僕の研究
* * *
「アラーニェ、ごはんだぞ」
僕の朝は、万死の貴婦人の餌やりから始まる。硝子の檻を開け、餌の虫がたくさん入った籠ごと置くと、彼女は嬉しそうに寄ってきた。
この蜘蛛型モンスターの名はアラーニェ。僕のもとで世話をするようになって、大体五年ぐらい経つだろうか。彼女をエイルから押しつけられたばかりのころは辟易していたけど、今ではすっかり愛着が湧いていた。
「おいしいか? たくさん食べてもっと大きくなれよ」
アラーニェは、初めて見た時は僕の手のひらより少し小さいぐらいのサイズだったのに、今ではちょっとした小型犬ぐらいはある。感慨深いものだ。
アラーニェの新鮮な餌を確保するために餌用の虫達を飼い、どんどん大きくなるアラーニェに合わせて檻を新調して、アラーニェに負荷がかからないよう部屋の模様替えをして。もともと僕の部屋は家族どころか使用人すらもめったに寄り付かない、広いだけで寒々しい四つの続き部屋だった。それが、アラーニェのおかげでだいぶにぎやかになってくれた。厳密に言えばアラーニェはエイルから預かっているだけで、僕のペットではないけれど……ちょっと嬉しいのは否定しない。
餌の捕食をしているアラーニェを眺めていたら、ノックの音がした。ああ、僕も朝食の時間か。現状僕の部屋は、図書室、寝室兼居間と浴室、そして最後の一つは研究室兼虫達の飼育部屋になっている。廊下と続いているのは図書室で、そこに飼育部屋と寝室に通じるドアがある。使用人の用事は図書室と廊下を繋ぐドアだけで事足りるから、図書室より奥の部屋に人を入れることはほとんどない。入れるとしても、シグルズかエイルぐらいのものだ。
アラーニェを驚かせないよう、音を立てずに図書室に向かう。ゆっくり廊下のドアを開けた。ドアの前には、僕の分の朝食が載ったカートが置かれている。周囲に人の姿がないのはいつものことだ。
トレーごと皿をもらって飼育部屋に戻る。相変わらずスープもパンも微妙に冷めてはいるけど、厨房から運んできてもらうんだからこんなものだろう。熱いものは苦手だしちょうどいい。
「アラーニェ、それはいらないから自分で食べろ。それは君のごはんだから。だからいらないってば! 僕は食べないからな!? 気持ちだけもらっておくから!」
アラーニェがまだ手をつけていない虫を僕の皿に投げ込もうとするのを必死に固辞して食事を続ける。アラーニェは優しい奴だ。アラーニェといると退屈しなくていい。でもさすがに虫は食べられないぞ。
もともと僕の部屋は、僕を閉じ込めるために両親が増設した場所だった。だからこの部屋には初めから窓がない。とはいえ一応通気口があるので、息苦しくもなかった。結局僕は次期当主になったから、閉じ込めるためというより引きこもりたい僕のための部屋になったけど。
子守りのメイド(物心つく前には僕にもちゃんといたらしい)以外の使用人が僕についたことはないし、この部屋には生活に必要なものがほとんど揃っているから、自分の身の回りのことなら大抵は一人でできた。できると自信を持って言えないのは、料理と買い物ぐらいだ。
さすがに厨房設備はもらえなかったから、こうして三食運んでもらっている。それに、わざわざ昼間の外に出るのも嫌だし、出入りの商人に会いたくもない。僕がそう思ったのが先なのか、あるいは両親が僕を人に会わせたがらなかったのが先だったのかはもう覚えていないけれど……いつの間にか、皿を下げる時に欲しい物を書いたメモを添えておけばそのうち食事と一緒に届けてもらえるようになっていた。
もっとも、何か欲しくなることなんて滅多にないから、消耗品の買い足しが主な言伝だ。魔術の研究の素材とか魔術書とか、アラーニェの飼育に必要な物とか、どうしても自分の目で見極めなければいけないものがあればこっそり自分で買いに行く。渋々だけど。
……そう、とても便利な暮らしだ。だから僕は、今の生活に不満なんて持ってない。普段の話し相手ならアラーニェがいるし、シグルズという最高の主君であり親友がいるから寂しくはない。エイルは……あいつは友達というよりも、同僚かつ好敵手という感じだ。
皿を下げて、アラーニェを檻から出す。負荷を与えないためにも適度な運動は大切だ。この部屋は完全に締め切られているし、通気口はとてもアラーニェが通れるような大きさではないので、アラーニェが僕の目の届かないところに行く心配はなかった。
アラーニェを預かったばかりのころは、噛まれないようちゃんと厚着をしていた。けれど今ではアラーニェも僕を第二の主人と認識しているようで、もうそんな心配もなくなっている。だから僕も、アラーニェを飼う前と同じく基本的に薄着で過ごすようになった。僕が薄着になれるのは、この部屋にいるときか夜の間だけだ。本当はそんな油断もしてはいけないんだろうが、知能の高いモンスターであるアラーニェに主人と認められたなら大丈夫だろう。
「好きなところに行けばいいのに……。もう部屋は探索しつくしたか? ごめんな、外にも出してあげれればいいんだけど。……ああ、でも君は、エイルのところにいた時から室内飼いだったっけ」
図書室からいくつか文献を見繕う僕の後ろを、アラーニェはぴったりくっついてくる。そう面白いものでもないだろうに。
この図書室は、父さんが見繕ってきた本や、僕が自分で選んだ本で埋め尽くされている。つまり魔術書と学術書だ。それ以外の本は与えてもらったこともないし、欲しいと思ったこともない。そういうものは、僕には必要ない。僕には智慧だけがあればいい。僕が魔術を磨けば磨くほど、きっとシグルズの役に立つだろう。
僕は今、炎の魔術の勉強中だった。水と風はとっくに皆伝。炎の魔術を完璧に会得したら、次は……そうだな、地の魔術に手を出すか。地の魔術を習得すればゴーレムを創れる。そしたら、今よりもっと便利になるだろう。研究助手として使えるし、デコイにもうってつけだ。
「其は猛るもの。其は包み込むもの。我が招くは赤き祝福、ここに汝が名を呼ぼう――」
詠唱はどこまで省略できる? 効率よく魔法陣を描くにはどうしたらいい? 何が触媒にふさわしい? 注ぐ魔力の量はどれくらいだ?
僕の魔術の才能と魔力量から、やりたい呪文ごとに最適解を導き出す必要がある。少なくとも僕がしなければいけない魔術演算に、汎用的な模範解答なんて通じない。そんなものを盲信するのは、並の魔力しか持たない凡百の魔導師だけだ。僕にとっての魔術書はあくまで計算式を組み立てるための参考書で、呪文の発想の幅を増やすための手本に過ぎなかった。演算の要は、自分で考えるしかない。
何をどうしたらどんな結果が出るのか、燃費と効果のどちらを優先したいかでやるべきことはどう変わるのか。あれこれ考えて、予想を筆記帳に書き留める。机の上で最小規模の呪文を実際に試してみて、そこからすべてを計算する。試算通りなら、本気でやった場合の出力は――――
「あぁぁぁぁ……! だめだだめだ、実際に実験できなきゃ確証が持てない! しょせんは机上の空論だ、肝心な時に演算を間違ってたら洒落にならないぞ!」
頭を抱える僕に、アラーニェはまるで慰めるように寄り添ってくれる。「ありがとうアラーニェ……」でもこれは、僕が自分で乗り越えなければいけない壁なんだ……。
ああ、一度でいいから――――街を一つぐらい、盛大に燃やせる機会があったらなぁ。
*
結局あれから夜通しで色々と計算してみたけれど、やっぱり試算だけじゃ望むような答えは手に入らなかった。
でも、今日はシグルズと会える日だ。冷たい水を浴びて眠い頭を覚醒させて王宮に向かう。指定されたサロンでは、シグルズがチェス盤を用意して待っていた。
「なんだカイ、また徹夜でもしていたか? 目の下にクマができているぞ」
「あ……ごめん、見苦しかったかな」
出会い頭にシグルズから指摘され、とっさに目元に触れる。自分ではあんまり気づかなかったけど、ひどい顔色でもしていただろうか。
「そういうわけではないが、ただでさえお前は不健康そうだからな。本当に体調が悪いのか、判断に迷う。そうであるならすぐ言うがいい。治してやる」
「気をつけるよ。でも、ちょっと魔術の研究に行き詰まってただけだから。本当に気にしないで」
他の属性の魔術と比べて、火の魔術の呪文はどうしても破壊活動に使うようなものが多い。おかげで実証実験がしづらいから、すべての魔術の中でも習得は最難関とされていた。軍事において火の魔術は重宝されるにもかかわらず、使い手が少ないのはそれが一番の理由だろう。
でもだからこそ、習得すればきっとシグルズにも褒めてもらえる。だから、もっと頑張らないと。僕の価値を、たくさんシグルズに証明したい。
「それならいい。だが、お前の生殺与奪権は私が握っていることを忘れるなよ。体調管理はしっかりとな」
シグルズはそう言って笑い、僕の左手を包み込む。シグルズはそのまま、まるでかいがいしい執事のような手つきで僕の手袋を取った。
「あ”……ッ……!? も、もちろんさ、シ……グゥッ……!」
そして、僕の指をまるで優しく撫でるように――――一本ずつ、限界まで曲げてへし折っていく。僕は両利きだから、駒を持つのに支障はないだろうけど……これで思考が鈍ったら、ハンデキャップ扱いにするからな。
初めから弱っている獲物をなぶるような趣味は、シグルズにはない。シグルズは、元気な獲物を自分の手でじわじわ弱らせたいんだから。壊れてしまったらまた治して、飽きるまで繰り返して。……本当に、僕の親友はいい趣味をしてる。最低で最悪で、最高の人だ。
「して、一体何を悩んでいるのだ?」
「実は……」
チェスをしながらそう問われ、僕は正直に話す。火の魔術の有用性と、その習得の難しさを。
僕はシグルズのための魔導師だ。その僕が行使する魔術は、半端なものでは許されない。完全に完璧に、シグルズが望むだけの結果を出せるようにしないと。でも、それは今の環境じゃ到底実現できない。少しでも穴のあるようなものなんて、我が王に献上していいわけがないのに……!
「ようは、好きに使える実験場があればいいのだな? 最低でも街一つの規模が必要となると……」
シグルズの指が添えられた黒のルークが、かつんと盤を叩いた。次にどう動かそうか考えを巡らせる僕の前で、シグルズはにやりと笑う。
「いいだろう。私もそろそろ、直轄の領地が欲しいと思っていた頃合いだ。……父上も、早く立太子を済ませておきたいだろうしな」
「わかった。僕にできることがあればなんでも言って」
シグルズが王子になって五年も経ったが、まだ五年しか経っていない。ようやく社交界デビューを済ませた程度の十三歳の地盤は、決して盤石とは言えなかった。ことあるごとに王妃の邪魔が入るし、こと立太子問題について宮廷の空気は、国王を除いた王族唯一の成人男性である王弟を支持する色が強い。けれどだからこそ、早急に足場を固めておく必要がある。
次に消すのは王妃か、それとも王弟か。どちらでも同じことだ。実験場が手に入るうえに、シグルズの歩む覇道の足掛かりになれるのなら、喜んで従おうじゃないか。
* * *