僕の醜態
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シグルズ・ヴィンタケーケン・ハルメニア。それが、僕が生涯のあるじと定めた親友の名前だった。やがてその名は、こう変わるだろう――――シグルズ・ヴィンタケーケン・ハルメニア・ノルンヘイムと。いずれ必ず、シグルズは王族としてこの国の名を冠することになるのだから。
望んで跪いた僕が言えたことでもないが、シグルズは完全に気が狂っている。シグルズの同母妹の、エイルもそうだ。……それはそれとして、エイルは何か変だけど。
エイルは、シグルズとはまた違う意味で、何かおかしいことがある。うまく言えないけど……観客であり役者でもある、みたいな。観客だった奴が今度は役者として舞台に上がって、脚本にない台詞や場面を即興で混ぜ込んで、でも違和感なく劇を続けさせてるとか、そんな感じだ。他人に言ってもこの感覚は理解されない気がするから、誰にも言ったことはないけど。
僕は生まれつき、相手の人となりというか……持って生まれた運命、あるいは背負うべき立場のようなものが視える。視えてしまう。それは抽象的でぼんやりとしていて、僕にも意味を掴めないことが多いけど。
僕の立ち居振る舞いや口調は、もともと自分が人好きのしない性格だったこともあるが、それ以上に計算でやっている部分が大きい。貴族の子息らしくない態度と話し方は、僕をいっそう孤独にさせてくれるからだ。それでいい。最初から誰ともかかわることがなければ、何か嫌なものが視えることもないし、傷つくこともないから。
幼い時から僕は引きこもりがちだった。自分の殻にも、部屋にも籠っていた。けれどシグルズは、僕が築いた心の壁をやすやすと飛び越えた。
僕のことを、シグルズは気に入ったと言った。そして天使のような微笑を浮かべ、僕に跪いてフードを取るよう命じた。四年前、父さんに連れられていやいや参加した茶会でのことだ。
どうしてその時、素直にシグルズに従ったのか。かたくなに守り続けていた僕だけの鎧を、何故あっさり手放してしまったのか。その問いに、今でも自信を持って応えられる――――シグルズは、生まれながらの覇王だからだ。
シグルズからは、そんな鮮烈な悪が視えた。上位存在に逆らってはならないという、生物としての本能。その目に魅入られた瞬間に感じた、恐怖と悦楽。あの声に身をゆだねること以上に甘美なものが、この世に存在するだろうか?
ちょうどその時、周囲に人がいなかったせいもあるだろう。気づいた時には、僕はシグルズの前に跪いてフードを取っていた。
その瞬間、僕の顔は陽射しに焼かれた。春の陽気は、僕にとって灼熱の地獄に等しい。僕はみじめに這いつくばり、痛みにあえいでいた。そんな僕を、シグルズは慈愛に満ちた目で見下ろしていた。
そして彼は、僕に手を差し伸べて。陽光に嫌われた証である髪を、瞳を、肌を、きれいだと言った。
フードを被せてくれて、醜く焼け爛れた頬を優しく撫でてくれた。苦しむ悶える僕の姿が、美しいと。
そんなことを言ってくれたのは、してくれたのは、シグルズだけだった。痛みはいつの間にか引いていた。
父さんも母さんも、僕のことを持て余していた。もし僕の潜在的な魔力に気づかれていなかったら、早々に捨てられていただろう。僕の弟達は普通の人間だったけれど、同時に魔力が乏しかった。魔導師としてラシック家を継ぐのに一番ふさわしかったのは、呪われた子である僕だけだった。だから僕は生かされた。幽閉されることもなく、嫡男として扱われた。
でも、それはあくまでも僕に利用価値があったからだ。血を分けた実の家族は、たとえ嘘でも僕の容姿と体質を受け入れてくれなかった。
当時僕の身体には、幼い僕自身か、あるいは家族か使用人の不注意で爛れた箇所がいくつかあった。けれどその醜い傷跡から、誰もが目を逸らしていた。穢れが移ると言って、触れるどころか近づくこともなかった。だから僕は、家族の温度も、感触も知らない。
貴族における家族のかかわりは淡白なものなのだと、僕は信じて疑っていなかったけれど……少なくとも我が家の場合は、必要以上に僕が避けられていただけだった。だって僕は何をするにも一人だったのに、弟達は違ったから。弟達は、ちゃんと両親に愛されていたんだ。
家族にすら腫れ物のような扱いを受ける僕を、一人の人間として認めてくれたのはシグルズが初めてだった。シグルズはためらうことなく僕の素肌へ直に触れ、瞬く間に傷跡を癒していった。そして僕を優しく抱きしめて、「お前が必要だ」と言ってくれた。何度でも何度でもその肌を爛れさせてやれるように、いつだって私の手で治してやろう、と。
一人で生きていこうと思っていた幼い僕に、その温度は反則だ。シグルズの優しさが、混じりけのない狂気からきたものだったとしても。僕だって本当は、愛されてみたかったから。
四年間シグルズといてわかったことは、あの時の彼の態度は完全なる本心だったということだろう。当時のシグルズは、呪われた子としての僕の噂を知っていても、僕の魔力については気にしていなかった――――あの時彼が求めていたのは、手軽に痛めつけられる僕の身体だけだった。
自分だけが僕の纏う鎧を剥がせる優越感にシグルズは浸りたがったし、僕も綺麗なシグルズと……それからついでに、シグルズに似ているせいかまあ可愛いと言えなくもないエイルが、醜い僕を許してくれるのが嬉しかった。
僕の心は、あの美しくて狂気に満ちた兄妹だけを受け入れた。それ以外の人間が近づくことは変わらず拒んだ。どうせ誰もこのローブの下を、シグルズ達のように愛してくれないから。
わざわざ僕に近づこうとする連中は、誰も彼もが打算ありきだ。そいつらが吐くヤサシイ言葉は、決まって「醜い傷があってもいい」とか「呪われた姿でも構わない」でしかない。けれどシグルズ達は違う。「陽の光を浴びられない身体だからいい」んだ。
シグルズは心から、陽に晒すたびに焼け爛れる僕の身体と……自身の呪いを憎む僕を好んでいるし、エイルもそれでいいと思っている。シグルズのような歪みに歪んだ純粋な欲望の持ち主が他にいるとは思えない。僕の業まで含めて僕を受け入れてくれるような、本当の愛を手に入れてしまった僕はもう、綺麗事で飾った嘘なんかじゃ満足できなくなっていた。
シグルズ達の前で肌を焼く行為で、シグルズは僕の忠誠心と信仰心を確認する。そして僕は、今日もシグルズは僕を見捨てていないと実感する。あの痛みこそが僕らを繋ぐ絆だ。
シグルズに出会ってからは、自分が呪われた身体に生まれて、そしてその呪いを厭う感性を持ち合わせていたことを初めて神に感謝した。生きていてよかったと心から思った。だってもしも僕が普通の子だったら、最初の出会いのきっかけがなかっただろう。
エイルのように痛みを乞うことはもちろんたやすい。けれどエイルはシグルズの妹だ。その一点において、彼女は僕より優位に立っている。陽光に拒まれた白髪金目だからこそ、シグルズは僕に興味を持ってくれた。その特徴がなかったら、僕の存在をシグルズに気づいてもらうためにかなりの時間を要していたかもしれない。
シグルズは聡明だった。妹のエイルも、とても六歳の子供だと思えないほど優秀だ。……あの兄妹の複雑な境遇を思えば、誰だろうと賢しくもなるか。それは、僕にも覚えがある。僕だって、自分がおよそ子供らしさという言葉と縁遠い生き方や考え方をしている自覚はあった。
あの二人はどちらも等しく狂っていて、だからこそ美しい。僕とエイルはシグルズに痛みを与えてもらえる機会を奪い合う仲なので、エイルとシグルズの類似点やエイル自身の美点を認めるのは癪だけど……エイルと同様、シグルズに跪く栄誉を手にできたのはひどく幸福なことだった。
だから僕は、僕に生まれた幸運を噛みしめる。もしも僕が呪われていなければ、そもそもシグルズ達に共鳴することもなかったかもしれない。それでも、ここにいるのはこの"僕"だ。
有象無象の嘲笑は、フードで遮れば気にならない。陽の光から逃れるための衣服が、人の視線からも守ってくれる。貴族らしくない、根暗で不気味な僕から人は勝手に離れていく。それでも僕に近づこうとする奴は、全員シグルズの踏み台にしてやればいい――――たとえばそう、この国の王妃とか馬鹿王子とか。
「あーもう、やめだやめ! 余は疲れた! 休憩だ!」
羽ペンを放り投げ、シンフィはぷいっと顔を背けた。もう絶対に講義の続きは聞かないとでも言うように、閉じた教本や筆記帳を自分の前から払いのけるというおまけつきだ。
おかげでインク壺が倒れ、隣に座っていた僕の筆記帳まで黒く染まった。反対側の隣の、シンフィの乳兄弟である騎士見習いは無事だったのが腹立たしい。……くそ、板書が台無しだ。ローブまで汚れた。白いローブだからインクの汚れはとても目立つ。好ましいとは言えない。
「殿下、ですが半刻前にも休憩を……」
「うるさいぞ! 余に口答えする気か?」
贅肉と自尊心でぶくぶくと肥え太った王子の姿に、疲れた様子の家庭教師は口をつぐんだ。シンフィの不興を買って、国王や王妃にあることないこと告げ口されるのが嫌なのだろう。
僕の知る限り、この家庭教師は五人目だ。王妃はともかく国王は、シンフィが何を言おうとまともに取り合わないだろうが……それはそれとしても、この家庭教師は王子を指導することは諦めているらしい。家庭教師は白墨を置き、何度目になるかもわからない休憩を告げた。
「カイ、余の分の板書もまとめておくのだぞ!」
シンフィは喜び勇んで飛び出していく。騎士見習いは慌ててそのあとを追った。ふと見て見れば、シンフィの筆記帳は真っ白だ。……ああ、これ、このまま脱走する気だな。
僕はその場から動かず、ローブや筆記帳の汚れを落とすために水の魔術を用いて洗浄を試みる。……よし、なんとか落ちたみたいだ。
僕は一か月ほど前から、王妃殿下のご厚意で“王子殿下のご学友”として扱われている。王妃らしいやり方だ。僕を通してラシック家を取り込みたいのか、それとも僕とシグルズを切り離したいだけなのかはよくわからないけれど。
もっとも王妃のその涙ぐましい策略も、肝心のシンフィがこれでは無意味と言わざるを得ない。王太子になるための勉強をおろそかにし、勝手気ままに振る舞うばかりの王子。これならやっぱり、シグルズのほうがマシだ。シグルズは人間的に壊れているけれど、王になるという確かな意志がある。ここにいるのがシグルズだったら、きっと与えられた課題以上のことを成し遂げて家庭教師の舌を巻かせていただろうに。
案の定休憩時間が終わっても、シンフィは戻ってこなかった。騎士見習いもだ。家庭教師は投げやりに、今日の授業はここまでだと告げてそそくさと帰っていく。あの家庭教師も、今日が見納めになりそうだ。
仕方ないのでシンフィの筆記具ごと鞄にしまう。どうして僕が、わざわざあいつのために写本してやらなきゃいけないんだ。腐っても王子だという事実が本当に憎らしい。
王宮からシグルズ達の待つ離宮に向かうため、僕は光の回廊へと向かった。外に出るには、この大回廊を通るのが一番の近道だからだ。唯一の難点は、光の回廊の壁は全面が硝子張りになっていることだけど。採光性だかデザイン性だか知らないが、僕にとっては余計なお世話もいいところだった。
フードを目深に被って、マスクがちゃんと鼻筋まで覆っているか確認する。あとは俯きがちになって足早に通り抜ければ問題ない。視界はことごとく悪かったけど、陽射しが眩しいここを通る時は――――
「隙ありだ!」
「ッ!?」
急に、背後からそんな声が聞こえてきて。がばりと、後ろからフードが取られた。前にも誰かがいる。名前は知らないが、どこかの貴族の子供で、シンフィの悪友でもある年上の少年だ。どっちも嫌な奴であることに変わりはない。
とっさのことに立ち尽くした僕に伸びたその手は、僕のマスクを強引に引きずり下ろした。後ろから羽交い絞めにされる。払いのけるのは、間に合わなかった。もがくけれど、僕の腕はあまりにも非力で。魔術しか取り柄のない引きこもりの僕が、力で敵う相手はそういなかった。
マスクを無理やり下ろされた時に引っ掻かれたらしく、頬がじぃんと痛んだ。けれど、けれど、そんな些細な痛みはすぐに上書きされる。魔術で反撃しようという意志も封じられる。だってだってだって、あついあついあついあつい!!!!!
「がッ、あ"…………あ"あ"ッ、あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁ!」
灼ける。灼ける。僕の顔が。醜く爛れていく。手で顔を覆いたいのに、抑えつけられているからそれもできない。
「やっと余もそなたの顔を見ることができるな!」
この声は王子のものだけど僕が敬愛する唯一の方のものではない。
王の血を引く子でありながら王子と呼ばれないあのお方の声じゃない。
どうしてどうして、どうしてこんなことを。
「大げさな奴だな。どれ、どうなっ……ひっ!?」
後ろから聞こえるシンフィの声に、前に立っていた少年の悲鳴が重なる。けれどシンフィが息を飲んだのはわかった。
見るな見るな見るな。ここにはシグルズがいない。エイルもいない。僕を認めてくれる人がいない。醜い僕を、醜い僕こそを愛してくれる人がいない。
「想像以上だぞ。まさに化け物だな!」
「殿下、おたわむれはここまでにいたしませんか……? さすがに、度が過ぎていたのでは?」
「おぞましいものを見てしまった。なるほど、これが邪神の取り換え子か。まさに呪いだな。戻るぞジェレゴ、ルツ。これ以上は耐えられん」
シンフィ達はどこかに行ってしまった。解放されて床に崩れ落ちる。なんとかフードだけ被ったけれど、とてもマスクまでは付けられそうになかった。焼け爛れたところが、空気に触れてまだ痛む。それでも全力で走って光の回廊を通り抜けた。
ああ、僕を羽交い絞めにしていたのは、あの騎士見習いだったのか。確か奴の名はジェレゴといった。じゃあ嫌そうに顔を背けたシンフィの後ろで、震えている奴がルツか。……覚えたからな、お前達の名前。
たまたま通りかかった宮廷人は、僕を見てひっと息を飲み方向を転換した。どうしよう、どうしよう、こんな顔では出歩けない。もっと猫背になって、頭を下げていればいけるか? でも……シグルズ達のいる離宮に着くまでに、どれだけ転んで何かにぶつかればいい?
「あら、カイではないですか。一体何があったのです?」
「……ぇ」
混乱していたからだろうか。幻聴まで聞こえてきた。だってこの声は、ここにいるはずのない女の子の声なんだから。
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