わたくしの歪形
わたくしがノルンヘイムに戻ってきて一週間ほど経ったころ、スカジガプとの調印式が行われました。偽剣レーヴァテインさえ手中に収めれば、もうあの国に用はありません。スカジガプの降伏を受けてイズンガルズからも講和の申し出があったそうですから、戦争は終結したも同然でしょう。
「そら、エイル。望みの品だぞ」
「さすがです、お兄様!」
調印式を終えたお兄様の手には、偽剣レーヴァテインがありました。これでスルトなど怖くも何ともありません。あの忌々しい獣のことは、お兄様がたちどころに斬り捨ててくださるでしょう。
「お兄様、エイルからのお願いです。せめてエイルが安心するまで、その剣は常に手の届くところに置いておいてくださいな。その剣は、お兄様の敵をことごとく斬り伏せてくれますもの」
「……ふむ。天使が宿るなどとくだらぬいわれのある剣だが……業物ではあるようだ。当分の間佩いていれば、聖鐘教を完全に降した証にもなるか」
レーヴァテインを鞘から抜き、その刀身を眺めながらお兄様は答えてくださいます。安堵するのもつかの間、「だが、その前に」レーヴァテインの切っ先が「――試し斬りをしないとなぁ」わたくしに向けられて。
「エイル!?」
感じる風圧。迫る刃。笑うお兄様。明確な死の気配。焦燥に満ちたカイの声。硬直して動けないわたくしの眼前で、刃はぴたりと止まりました。
「くく、冗談だ。愛しいからこそ傷つければ、八つ当たりとみなされかねん」
お兄様はレーヴァテインを下ろしました。ローブの長い裾を揺らしてカイが駆けつけます。少し離れたところにいたはずですが、事態に気づいて慌てて来たのでしょう。少し息を切らせながら、カイはわたくし達の間に割って入ります。
「シグ。僕は君のあらゆるすべてを肯定して従うつもりだけど、それでもちゃんと事情は説明してくれ。まずは自分で納得したいから」
「なぁに、ほんの戯れだ。案ずるな、私はもちろんエイルとて自力で死者を生き返らせることは叶わない。今のエイルに無体は働かぬさ。腹の子をみすみす死なせるわけにはいかないからな」
お腹の子。そうです、わたくし自身はお兄様がお与えになる苦痛にはいくらでも耐えられますが、この子はそうではありません。まだ生まれてもいない命は非常にもろく、わたくしが守らなければいけなくて……けれど、この子の生殺与奪はわたくしではどうしようもできないのです。
お兄様がこの子を可愛がろうとするあまり、殺めてしまったというのなら。わたくしはそれを受け入れましょう。だってお兄様のなさったことですもの。お兄様に愛されるのなら、それはこの子にとっても幸福なことなのです。ああ、ですがこの子が無事に生まれてこなければ、ヘズガルズの王位を実質的に得るのが遅くなってしまいます。それは困りますね……。
「……生まれてからもしばらくは控えてほしい。僕とエイルは慣れてるし、それこそが君の愛の形だってわかってるから受け入れてる。でも、自分ではまだ何もわからない子供が、僕らと同じようにそれを受け入れられるかわからないし……そもそも、君のやり方で愛されれば、きっとすぐ壊されてしまうよ。子供を産んだ後はエイルの体調も優れないだろうから、耐えられるかどうか」
「なんだ、お前もリーヴァのようなことを言いだすじゃないか。私がこれまで誰を壊しても、何も言わなかったのに」
カイは何を言っているのでしょう。お兄様も不思議そうに眉をひそめています。
「この子もエイルも、ヘズガルズを手中に収めるための大事な存在だろ。うっかり死なせてしまうのは君の本意でもないはずだ。……勘違いしないでほしいんだけど、僕は君のやり方に文句をつけたいわけじゃない。僕はただ……そうだな、愛したい衝動は弱そうな奴に直接ぶつけるんじゃなくて、僕みたいに丈夫で君のことも理解してる奴に、代わりにぶつけたほうがいいって言いたいだけなんだよ」
「つまり……カイは、わたくしからお兄様に可愛がってもらう時間を横取りして、この機会にお兄様を独り占めするつもりなのですね!?」
「……うん、そういうことでいいから」
なんということでしょう! その可能性を失念していました! 確かに、せっかく帰省したものの、お腹の子のことを考えればお兄様に可愛がっていただくわけにはいきません!
お兄様は少し考えるようなそぶりを見せて、そしてぱぁっと顔を輝かせます。もしやお兄様は、どうカイで遊ぶか思いついてしまったのでしょうか。それはいけません!
「変わったなぁ、カイ。……いい、許そう。この程度のことでお前の忠誠を疑ったりはしないさ。その申し出は受け止める。だが、お前にだって八つ当たりはしないぞ? エイルに対する衝動をお前にぶつければ、他でも箍が外れそうだ。自制中にわざわざ自らを追い込むような真似はしたくないからな」
お兄様が何を気にしているのかがわからないのが不満ですが……それでも、カイにお兄様を奪われるという最悪の展開は避けられたようです。一安心ですね。
「そうだ。カイ、エイルの滞在中はお前がエイルの護衛を担当しろ。どうせもうお前が出るほどの戦場はない、他の輩にも活躍の機会を与えてやれ。エイルの護衛などお前がいれば十分だろう? 護衛の騎士達には私から話を通しておくからな」
「なっ……!」
「まあ。カイの魔術にはいつも守られていましたけど、直接本人が傍にいるというのはなんだか新鮮な気分ですわね。ファム達の驚く顔も見られるでしょうし、楽しみですわ」
馬車で国家間を移動するときも、城下を視察に行くときも、身体に負担がかからないようにとか、道中で刺客に襲われてもいいようにとかで、色々な魔術の道具が使われています。それらのほとんどはカイのお手製でした。
便利な道具があるので、本人が傍にいなくても構わないとは思うのですが……カイをわたくしの傍に置いておけば、カイの抜け駆けを阻止できます。さすがお兄様の采配ですね。
お兄様は、合流してきた宰相達とそのまま行ってしまわれます。残されたわたくし達も人目のないところに移動するのですが……何故だかカイが向けてくる、責めるような視線が刺さりました。
「エイル。君はもう少し、自覚を持ったほうがいい。君は今、一国の王位継承者と一緒にいるんだ。その命の重さをもっと考えてくれ」
「それは、この子が貴方の子だからですか?」
「……僕と君の、だろ。でも、僕はもう二度とあんな真似はしないからな……」
「なんてこと! 弟妹が欲しいと、この子が寂しがったらどうするおつもりですの?」
「まず僕がヘズガルズ王家の子供の父親になるのがおかしいんだけどな!?」
カイは大きなため息をつきました。カイったら、何に対して怒っているのかしら。
「確かにシグは素晴らしい。僕と君がシグに惹かれたのは、きっと同じ理由からだろう。……だけど、世の中にはシグを理解できなかったり、シグを否定したりする奴だっている」
「……わたくし達の子が、そのような凡愚だとおっしゃりたいの? 仮にそうだったとしても、わたくし達が教育を、」
「それだと意味がない。いいかエイル、子供は良くも悪くも親の影響を受けるけど……元の性質を変えられてまで押しつけられたものが定着することはないんだ。万が一影響と性質が噛み合わなければ、押しつけられたそれはきっと子供の中に歪みを生むだけのものになるだろう」
わたくしを遮り、カイは強く言い募ります。真昼の空の下でもなお輝くその月のような眼差しは、いつになく悲壮なものでした。
「シグの加虐趣味は、多分生まれつきのものじゃない。きっと、フレイヤ様の影響だ。でも、シグは生まれついての覇王だった。選民思想と嗜虐嗜好が合わさった結果、恐怖こそ統治者の象徴だって納得するようになったんだろう」
お兄様は文武ともに秀でていて、政敵を追い落とす苛烈さも、民の心を掴む寛容さも備わっています。わたくしがヘズガルズで行った策謀も政策も、お兄様が実際に行った数々のお仕事を参考にしたものばかりでした。誰より優秀なお兄様が王として生まれたというのは、当然の理でしょう。
「僕は人の本質が見える。シグがどういうつもりで僕を痛めつけたいのか、僕にはすぐにわかった。シグに僕をいじめてるつもりはない。それどころか覇王たるシグは、矮小な存在に過ぎない僕を認めてくれた。だから僕はシグに忠誠を誓ったんだ」
「なら、貴方はわたくしがお兄様を受け入れられた理由についてどう考えてらっしゃるの? わたくし、お母様のことはほとんど覚えていませんけれど」
「……君がシグを受け入れるのは、昔から馴らされてたからだろ。君は生まれつき、脚本を知る役者のような存在だった。だからシグを唯一絶対の神だと認識してたし、加虐にもひるまなかったんじゃないか? そもそも、幼い君が縋れるのは、兄のシグしかいないだろうし。妹として君はシグを愛してたし、シグの機嫌を損ねれば君は一人ぼっちになる。シグに構ってもらえることが、君には何より嬉しかったんだろうね」
「馴らされていただなんて、まるでアラーニェちゃんの毒みたいにおっしゃるのね。けれどわたくし、お兄様からいただける苦痛以外にも強くてよ? だって貴方に噛みつかれても、怒ったことはありませんもの。もちろん、他の人にされたら嫌ですけれど」
「わ、悪いとは思ってるよ……。それは君がシグのおかげで痛みに慣れてて、なおかつ僕に……その、気を許してくれてたからだ。だから、僕の噛み癖も平気で受け止められたんだと思う」
カイには物語の記憶はないはずです。それでも、悟られるところは悟られてしまうのでしょう。確かにわたくしは、お兄様があのようなお人であると生まれる前から存じ上げていました。お兄様がお与えになる苦痛をこの身で知ったばかりのころは、あまりの苦しみに生理的な嗚咽が出たかもしれませんが……今ではそれも、ただの思い出です。今のわたくしは、痛みに悶えながら歓喜に身を震わせていますもの。生まれつきわたくしに備わっていた癒しの秘跡の存在も大きいでしょう。
とにかく、とカイは話を戻すように咳ばらいをします。カイの言葉を借りるなら、わたくし達は元の性質と周囲に受けた影響が噛み合っていたのでしょう。カイが言いたいのは、生まれてくる子もそうだとは限らないということのようでした。
「子供には、選択する権利があると思う。たとえこの子がどちらを選んだって、僕らはそれを責めるべきじゃないし、もう一方の道を強制するべきでもない。……エイル。子供はさ、親の望むような姿にはなれないよ」
「……」
「子供は親の人形じゃないし、ましてや複製なんかじゃない。……間違っても、一から十まで思い通りにできると思わないでくれ。親の考え方に、子供を巻き込んじゃだめなんだ」
白い髪と金色の瞳。それを持って生まれたカイを見た、ラシック家のおじさまとおばさまの失意はどれほどのものだったのでしょう。明らかに他の子供達と違う扱われ方をしたカイの絶望は、どれほどのものだったのでしょう。
わたくしはもう、お母様のことはよく覚えていません。けれどお父様はわたくしを可愛がってくださいました。お父様が幸せの絶頂で死ねたのは、わたくしにとっては恩返しです。たとえ狂人のお父様でも、わたくしはお父様を愛していました。
一方のカイはどうでしょう。魔導師としてのカイはきっとカイ自身が選んだ姿で、それもまたおじさまとおばさまの希望通りの生き方に違いはないのでしょうが――――伯爵家の長男として、二人がもともとカイに期待していた姿はきっと別のものだったはずです。
ラシック家にあるカイのお部屋には、何度も通っていました。ラシック家のおじさまとおばさまにもお会いしたことがあります。おじさまとおばさまがカイを心から愛せていなかったのは明白で。そんな両親を、カイは愛していたのでしょうか。
「もしこの子が将来何かしらの理由でシグの不興を買って、その結果シグが死の罰を与えようとするなら、僕はきっとシグに従うだろう。……だけど、もしこの子が僕達と違う考え方を持っていた場合、この子のことを僕達にするような接し方で可愛がろうとするシグの前には差し出せない。シグの愛は、普通の人には重すぎるからだ。正当な理由がないまま、ただ衝動的な戯れのせいで……自分の子供の命が奪われるのは、見過ごせないんだよ」
僕は酷い奴だから、有象無象はどれだけ壊れても構わないけど、血を分けた実の子供のことは守りたいんだ――――マスクの下で、カイは悔いのにじむ微笑を浮かべているようでした。
「ヘズガルズにいる間、僕達は大きな間違いを犯した。どう考えてもこの命は宿るべきじゃなかったんだ。だから、約束してくれ。……どんな子が生まれても、母親としてこの子を愛して、尊重してほしい。僕は父親だと名乗れないけど、できる限りのことはする。それしか償い方がわからない」
「……なら、わたくしからも約束してほしいことがあります。二度と、あれが間違いだったなどとおっしゃらないで。宿るべくして宿った命でしょう。何故貴方が後悔しているのか、わたくしにはちっともわかりませんわ。……貴方と過ごした夜の間、わたくしは嘘を告げたつもりはありません」
カイはそれきり黙ってしまいます。俯くその姿は、まるで怯える小さな子供のようでした。




