王妃の苛立
* * *
「ひどいです、母上。あんな怪物を私の傍に置こうなど。ジェレゴとルツの驚いた顔が見られたのは面白かったですが」
――――どうして、何もかもが思い通りにいかないのだろう。
可愛い長男を授かった。目障りなあの雌豚だって始末した。今度こそ、陛下はわたくしのものになってくれるはずだった。シンフィの将来は、約束されたも同然だ。それなのに、それなのに。
陛下との婚姻は、政略ゆえに成立したものだ。けれどわたくしは、美しい王子に一目惚れをしていた。
当時宰相だったお父様は、家の利益にもなるわたくしのお願いを聞き届けてくれた。だからわたくしはすぐに王子妃になった。陛下は凛々しく、賢く、そして優しい方だった。幸せだった――――はずだった。
若くして即位した陛下は、若輩ながら善き王だった。寝食も忘れて熱心に政務に打ち込む真面目なお方。わたくしは、そんな陛下が好きだった。陛下を見ていると安心した。陛下の横にいることができれば、わたくしの未来も安泰だった。
変わってしまったのは、十年前のあの時。陛下が王都を離れて辺境の視察に行った時だ。視察自体は数年ごとに一度行くようなもので、頻度は低いがさほど珍しい政務でもない。
だからわたくしも、シンフィを抱いて陛下を見送った。無理を言ってでもついていけばよかったと、後悔した時にはもう遅かった。
王宮に戻ってきた陛下の土産は、思いがけないものだった。小娘だ。同性のわたくしから見ても美しく、けれど毒々しいその女はフレイヤ・ハルメニアと名乗った。陛下の滞在予定地と聞かされていた、小領地のうちの一つの領主の娘だった。
小娘の肩を抱いた陛下は、これまでわたくしが見たことのないような顔をしていた。だから悟ってしまった。この方は、わたくしを友として、妃として愛していてくれてはいたが――――女としては、愛してくれていなかったのだと。
田舎貴族の娘だとは思えないほど、フレイヤは優雅だった。洗練された仕草に、控えめながらもきらりと光る知性とセンス。何も知らなければ、王都の名家の令嬢だと言われても信じてしまいそうだった。
しかしそんな優美さの裏には、何か危険な毒が潜んでいる。そう警鐘を鳴らすのは、女としての勘だった。
一国の王ともなれば、寵姫を持つのはさほど珍しいことでもない。これまで王妃一人を慈しみ、たった一人とはいえ王子をもうけていた陛下が寵姫を迎え入れることを、家臣達は誰も反対しなかった。考え直してほしいと言ったのは、わたくしだけだ。
フレイヤを寵姫とすることに反対して縋ったわたくしを見る、陛下のあの眼差し。思い出すだけで背筋が凍るし、はらわたも煮えくり返る。
陛下はわたくしを煩わしげに振り払い、聞き分けのない子をなだめるように説き伏せてきた。わたくしの味方はもはや自分しかいないのだと、はっきり告げられたようだった。
わたくしの抵抗もむなしく、フレイヤは寵姫となった。そしてわたくしは、二つのなすべきことを自身に課した。
一つは、可愛い可愛いわたくしのシンフィを守ること。そしてもう一つは、あの小娘の毒牙から陛下を守ること。それができるのはわたくしだけだ。
決してあの小娘の好きにはさせない。陛下も宮廷もこの国もわたくしのものだ。だって王妃は、のちの国母は、このわたくしなのだから。
――――結論から言えば、あの時のわたくしの勘は正しかった。
フレイヤは魔性の女だ。傾国の魔女だ。欲望のままに周囲を堕落させ、破滅を撒き散らす災いの化身だ。陛下はフレイヤのために政をおろそかにし、浴びるように金を使った。フレイヤの言葉に乗せられるまま、臣下を更迭したり無実の者を残虐に処刑したりした。
何をしてでもフレイヤの歓心を得ようとする陛下は、もはやわたくしの知る陛下ではなかった。だって陛下はフレイヤに宝飾品を贈るが、そういったものはわたくしにだけ贈るべきだ。フレイヤに与えられたいくつかの屋敷も、調度品も、嗜好品も、ドレスも、本来ならばわたくしがいただくべきものなのではないのか。
フレイヤの一言で、見慣れぬ建造物が王都に建てられた。わけのわからない、気味の悪い道具が作られた。異国から取り寄せた珍しい品物を、贅沢なサロンを開いて見せびらかしていた。我儘三昧のフレイヤの増長はとどまるところを知らなかった。
陛下は公の場でこそわたくしを優先するような振る舞いを見せたが、私的な時間や集まりではフレイヤと多くを過ごすようになった。フレイヤのための予算も、大幅に増額したと聞く。挙げ句、フレイヤに政治への口出しを許したとか。
度を越した寵愛ぶりだ。ハルメニア家に与えられる年金が、我が家の年金の額をゆうに越えていると噂が立つのも当然だった。
けれどそんなこと、あってはならない。王妃はわたくしだ。陛下の妻は、わたくし一人。そのわたくしが、どうしてないがしろにされなければいけない?
人を遣わし、フレイヤのドレスを裂いた。宝飾品を台無しにした。ならず者を雇って襲わせた。令嬢をけしかけて取り囲ませておどかせたり、お茶会で笑い者にさせたりもした。動物の死骸を届けたことも、離宮に糞尿を撒き散らしたこともある。
様々な毒だって飲ませた。妊娠したと小耳に挟めば、母体にも影響を及ぼすような強い堕胎薬を食事に混ぜさせた。それなのに、何をしても思った通りの結果が出ることはなかった。
ドレスや宝石が失われれば、フレイヤは新しい物を陛下にねだった。陛下はねだられるままに物を買い与えた。
フレイヤ相手に何をしてもいいと言ったら下卑た笑みを浮かべたならず者達は、その三日後にみな死体となって発見された。その間、フレイヤに変わった様子はまったくなかった。フレイヤが誘拐されたという噂も、傷物にされたという噂も流れなかった。
フレイヤをいじめた令嬢は、気づけば誰もが不幸になっていた。中には家ごと没落した者もいた。世間話のように彼女達の名前と近況を挙げたフレイヤは、「お可哀想に」と嗤っていた。
死骸や糞尿で穢れたからと、フレイヤは別の離宮に移り住むことを陛下に申請した。陛下は喜んで、王宮に最も近い場所に贅を凝らした離宮を建てた。ベルンシュタイン宮殿と名付けられたそこに、陛下は入り浸るようになった。
どんな毒も、フレイヤには効かなかった。自身が猛毒でできているような女だからだろうか。毒に毒は効かないと、やがてわたくしは暗殺の手段に毒を用いることを諦めた。
フレイヤは、大きくて不気味な蜘蛛を飼っているらしかった。昔から飼っていたペットだと称して故郷から連れてきたというその蜘蛛が、あるじを暗殺しようと近づく者を捕食している……そんな噂がまことしやかに流れだし、刺客に使えそうな手駒はどんどん減った。
しょせん噂は噂だ。フレイヤの暗殺をもくろんだ者は捕らえられ、拷問にかけられたうえで処刑されていた。とはいえ、暗殺者にはいくつもの仲介を挟んでいる。無様にも失敗するような役立たずどもの口からわたくしの名が漏れることはなかったのは、唯一の幸運だ。
時折フレイヤは、わたくしにも覚えのない傷をつけてくることがあった。きっと自分でつけた傷だ。それをわざとらしく陛下の目から隠して、陛下の詰問に涙ながらに答えてみせて、挙句怒り狂う陛下をなだめる始末。「わたくしは平気です。親切な誰かが、至らぬわたくしを諫めてくださっているのでしょう。これは自らの分もわきまえない、愚かな田舎娘への天罰なのですから」そして陛下はフレイヤの心の広さに感動し、いっそう寵愛を注ぐ――――なんとくだらない茶番か!
あんな見え透いた嘘の涙に騙される陛下も陛下。何故、その娘の歪んだ性根に気づかない? しおらしく口元を隠したその扇子の下で、魔女が嗤っているのに。
フレイヤは、ことあるごとに自らの使用人を折檻しているようだった。自分の物が壊されたり失われたりするたびに使用人の管理不行き届きを責め、やれ食器の置き方が違うだの運び方がなってないだのと叱り、言いがかりにも似た手際の悪さをあげつらってなじった。鞭打たれる使用人を見るフレイヤの目は、昏い熱を孕んでいた。
一度だけ、わたくしも折檻の場に居合わせてしまったことがある。その時、不意にフレイヤと目が合った。わたくしを見たフレイヤは、歪んだ笑みを見せた。
あの目は、そう、捕食者の目だ――――フレイヤは本当は、誰の差し金であるか理解しているのではないか。知っていて、口を閉ざしているのではないか。
わたくしがフレイヤをいじめればいじめるほど、フレイヤは使用人を折檻する理由ができる。暗殺者を拷問し、処刑を眺める理由ができる。だからこそわたくしを見逃していて、けれどいつかわたくし自身もああして鞭で打ち据えて、さんざん苦しめてから殺したいと思っているのではないか……。
その日は、一睡もできなかった。殺さなければ、わたくしが殺されるのだ。立場を盗まれたうえで、命まで奪われるなんて。わたくしが一体何をした?
フレイヤが寵姫となって二年後、ついにフレイヤは雄を産んでしまった。シンフィをおびやかしかねない、忌まわしい子だ。だからわたくしは、侍女をベルンシュタイン宮殿にいかせた。醜い赤子を縊り殺すために。侍女はそのまま行方知れずとなった。
「そういえばこの前、この子の部屋に猫が出たんです。この子を引っ掻こうとしたから、追い払いましたけど。どこかで一晩中鳴いていたようですが、鳴き声がうるさくありませんでしたか?」シグルズと名付けられた雄餓鬼を抱くフレイヤは、なんでもないようにそう語った。わたくしは、侍女の死を確信した。使える手駒が、また減ってしまったのだ。
フレイヤは手ずからシグルズを育てているようで、陛下もそんなシグルズをたいそう可愛がっているようだった。これではシンフィの立場がない。シンフィがあまりにも哀れだ。陛下の嫡子はシンフィ一人、なのに非嫡子にまで愛を注ぐなど道理が通らない。シンフィに与えられるべき栄光は、一片たりともあの餓鬼に渡してなるものか。
我が子のためなら、母はいくらでも鬼になれる。わたくしはありとあらゆる事故にみせかけて、あの邪魔な肉の塊を処分しようとした。けれど、それもうまくいかなかった。
フレイヤは息子をよく見ていたし、派手にやりすぎれば陛下まで巻き込んでしまう。一体どうすれば、いずれ簒奪者になるかもしれない小僧を亡き者にできるだろう。あの頃のわたくしは、そればかりを考えていた。
それからまた二年が過ぎて、フレイヤは再び子を産んだ。今度は雌だった。雄でないぶんまだましだったが、産まれた雌が母豚そっくりになってはたまらない。母子三人、消すべきだ。
――――その機会が訪れたのは、まさに天啓だった。