま下流へ導かれていく。ますます凍てついていく身体を感じながら、これまで闇しかとらえていなかった彼女の目に、飛び込んでくるものがあった。
川の底に、雪が溜まっていたんだ。月も無いのにおのずと光を放つその白い物体は、下流へ行くほどその量を増していき、ついに視界全体が雪で埋まってしまったんだ。彼らはこの流れの中でも、わずかに身体を崩すこともなく、寝そべり続けている。
――冬だ。冬が暑さを逃げて、こんなところに溜まっていたんだ。
そうぼんやり彼女が考えた時、不意に「雪原」の一部が突き立った。流れる彼女の動きを見ているかのように、その隆起が彼女の頭にぶつかる。そして一気に川面まで伸び、その勢いで彼女の身体を空高くまで吹き飛ばした。
定まらない視界に、上下すら分からなくなりかけた時、彼女は体中を強く打ちつけて、気を失ってしまったんだ。
彼女が救助されたのは、翌日未明のこと。その上半身は昨日までと同じ人物とは思えないほど痩せ細っていたけれど、上半身全体に凍傷を負っていたという。すぐさま他の女たちの肌で暖められて、数刻後に意識を取り戻した彼女は、横になりながら自分の体験を話したそうなんだ。
痩せる利点、凍る難点。しばらくは前者が重く見られて彼女の真似をする女たちがいたものの、そのうちの大半が、下流に凍死した身体で流れ着くという事件が起きてしまう。ついに川そのものへ入ることが禁止されたんだ。
彼女は手にした理想の体型で、残りの人生を過ごすことになる。翌年に今年以上の猛暑を迎える夏がやってくるまでの、短い時間を。彼女は家族に看取られながら、「あの川へ自分を沈めて欲しい」と、何度も懇願したそうだ。