わたくしの憂鬱
シンフィ王子の死から一週間が経ちました。お父様は、お兄様とわたくしを王族として迎え入れるおふれを出しました。
王妃は強く反対したようですが、勅令の前にはそんな抗議もただの金切り声に過ぎません。わたくし達は生まれ育った離宮を離れ、王子と王女として王宮に足を踏み入れました。
住む場所が変わり、身分が確かなものになっただけで、だいぶ世界も違って見えるようです。かつてはどの使用人も、王妃の目を恐れて必要最低限の仕事ぶりしかしませんでした。それが、今はやけに仕事熱心な使用人しかいませんし、人数も倍以上に増えたのです。
それに、やらなければならないお勉強も増えました。お勉強の時間ばかりで、お兄様と遊べる時間がぐんと減ってしまったのはつまらないですが……お兄様の妹として、恥ずかしい姿を見せるわけにはいきません。
お食事の時間だけは、以前と変わらずお兄様にお会いできるのでよしとしましょう。お父様はお忙しくて、あまりご一緒できないのが残念ですが。
どこにいっても使用人の目がある暮らしになってしまったので、アラーニェちゃんはしばらくカイのところにお引越ししてもらうことにしました。カイのことを噛んではだめよと強く言い聞かせましたし、厚着の専門家のカイならアラーニェちゃんの前で無防備な露出をすることもないでしょう。
おまけに、カイの部屋には普段誰も入らないそうですから、家の人にも内緒でペットを飼うにはうってつけでした。お母様やわたくしがまとめた、アラーニェちゃんの種族の飼育方法も渡したので完璧です。カイは嫌そうにしていましたが。
当分の間は、アラーニェちゃんに会えるのはカイの家に遊びに行ったときだけになりそうです。アラーニェちゃんに忘れられてしまわないか心配ですが、仕方ありません。シンフィ王子の暗殺疑惑のほとぼりが冷めるか、王妃を亡き者にするまでは、わたくしとアラーニェちゃんのことは内緒にしていなければいけませんから。
舞踏会のさなかに変死を遂げたシンフィ王子は、便宜上は病死と扱われていました。王宮で催された国王主催の舞踏会で、王子が暗殺されるなどあってはならないことです。人々の間では暗殺説がまことしやかに流れていましたが、真相は不明のまま。表向き、あの突然死が病によるものだという見解は覆りませんでした。
一部では、呪われた子であるカイが出席したために王族に不幸があったのではと囁く者もいるようですが……それは、ラシック伯爵家に対する侮辱もいいところの話です。ですからそのような下世話な憶測も、すぐに消えてなくなりました。
そんなカイはお兄様の学友として、同じ教師につきながら堂々と机を並べて一緒に勉強したり武術のお稽古をしたりしているようでした。なんて羨ましいのでしょう。なんて羨ましいのでしょう! わたくしも妹ではなく弟であれば、きっとそこに混ざることができたでしょうに……!
お勉強ばかりになってしまった今のわたくしの楽しみは、ダンスの講義の時にお相手がお兄様になる日があることと、たまのお休みの日にお兄様とお茶会ができること、運がよければ休憩中のお兄様が弾いているヴァイオリンが遠くから聴こえてくる日があることぐらいでしょう。
二番目はカイもついてくる時がありますし、三番目はお兄様のもとに行きたくても侍女達が「王女殿下におかれましては次のご予定がありますので」と止めてくることが多いので、生殺しもいいところですが。
最近、お兄様は狙ってやっているような気がしてなりません。わたくしをじらして楽しんでいるのです。そんなお兄様も大好きです。
「王女殿下、次の講義のお時間です。そろそろ先生がお見えになる頃かと」
「はぁい」
サロンでのマナーのレッスンを終えたわたくしは侍女に促されて勉強室に向かいます。この年若い侍女はファムという名で、王宮に来てから付けられた新しい使用人の一人でした。
何を隠そうこのファムも、あの物語の登場人物なのです。あの時は、お兄様付きの侍女のはずでしたが……わたくしが生まれたことによって、少し変化が出たのでしょう。
何はともあれ、ファムは物語において"主人公"の側についてお兄様を裏切った一人です。よく気を配れる手際のいい働きぶりこそ認めますが、信用はまったくしていません。
現実と物語の乖離が見られるのは、ファムの件だけではありません。シンフィ王子の死の真相もそうです。物語においては、シンフィ王子の暗殺疑惑の詳細が語られることはありませんでした。ただお兄様の策略によって死んだとされているだけで、その真実はわかりません。
ですが物語には、アラーニェちゃんもアラーニェちゃんを飼っているわたくしも登場しませんでした。ですから本来ならばシンフィ王子は、また違った方法で死んだはずなのです。それがどのようなものだったかは、知らなくていいことではあるのですが。
わたくしという存在が、実際どれほど世界に影響を与えているのか。物語を知るわたくしがいるせいで、かつて視たあの物語が何の指針にもならないものに変わっていないか。それを思うと、自分が不要な先入観に囚われているだけかもしれないとも考えてしまいますが――――それでも、わたくしのすることに変わりはありません。
すなわち、お兄様に栄光を。その目的のためならば、どんな道を通ろうと同じことです。
「……あら」
家庭教師の声に従うだけの板書の手を、思わず止めてしまいました。たった今家庭教師が口にした国の名が、物語において大きな意味を持つ国だったからです。
我がノルンヘイムの隣国、イズンガルズ。ノルンヘイムが王国と呼ばれることに対し、イズンガルズは皇国と呼ばれています。お兄様の探し求める宝玉がある国で、“主人公”が仕官する国で、近い将来ノルンヘイムと戦争が起きる国。それが皇国イズンガルズです。
イズンガルズの皇家に伝わるその秘宝のことを、お兄様はすでに存じ上げていらっしゃいます。わたくしが告げるまでもありません。お兄様はとても勉強熱心ですもの。
宝玉に宿る力は、不老不死と死からの蘇生――――癒しの秘術の天分を越えた、神の領域にある御業だと言われています。お兄様が暴君となった一因は、その宝玉にありました。その宝玉を手中に収めるため、お兄様はイズンガルズそのものと、そして宝玉を扱えるとされる皇家の直系の姫を求めるのです。
けれど物語では、宝玉の力をお兄様が手にすることはありませんでした。イズンガルズを陥落させ、皇国の姫を妃とは名ばかりの人質として軟禁させることまでは、達成できた分岐もあります。それでもお兄様が宝玉の真価を発揮させる前に、お兄様は外的要因で死んでしまうのです。姫を救いに来た“主人公”か、人の身を持たない真の“悪”か、あるいはお兄様を裏切った不忠義者のせいで。
ですから現時点において、お兄様のために在りたいわたくしの明確な目標は、その先をお兄様に見ていただくことでした。
イズンガルズを攻め落とし、皇国の姫の身柄を拘束し、宝玉をその手に収め、宿る力を行使させる。その果てに、お兄様の最も重んじる悲願が叶うでしょう――――お母様が、生き返るのです。
肖像画の中でしか知らないお母様。鏡を見ることでしか血の繋がりを感じられないお母様。お兄様も、わたくしと同じくお母様のことはおぼろげな記憶しか残っていないでしょう。だからお兄様は、もう一度お母様にお会いしたいのです。
それこそがお兄様の最大の望み。かつわたくしもお母様の娘ですから、お母様の蘇生の実現には全力を尽くす所存です。それはそれとして、お兄様は純粋に嗜虐嗜好の持ち主ですのでわたくしも応じていますが。
お兄様の望みとあれば、それがいくつであってもいかなることでも全力で叶えてみせましょう。だってわたくしは、お兄様の妹ですもの。
*
地理の講義自体はさしたる面白みもありません。そもそもわたくしは物語によって、地理や歴史であれば成人が持つ程度の知識をすでに備えています。自国のことも敵国のことも、あげく身分を問わず、です。物語の主軸となる“主人公”は皇国の兵士と王国の侍女であり、彼らの周りには様々な身分の者がいたのですから。得た知識がすべて二十年後を基準にしているというのが少々手痛いですが、そのあたりのズレさえ修正できれば後はどうとでもなりました。それよりもマナーや、外国語のほうが大切です。
わたくしの知識量について家庭教師もうすうす察しているのか、地理の講義は比較的短めに終わりました。次の講義は修辞学です。休憩時間が伸びましたが……お兄様のヴァイオリンも聴こえてきませんし、おとなしくしていることにしましょう。
浮いた時間は、地理の前にやっていたマナーの講義の復習と、修辞学の講義の予習にあてます。地理の講義の割合が減らされてマナーレッスンが増えていく日は近そうですね。……そのころには座学の講義より、ダンスや刺繍といった教養のレッスンばかりが組まれているのかもしれませんが。
今のわたくしは一国の王女。人に嗤われない程度の知識さえ身につければ、それ以上のことは求められません。王女は学者にも、政にかかわる身にもならないのですから。
無闇に知恵をつけようとすれば、王弟殿下やお兄様をおびやかすことになりかねません。王弟殿下はともかく、お兄様の政敵だと思われるのは心外です。
ですからわたくしもそのうち、お嫁にいくことになるのでしょうか。王女ともなれば、降嫁はすべきですよね。つまり、いずれはお兄様のもとを離れることに……?
ああ、考えただけでも恐ろしい事態です。どうせお兄様以上に素敵な方などいないでしょうから、結婚相手に多くは望みません。ですが最低でも、お兄様の素晴らしさを理解できて、なおかつお兄様に尽くしたいわたくしの妹心に寛容な方であってほしいものです。
我が国における女性の結婚適齢期は十六歳から十八歳。わたくしの婚約者が決まるのは、大体十年後のことになるでしょう。十年後といえば……ノルンヘイムとイズンガルズの戦争が始まって“主人公”が生き別れになるのもその頃でしたか。
物語には“主人公”と呼ぶべき者が二人いました。どちらの名も、読み手であるわたくしが自由につけることができました。わたくしが何度も何度も物語を繰り返していたのはお兄様の救済を探すためでしたので、“主人公”の名付けなどにはこだわらずにあらかじめ用意されていた名ばかりを与えていましたが。
“主人公”の名はアスク、そして“主人公”の名はエムブラ。この世界にも、あの二人はいるのでしょうか。その場合、彼らの名はあらかじめ用意されていたこの名前だといいのですが。そうでなければ、彼らを探すのが手間になってしまいます。
物語の開始時点での“主人公”はどちらも十七歳であり、彼らは双子の兄妹でもあります。彼らは、まだ生まれてはいないのです。
物語の中で語られた“主人公”の過去によれば、三歳の時にはすでに王都の片隅にある貧民街で暮らしていて、七歳の時に起きた戦争によって生き別れになったといいます。
分岐によっては再会できる場合もありました。ですが大抵の分岐では、互いの存在だけ感知するものの生き別れた片割れだと認識できないまますれ違う、という流れだったはずです。
兄のアスク(仮)は皇国に連れ去られて姫付きの騎士に、妹のエムブラ(仮)は王国にとどまって王宮の侍女に。細かい経緯ははしょりましたが、それが物語開始時点における“主人公”の立ち位置です。
三歳以前の彼らがどこで何をしていたのかまではわかりません。ですから彼らを始末できるのは、最短でも五年後になります。災いの芽は早めに摘むに限りますし、お兄様の死の最大の要因となる“主人公”は物語の開始前に消しておくべきです。
十年後は、わたくしの結婚や国家の情勢問題があります。とてもとても慌ただしくて、“主人公”の始末どころではないでしょう。
ですから、生き別れになるその前に。兄妹仲良く、死なせてあげませんと。そうでなければ可哀想です。十年もの間、生死もわからないままお兄様と離れ離れになるだなんて、わたくしなら絶対に耐えられませんから。