わたくしの真実
「この世界のこの時代には、定められた運命があった」
シグルズ・ヴィンタケーケン・ハルメニア・ノルンヘイムの台頭と、終焉の獣スルトによる世界の崩壊。ノルンヘイム王国は英雄であり暴君でもある若き王の元に短い栄華を迎えるが、なすすべもなく世界ごと滅ぼされる。そして世界には再臨の鐘が鳴り響き、創世の鐘と共に次の時代が始まっていく――――それが、観測者の語ったこの世界の未来でした。
「我々はその歴史を観測し、後天的な“羽搏く者”にもっともふさわしい人格としてアスクおよびエムブラという二人の架空の人物を想定した。定められた滅びの中で、この双子の兄妹はどうあがくのか。それを予測した箱庭を、まったく異なる世界に与えたんだ。そしてもっとも“羽搏く者”と“繋ぎ止める者”にふさわしい計測結果が出た魂を持つ者達を、この世界の住人として転生させることにした。他の世界と同じようにね」
「貴方がたの造った箱庭が、わたくしの見た物語の正体……」
「そうだ。我々は模擬検証を重ね、アスクおよびエムブラは絶対に暴君シグルズの治世に終止符を打つし、また一定の確率でスルトを屠るという結論に至った。箱庭の中で君達が観測していたのが、我々の模擬検証の結果だよ」
実際にアスク達が何を選び何を成せていたのかはもうわからないが、と観測者は肩をすくめます。それはそうでしょう、だってその前にわたくしが殺してしまいましたもの。
「君は“繋ぎ止める者”として“羽搏く者”が生み出す波紋を――否、波紋が生まれる際に必ず発生する『兄の死』を阻止しようとしたね。しかしここで、我々にも予測不可能なことがあった。そう、君が放った軛は“羽搏く者”にだけ作用するものではなかったんだよ。それは、スルトという人智を越えた脅威に対してまで反応してしまったんだ。結果、君というイレギュラーは後天的な空白の時代の“繋ぎ止める者”でありながら、“羽搏く者”にもなりえてしまった」
お兄様の邪魔さえしないのであれば、アスクやエムブラがどう成長しようとわたくしには関係のないことです。ですがあの“主人公”がいる限り、わたくしは彼らの脅威に悩まされるでしょう。ですから、わたくしはカイに頼んで彼らという不穏の芽を摘み取ってもらいました。
けれどお兄様には、終焉の獣スルトに殺されてしまう可能性もあるのです。お兄様の覇道には、石ころの一つも許してはいけません。物語の中において幾度となくお兄様を嗤いながら殺めてきたスルトもまた、わたくしにとっては抹殺の対象でした。
「君は“羽搏く者”に勝った。ここまではいい。だが、ただ波紋を修正するだけの“繋ぎ止める者”であったはずの君が、空白の時代の中で新しい運命の可能性を選び取ったんだ。これは、とても新しい発見だよ」
「お兄様がスルトを討ち取ったことをおっしゃってらっしゃるの? わたくしは偽剣レーヴァテインをお兄様に献上したいと思っただけでしてよ。実際にレーヴァテインを手中に収めたのも、スルトを斬り伏せたのも、お兄様ですわ」
「だが、君の助言がなければシグルズ・ヴィンタケーケン・ハルメニア・ノルンヘイムはスルトを殺す手段を持ちえなかっただろう。結果としてこの世界はスルトによる破壊を免れ、再臨と創世の鐘が鳴ることもなくなった」
“羽搏く者”は起こした波紋で世界を変えることができる。たとえそれ自体は小さなさざなみに過ぎなくても、それを起点として絡み合っていく人々の思惑が因果を導く。それこそ“羽搏く者”の在りようだ――――そう笑う観測者は、とても楽しそうでした。
「……実験と観測がお好きな貴方がたでも、後天的な空白の時代において勝者となった“繋ぎ止める者”が運命を分岐させるという仮説は立てられなかったのですか? 先天的な空白の時代でできたことなのですから、後天的な空白の時代でも“繋ぎ止める者”の役割が転じていくのは思いつきそうなものですけれど」
「初期のころはその推論もあったさ。だけど、これまで後天的な空白の時代で“羽搏く者”に打ち勝ったどの“繋ぎ止める者”も、その実現には至っていなかった。みな、“羽搏く者”が存在しておらず、ただ“繋ぎ止める者”が付け加えられただけの本来の運命通りの道筋に戻っていったんだ。無論、本人にはその自覚がなかっただろうがね。敵を打倒して自分の望み通りの未来を勝ち得たと言っても、それで世界の歴史が大きく変わるわけでもない」
敷かれたレールがあるか、ないかの違いなのでしょうか。
先天的な空白の時代にはレールがないので、“繋ぎ止める者”が進んだ道が正史になります。けれど後天的な空白の時代ならばあらかじめ用意されたレールがあるのですから、“繋ぎ止める者”はそれの通り進まざるをえないのでしょう。その場合、休憩のタイミングこそ各自に任されていますが、終着点は同じなのです。
そう考えると、“繋ぎ止める者”は後天的な空白の時代……すなわち、観測者が世界をもてあそんだ結果生まれた弊害への対抗策として発生した存在と呼べなくもないですね。それを造り上げたのが世界ではなく、観測者そのものだというのが皮肉ですが。
「“繋ぎ止める者”の存在自体は、運命を分岐させるほどの大きな揺らぎにはなりえない。結局我々は、後天的な空白の時代で“繋ぎ止める者”がそれ以外の存在になるのは不可能だと結論づけた。……君だけなんだよ、それを実証してみせたのは」
わたくしが持つお兄様への愛が、お兄様への信仰が、世界そのものを動かしたのですか? それはなんて――――なんて素敵なことなのでしょうか!
「この世界は、『創世期』『楽園期』『再臨期』の三つの周期によって成り立っている。現在は『楽園期』の末期だ。しかし我々観測者が、そこに空白の時代を被せた。そして“繋ぎ止める者”である君が新たな“羽搏く者”となり、世界の未来を書き換えた。『再臨期』が遠のいた……いや、スルトが消滅したことで、『再臨期』などというものはもちろん『創世期』すら成立しなくなったんだ。わかるかい? 君は、世界そのもののルールを変えたんだ!」
もうこの世界には『楽園期』しかない、ということでしょうか。数多の生命が生まれては死んでいくだけで、世界そのものの滅亡など訪れない時代。魂を選定されて一部の者達だけのみがまっさらな地上に生まれることを許されるという不条理の存在しない世界。それを、わたくしが?
祝福の鐘を導きの三神が撞くというのは、聖鐘教の教えです。三つの周期と祝福の鐘は、決して無関係ではないでしょう。ですが三つの周期が崩壊し、聖鐘教すらも勢いを失った今、やがてその考え方――――事実は、失われていくのです。
「君が成した偉業を、我々はしかと記録した。今後、この世界の運命は大きく変わっていくだろう。我々はまた新たに、これから先の未来を観測していく必要がある。しかしその前に、君の健闘を称えなければいけない」
「あら、称賛ならお兄様からいただくものだけで十分ですのに」
「はは、まあそう言わずに。本来なら、我々のような観測者は被験者には接触しない。その決まりを破った観測者がやけに被験者に肩入れしたり、その逆もあったりして、実験が正常に立ち行かなくなった事例があるからだ。だが、君は我々の予想をはるかに上回る成果を出した。これにて君を被験者とするこの世界・この時代の実験は終了となる。だから最後に我々から、真実を伝えようと思ってね。こうして接触させてもらったんだよ」
わたくしにとって、お兄様こそが絶対的な存在であるように。観測者達にとって、善悪などはどうでもいいのでしょう。彼らが重んじるのは観察と実験、そして発見だけに違いありません。
彼らは悲劇を喜劇に変えたいわけでも、喜劇を悲劇に変えたいわけでもないのです。誰が何をしてその結果どうなったのか、そして今後はどうなるのか。彼らはそれを見ているだけに過ぎないのですから。
「おめでとう、エイル・エーデルヴァイス・ハルメニア・ノルンヘイム。君は神の時代を終わらせた。終焉の獣も祝福の鐘も存在しない世界で、人は永遠の楽園を謳歌するだろう。さあ凱旋の時間だ、帰っておいき。君が愛して君を愛した人間達のところへと!」
観測者の拍手が響きます。同時に、世界が靄に包まれていきました。
*
「……ッ」
「エイル!?」
「目が覚めたか!」
すぐ傍に、お兄様とカイがいます。そこはわたくしの寝室でした。観測者の姿はどこにもありません。
「ええ……ご心配、かけてしまったかしら……? エイルは、悪い子ですわね……」
「ほんとだよ、馬鹿じゃないのか君は! 身体だってまだ本調子じゃないくせに、なんであんなことをしたんだ!」
「だってぇ……」
カイったら、また泣いているようです。縋りつくカイに弁明しようにも、声はかすれていて思うように喋れません。身体はまだ重く、起き上がろうとすると痛みが走ります。「無理はするな」とお兄様になだめられたので、お言葉に甘えて横たわっていることにしました。
「だがカイの言う通りだぞ、エイル。もう二度とあのような無茶はしてはならん。私以外の者に苦痛を与えられるお前の姿は見たくないのだ」
「仰せのままに、お兄様……」
「いいか、エイル。お前とカイは私の翼だ。たとえ片翼だけでも、もがれてしまえば意味がない。……お前を失うと思って肝が冷えたぞ。この私を恐怖させるとは、さすがは我が妹といったところか」
そう言いながら、お兄様はとても優しい目をして頭を撫でてくださいました。
「わたくしのせいで……お兄様に、何か不利益は……?」
「気にするな。今はゆっくりと休むがいい」
リーヴァとの結婚式は延期してしまったでしょうか。あの時の刺客はきちんと捕まったでしょうか。刺客の裏に潜む者達は一網打尽にできるでしょうか。それに――――死んだと思ったわたくしは、どうして生きているのでしょうか。
「お兄様……皇国の、皇女は……宝玉は……どう……なさったの……? まさか、わたくしの……ためなどに……」
「……それだけお前が大切だった。すまない、エイル。お前と母上を会わせてやるのは難しい。あの皇女は当代の皇の一人娘だし、イズンガルズの皇を生け捕りにできるとも限らんからな」
それは答えでした。ああ……なんて、なんてわたくしは、愚かなことを……! お兄様の望みを、他ならないわたくしが絶ってしまっただなんて……!
「も……申し訳ございません、お兄様ぁ……!」
「何故お前が謝る。私は遠い母上より、傍にいるお前を選んだのだ。確かに母上の復活は長年の悲願だったが、そこにお前がいなければ何の意味もないだろう? むしろ謝るべきは私のほうだ。私ともあろうものがお前の死の恐怖に揺らぎ、宿願を曲げてしまったのだから」
お兄様の邪魔をしてしまって、背筋も凍る思いです。けれどどうしましょう、同時にとても嬉しいのです。だってお兄様はお母様ではなくって、わたくしを選んでくださったんですもの。
ああ、やっぱりエイルは悪い子ですわ。お兄様の夢が叶わなかったのに、喜んでいる自分がいるのですから。
「……僕からも頼んだ。シグから悲願を達成する機会を奪った責任は、僕にもある」
「だが、私はその願いを捨てた代わりに、別の願いを叶えたのだ。お前の蘇生という、な」
「お兄様……カイ……」
わたくしの命は、観測者達に与えられたものでした。エイル・エーデルヴァイス・ハルメニア・ノルンヘイムは、本来なら産まれてくるはずのなかった人間なのです。それでも、わたくしはこうしてこの世界に生を受け、お兄様の妹となりました。
そのわたくしを、死の淵から連れ戻そうとするほどに愛してくれる人がいるのです。わたくしが繋いだ、ロキという小さな命だってありました。たとえはじまりが人工的な存在だったとしても、生きた証を立てて世界すら変えてみせたわたくしは、今を生きる本物の人間なのでしょう。世界に必要とされておらず、それでも世界に爪痕を残したんですもの。
わたくしは勝ってみせました。“羽搏く者”に、あの忌々しい獣に、お兄様を取り巻く死の運命に。ああ、ならば――――恐れるものは、もう何もありません。




