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王妃の追憶

 神は、わたくしを見放してはいなかった。あの雌豚を屠殺する、またとない好機を与えてくれたのだから。

 それは蒸し熱い夏の夜だった。陛下と共に招待客の挨拶周りをし、少し疲れてしまったわたくしは庭園に出て気分転換をすることにした。外の生ぬるい風よりも、大広間を包む嘲笑の眼差しのほうが居心地が悪かったからだ。

 誰も彼もがわたくしを嗤っているような気がした。陛下の愛を得られないわたくしを、寵姫ごときに立場をおびやかされているわたくしを。そんな屈辱、耐えきれない。

 しかし庭園では、逢瀬を楽しむ恋人達があちこちにいる。侍女を一人だけ連れて、うんざりしながら静かな場所を求めて歩いているうちに、わたくしはいつの間にか迷ってしまって……気づいた時には、ベルンシュタイン宮殿の近くの東屋にいた。

 東屋には先客がいた。それは女だった。女の隣には二人の子供が座っていた。三人は、夏の夜空を眺めているようだった。星を指さしては、楽しそうに何かを喋っている。

 周囲にはわたくしと、女と、子供達しかいなかった。女達は、わたくしに背を向けている。わたくしにはまったく気づいていないようだった。

 ……ああ、どうしてどうして、そんな真似ができる。気味の悪いことを。お前達のような悪魔が。団らんなど虫唾が走る。お前達のせいで、わたくしがどれだけ苦しんだと。


 お前達さえいなければ、お前達さえいなければ――――全員、生まれてこなければよかったのに。


 この辺りの庭は、人の手によって整えられた美よりも自然そのものの美を感じられるよう造られているらしかった。だから少し目を凝らして下を見回しただけで、手ごろな大きさの石が見つかった。

 ゆっくりと忍び寄って。さあ、どれから先に殺そうか。そんな一瞬の迷いが、魔女に振り向く猶予を与えてしまう。とっさに石を振り下ろした。ぐしゃり。これでちゃんと殺せただろうか。わからない。念のためにもう一度。

 今度こそ死んだだろうか。でもこの女は魔女だから、何度殺しても死なないような悪魔だから。魔女さえいなくなれば、幼い兄妹なんていつでも殺せる。だから先に魔女を。悪しき魔女に、裁きを。

 そろそろ子供を、子供を殺さないといけないのに、手が止まらない。ああそうか頭を割るだけじゃ足りなかった。憎らしいこの雌豚の、陛下を惑わした顔を壊さないと。ひしゃげて砕けて潰れるまで何度も何度も何度も何度も。そして血袋は破裂した。その腐った心にふさわしい、穢れたものを撒き散らして。これでいい。肉の塊は、肉の塊らしくしていろ。

 気づけば子供は、どこにもいなくなっていた。構わない。いつでも殺せる。しょせんは些事だ。

 こうして、宮廷を蝕んでいた一人の魔女が死んだ。フレイヤ・ハルメニアに、本当の天罰が下った。わたくしが、傾国の毒婦を罰した。このわたくしが、ノルンヘイムと、陛下と、シンフィを守ったのだ!

 なんのことはない。人間は、必ず死ぬのだ。たとえこの魔女がこれまでどんな手を使って生き延びていたとしても、仕留めてしまえばもうどうでもいい。

 わたくしの失敗は、人に頼ったことだったのだろう。わたくしの目の前で、わたくしの手で魔女の息を止めてしまうのが、一番確実だった。もっと早くそれに気づいていればよかった。


 わたくしを浮かす熱が、夏の暑さによるものだったのか、それとも初めて自らの手を汚した高揚によるものだったのか、今となってはもうわからない。

 わたくしがフレイヤを殺した事実は、巧妙に隠された。すべての罪は、その時連れていた侍女にかぶせた。取り逃がした兄妹は、母を殺したのがわたくしだと気づかなかったらしいのでちょうどいい。

 その侍女はわたくしの乳姉妹で、あらゆる証拠を隠滅したのがその侍女だった。魔女を殺して血まみれになったわたくしを手早く清め、替えのドレスを手配して化粧と髪型を直し。こうしてわたくしはまた、元の綺麗な姿に戻った。

 あの侍女はとても忠実だったから、わたくしの身代わりになれて喜んでいるだろう。天の楽園に召されてわたくしを待っているはずだ。

 魔女に惑わされていた陛下は、魔女の死を知って嘆いたけれど。これですべてが元通り。魔女によって乱れていた宮廷は糺され、風紀は戻り、あるべき姿を取り戻す――――はずだった。

 陛下はあの子豚どもをいつまでも憐れんだ。ベルンシュタイン宮殿から追い出すこともせず、子豚どもも図々しく居座り続けた。目障りだったので、以前のように刺客を放った。魔女(ははおや)の庇護がない今、年端もいかない子供を殺すことなど造作もない。致命傷を負ったと報告も届いた。

 それなのに、どちらの餓鬼も何故か一向に死ななかった。まるで人間ではないようだ。不気味だった。何度殺そうとしても、二人は構わず成長していく。兄も妹も、日に日にあの女に似ていくようだった。

 魔女の子は魔女、あの二人も魔女なのかもしれない。けれどわたくしは、魔女すら殺してみせた。やはりわたくしが、自分でやるしかないのだろうか。

 そう思った矢先だった。脈絡もなく、陛下が声をかけてきた。

 「もう、いい加減にしないか」――――はじめ、陛下が何について言っているのかわからなかった。

 「余がフレイヤに執心するあまり、そなたをここまで狂わせたのだろう。ゆえにそなたの所業を責めはせぬ」――――陛下は悲しそうな顔をしていた。陛下は、わたくしが子豚達を毛嫌いしていることに気づいていたのだ。雌豚を殺すよう乳姉妹に指示を出したのも、わたくしなのだとうすうす察しているのかもしれない。

 「憎むのならば余を憎めばよかろう。……頼むから、あの子らのことはそっとしておいてやってくれ」――――けれどそれは魔女に鉄槌を下すという正義の行いであり、すでに裁かれた罪でもある。わたくしを裁くなど、もはや誰にもできはしない。

 「フレイヤは確かに少し苛烈な女だったが、賢い女でもあった。二心を持つ佞臣をよく見抜いてくれたし、未熟な身ながらも王の重圧に勝とうと無理を押して働きづめだった余に休むことを教えてくれたのだ」――――この期に及んでその言い草とは。お可哀想な陛下。骨の髄まであの魔女に毒されていたのだろう。

 わたくしをないがしろにしたつもりはなかった? 妃として尊重はしていた? 戯れ言を。わたくしがそう感じたのだから、そうなのだ。このわたくしが、飾りの妻になるなど認めない。

 なんと、なんと愚かなお方なのか。それでも大国を治める麗しいこの人を、わたくしは決して手放せない。わたくしは愛しているのだ。この人と、この人が約束してくれる王妃の座を。




「ねえ母上、聞いていますか? あのおぞましい化け物は、二度と視界に入れないようにしてくださいね」

「ええ、もちろんですよ、シンフィ」 


 はっと我に返る。ああ、そうだ、今わたくしの前にいるのは陛下ではなくて、愛しい愛しいわたくしの子。 

 ラシック伯爵家の長男を、シンフィはお気に召さなかったらしい。これは、シグルズの交友関係を断たせることにも失敗したという意味だ。ラシック伯爵は中立派、かけられる圧にも限度がある。

 呪われた子といえど名家の出だし、優秀な手駒になりそうな者だったが……シンフィが嫌だと言うなら、また学友候補を見繕ってこなければ。それから、新しい家庭教師も。しばらく前からシンフィにつけていた家庭教師は、先ほど辞退を申し出てきた。もうあの家庭教師は、専門分野で大成できはしないだろう。満足に物も教えられない無能な手駒はいらないので清々するが、名のある学者を次々招集するのも大変だ。

 シンフィを支える未来の腹心集めはなかなか難航していた。将来の約束されたシンフィには、最高の環境を与えてあげたいのに。ああ、どうして、こうも次から次へと障害に見舞われるのだろう。わたくしはただ、王妃のつとめを果たそうとしているだけなのに。


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