わたくしの蜘蛛
わたくしはお兄様に命じられて、王宮にカイを迎えに来たのですけれど。
光の回廊の入り口―王宮にいたカイからすれば出口でしょう―で、カイがうずくまって震えていました。探す手間が省けたのはいいことなのですが、何やら様子がおかしいようです。
「カイ、顔をお上げになって?」
「……エイル?」
怯えた声で、カイは顔を上げました。なんてこと! カイの顔がすっかり爛れています。
フードはそのままですが、マスクも付けていません。まるで光の回廊を、何の防護もせずに通ってきたようです。
「なんて馬鹿なことをなさったの?」
その苦悶の声は、お兄様にこそ聞かせるべきでしょうに……。もったいないことをしたものです。
お兄様のいない場所で無意味に苦痛を感じたがるなんて、やっぱりカイは真性の変態さんだったのでしょうか?
「僕は……悪くない……! あの馬鹿王子が、うしろから……」
「まぁ!」
なるほど。合点がいきました。それもそうですね、カイがわざわざ日光浴を楽しみたがるとは思えませんし。
それにしても……お兄様、きっとすごくお怒りになるでしょうね。カイが痛みに悶えていたところを見逃したばかりか、それがシンフィ王子の手によるものだと知ったなら。
「あいつ……僕を、化け物だって……そんな奴に、僕は……」
「カイ、落ち着きなさい。さあ立って。わたくしが離宮まで連れて行ってさしあげますから。早くお兄様に診ていただきましょう」
本当は、わたくしが治癒を施してもいいのですが。
けれどお兄様のいらっしゃらない場所で、お兄様の与り知らない怪我を負ったカイを勝手に治すのは気が引けます。幸い命に別状はないようですし、カイのことはお兄様にお任せしたほうがいいでしょう。
手を掴んで、無理やり立ち上がらせます。
といってもカイは、細身とはいえ年上の男の子。わたくし一人の力ではできません。強引に上から引っ張って、カイをうながしただけです。カイはよろよろと立ち上がりました。
顔を隠すためでしょう、いつもよりもっと姿勢の悪いカイを連れて離宮まで駆け足で戻ります。わたくしがついている限り、カイを転ばせたりはしません。痛い思いをするのは、お兄様の前だけであるべきなのですから。これ以上カイに無意味な傷をつけさせては、妹の名折れです。
シンフィ王子と一緒にいるカイは侍女ごときでは連れだせないと、わたくしを遣わしたお兄様はさすがのご慧眼でした。もしもカイを呼びに来たのがただの侍女だったら、こんなことはしてくれないでしょう。
「誰にやられた?」
案の定、お兄様はとても怒っているようでした。わたくしにサロンのカーテンを閉じさせ、カイを跪かせてフードを取らせたお兄様は、静かな低い声でカイに問いかけます。
「……馬鹿王子と、その取り巻き。ジェレゴに抑えられて、ルツにマスクを奪われた」
カイの顔はすっかり爛れていますから、表情なんてわかりません。けれどもし顔色というものがあったなら、きっと真っ青になっていることでしょう。
「お前もエイルも、私の物だ――私以外の者に傷をつけられるのは、許さない」
「ぐッ、ぅ……」
お兄様は腰に佩いていたレイピアを抜き、カイの手を貫いて床に縫い止めました。
「同様に、私の物に手を出すような輩も、許さない」
レイピアの切っ先ををぐりぐり押し込みながら、お兄様は懐に手を伸ばします。そしてお兄様は、取り出したダガーをわたくしに向けて投げました。
「あぁッ……!」
それは正確にわたくしの肩を貫きます。骨と骨のちょうど境。さすがお兄様、寸分の狂いもありません。
「エイル。お前の蜘蛛は、賢かったな」
「その通り……ですぅ……お兄様ぁ……。アラーニェちゃんは、わたくしの……言うことを、よく聞いてくれる……いい子で……」
わたくしのペットのアラーニェちゃんは、蜘蛛型のモンスターです。確か、ヘレ……ヘレ……ヘレなんとかという、かなり希少な種族だそうです。
アラーニェちゃんは人間に有害な毒だって分泌できますし、とても頭がいいのです。まだ子供なので、わたくしの片手のひらぐらいの大きさしかありませんが、種族的にはわたくしが大人になるころにはわたくしを乗せて移動できるほど成長すると言われていました。二十年後が楽しみですね。
アラーニェちゃんは、お母様のペットだった同種のモンスターの子でした。お母様の死後、王妃が手を回したためその母蜘蛛や子蜘蛛は処分されてしまったようですが……アラーニェちゃんだけはなんとか生き延びたのです。どうやら、物語の中には存在しなかったわたくしの部屋のベッドに隠れたことで難を逃れたようでした。
わたくしとアラーニェちゃんは、本当に小さな時からずっと一緒にいたのです。アラーニェちゃんはわたくしを姉であり主人であると認識しているらしく、わたくしに忠実ですし、わたくしを守ってくれます。
それにわたくしは幼い時から、年々強くなっていくアラーニェちゃんの毒に慣らされていったのです。そのおかげで、いつの間にか他の毒も効かなくなっていました。アラーニェちゃんの分泌する毒素に比べれば、大抵の毒素など大したこともありません。
「カイ。来週王宮で催される夜会には、お前の家も招待されているはずだ」
「そのはず、だけど……」
お兄様はわたくしに手招きしてくださいます。そしてきめこまやかなその指先で、まるで愛撫のようにダガーを優しく引き抜いてくださいました。
「夜会には、エイルも参加したいだろう?」
「ええ、お兄様。エイルも行ってみとうございます」
カイとわたくしが負った傷をすべて治癒して、お兄様は優雅に微笑みます。お兄様が次に何をおっしゃるか、手に取るようにわかりました。
「では、そこで兄上の始末をつけろ。生かしておく理由がもうなくなった」
「仰せのままに、お兄様」
「御意、我が王」
お兄様の歩む覇道は、王の座へと続いています。まずは、その第一歩を踏み出しましょう。
*
「シグルズ様だ! シグルズ様がもう鷹を仕留めたぞ!」
どこからか若い男性の声が響きます。わたくしに狩りのことはよくわからないのですが、お兄様が何かすごいことをなさったのでしょう。お兄様なのですから当然ですね。
今日はお父様が主催なさった狩猟大会の日でした。王家の所領の森で、上級貴族の子息達が狩りの腕を競うのです。
本来なら狩りは男の人だけの遊びなのですが、わたくしも特別に混ぜてもらっていました。混ぜてもらうと言っても、様子を見に来ただけなのですが。
危ないので森に入ってはいけないと言われているので、入り口付近に設置された天幕で待機中です。それから二時間ばかり経つと、二十歳ぐらいの青年貴族達が何か話をしているのが聞こえてきました。休憩に来たようです。
「まさか並み居る猛者を押しのけて、シグルズ様が真っ先に獲物を仕留めなさったとは驚いたな。今も次々と獲物を狩られているようだし、将来が楽しみだ」
「しかし、一体どこで馬術や弓術を? ずいぶん王妃殿下に冷遇されて、ろくに教育も施されていないという噂だが……」
「数こそ少ないが、陛下がきちんと師をつけているらしいぞ。とはいえ、天賦の才と呼ぶべきものがあったのだろう。だからこそ招いたのだろうさ。……ほら、王子殿下は、ああだから」
「なるほど。確かに殿下だけでは、王家の威厳が保てないな。馬にも乗れず、輿で狩りに出る王子など聞いたこともない。おまけに矢も満足に放てず、兎にすら驚く体たらくときた。笑いをこらえるのに苦労したぞ」
「正妃の子である長男よりも寵姫の子である次男のほうが出来がいいんだ、陛下もさぞ頭が痛いだろうなぁ。ひとまず王太子には王弟殿下を指名して、王子殿下が心も身体も成長するまでお茶を濁すことになるだろうが」
貴族達は、物陰にいたわたくしには気づいていないようでした。彼らは少しの間休み、また森へと入っていきます。
まあ、お父様もお困りでしたか。でしたらやっぱり悩みの種は、早く消してしまいませんとね。
*
華やかな王宮の舞踏会。いっとうおしゃれをしたわたくしは、ラシック家とカイのエスコートを受けてダンスホールに踏み入れました。
正式なデビュタントは十二歳、わたくし達にはまだまだ早い空間ではありますが……会場には、わたくし達のような小さな子供の姿も散見されます。好奇心が旺盛か、おませさんか、あるいは親の教育方針でしょう。
「おじさまとおばさま、とても驚いていましたわね。カイが自分から社交界に出たがったんですから、当然ですけれど」
「次期当主の自覚がやっと芽生えたとでも思ったんだろ。なんだかんだで許可出たし」
隣のカイにこっそり話しかけます。カイは淡々と答えました。
今日のカイは、いつものように肌の露出を極端に抑えた格好をしていません。月光や人工的な照明なら、カイを拒まないからです。それでも、白髪金目は招待客達の好奇の眼差しに晒されていましたが。
ラシック家のおじさまとおばさまも、ちらちらとわたくし達を見ています。監視というより、保護者ゆえの監督意識のようなものだとは思いますが……派手には動けませんね。
「それじゃあアラーニェちゃん、お願いね」
カイの影に隠れるようにして、ゆったりとしたドレスの袖に話しかけます。のっそりと出てきたアラーニェちゃんは、伸ばした糸を伝って素早く上へ昇っていきました。
何人かが不思議そうに顔を上げましたが、明るいシャンデリアに目を細めてすぐ視線を戻します。シャンデリアは会場をまぶしく照らしていますが、そのぶん天井はとても暗いのです。
アラーニェちゃんはとても賢くて感覚も鋭いですから、目標を違えることはないでしょう。
先週の一件以来、カイはシンフィ王子に「二度と余の前に顔を見せるなよ!」と通達を受けていました。アラーニェちゃんにシンフィ王子を覚えさせるための物を揃えるのは少し骨が折れるかと心配しましたが……あの日、カイは何故かシンフィ王子の私物である筆記用具を持っていたので、その点は問題なく達成することができました。あとはアラーニェちゃんにお任せするだけです。
アラーニェちゃんの種族が持つ毒は、心臓の病のような死に方をさせるそうです。アラーニェちゃんは本来この国に生息していないモンスターですし、王宮の人間はわたくしがアラーニェちゃんを飼っていることを知りません。
もしかしたら王妃は、お母様の毒蜘蛛の仕業ではないかと当たりをつけるかもしれませんが……それでも、王子の暗殺とわたくしを結びつける確たる証拠はないのです。
「おお、エイルや。久しいな」
「お父さ……国王陛下!」
ラシック伯爵夫妻に遠巻きに見られながらカイと一緒にお菓子を食べていると、声をかけてきた三十代ぐらいの男性がいました。ノルンヘイムの王、お父様です。
「お父様で構わぬさ。元気そうでよかったよかった。そなたは……ラシック家のカイだな。エスコートはそなたなのか? シグルズはどうした?」
「シグルズ様は、王妃殿下にご配慮なさったのです。そこで私めが、畏れ多くも代理に指名されました」
お父様はわたくしを軽々と抱き上げてくれます。カイはうやうやしく一礼しました。カイでも丁寧な態度が取れることに驚きです。
お兄様は、王宮にいてはいけません。だってシンフィ王子が死んで、一番得をするのはお兄様なのですから。
王族に引き立てられるのはわたくしも同様ですが、王女と唯一の王子では立場の価値が違います。王女になるか一代爵位の女貴族になるかの違いだけで、わたくしの将来はさして変わらないのですから。
王女となったわたくしを手に入れる方がいれば、その方はなんらかの権力を手にすることができるかもしれません。
けれど、その場合のわたくしはあくまで政略の道具。わたくし自身が振るえる力など、王女であろうと貴族であろうと対して変わりはないのです。むしろ王女の身のほうが、自由を奪われるとも言えました。
ですから、この場にわたくしがいても何の問題もなく。むしろ今日これから起こることに、お兄様の関与を疑われてはいけません。
わたくし達は幼い子供――――無垢で無邪気なわたくし達が、どうして暗殺などという恐ろしい陰謀を企てることができましょう。
わたくしは今日、華やかで楽しそうな舞踏会に行ってみたいとわがままを言っただけ。思慮深くも妹想いのお兄様は、妹のお願いを叶えてあげたくて。
けれどご自分が王宮に足を運ぶわけには行かないと、もっとも信頼できる友人とその家に付き添いを頼んだのです。中立を保つラシック家だからこそ、お兄様はわたくしを預けたのでしょう。
「ああ、そうか。そういえば、そなたはよくあの離宮に遊びに行っていると聞いている。これからもシグルズやエイルと親しくしてやってくれ」
「はっ、身に余る光栄でございます」
「本当は、お兄様に連れてきていただきたかったのですけれど。でも、思った通りお父様にお会いできましたわ! お父様もお変わりなくて、エイルはとても嬉しいです」
「すまんなぁ、エイル。不自由な思いをさせて。余も、フレイヤの忘れ形見であるそなた達を日陰に追いやりとうはないのだが」
「わかっております。お父様には立場がありますもの。エイルもお兄様も、お父様の重荷にはなりたくありません。……お父様はお母様を今でも想ってくれる、エイルはそれだけで十分ですわ」
お父様にぎゅっと抱き着けば、お父様は表情を緩めたものの、すぐに悲しそうな顔をします。そしてラシック伯爵と言葉を交わしてから、別の場所に行ってしまいました。
お父様は、お母様を好んでいた方です。お母様に微笑んでもらうためならば何でもしたと、当時を知る大人は語ります。ですからこの方も、きっとどこかが壊れているのでしょう。
それでも、そのような感情はおくびにも出していません。ですからお父様の何がおかしかったのか、お母様の何が悪かったのか、やっぱりわたくしにはわかりませんでした。
舞踏会が中盤に差し掛かるころ、アラーニェちゃんが帰ってきました。誰も可愛いこの子に気づいた様子はありません。
それからしばらくして、わたくし達から少し離れたところが騒がしくなります。王子が倒れたと、誰かが叫んでいます。まぁ、怖いですね。