私の愛寵
* * *
「シグルズ。人は、恐怖だけでは決してついてこないのよ」
リーヴァは厳かに告げる。閉じられた両目から伝う血の痕は、さながら涙のようだった。
「表面上だけでなら、従わせることはできるでしょう。けれど、それはただ従属させているだけ。信頼で成り立つ関係じゃないわ」
抉り取ったばかりのリーヴァの右眼を舌先で転がし、軽く押し潰す。しばらく弾力を楽しんでから、よく噛んで飲み込んだ。左眼も同じように口に含む。
こうすることで、この美しい女の一部が私のものになったような気がする。気に入ったものと一つになる、それは得も言われぬ高揚をもたらす快感だった。
「あなたはこの国の王になるために、民の支持を得ようとしたわね。たとえそれが偽りの慈愛だったとしても、あなたの在り方を民は信じたわ。その造られた賢君を、あなたの本当の姿にしてみようとは思わない?」
「賢君の虚像など、造った覚えはまったくないな。私が民に慈愛を示すのは、羊に嫌われては羊飼いが務まらないからだ。私は心から民を愛し、守り、慈しんでいる。その一生の世話をし、見守っているのだぞ? それで十分だろう」
「……あなたは、計算高くて厳格な為政者だわ。人々を見下ろし、完璧に管理しようとしてる。為政者の考えと民衆の考えが異なるのは、きっと仕方のないことなのでしょう。……けれどその振る舞いは、民が望んだものだと思う?」
「これ以上民が私に何を望むと? 生の喜びと死の恐怖を感じる以上に幸福なことがあるか?」
リーヴァはため息をついた。「どう言えば伝わるのかしら」リーヴァは探るように手を伸ばし、やがて私の腕を掴む。目元を押さえた時に血がついたのだろう、リーヴァの手に握られた私のシャツも赤く染まった。
「あなたのそれには……そうね、人間らしい温かみがないのよ。あなたは民を想っていると言いながら、決して触れ合おうとはしない」
「私は、痛みを感じられることの素晴らしさを伝えたいだけだ。それこそが私の愛よ。寛容を示すのも、苦痛をもたらすのも、私にとっては同じことにすぎん。与えるのが飴か鞭か、その程度の違いだ」
「……どうしましょう。あなたの愛の原風景は、わたしには理解できないものみたい。でも大丈夫よ。理解り合えなくても、尊重し合うことはできるもの。だから教えてちょうだい、あなたがあなたで在る理由を」
視力を失い、はからずも私に縋りつくリーヴァの顔に手をかざす。放たれる淡い光はたちまち傷を癒した。リーヴァは取り戻した眩しさに目を細め、瞬きながらも私を見上げた。
「苦痛は恐怖に通じる。恐怖とは危険を知らせ、生存本能を刺激するものだ。人間にとって欠如してはならない原初の感情……私は支配者として、それを掌握する義務がある。それこそ私の源流、今の私を形作ったものだ」
今は亡き母上の教えを忘れたことなど片時もない。リーヴァの柔らかい桃色の髪に触れながら、気高い双眸をうっとりと見つめる。
「リーヴァ、私はお前を愛しているぞ。お前のような女は初めてだ。今後、お前に代わる女が現れることもないだろう。聞かせてくれ、リーヴァ。あとどれだけ愛せば、私の愛はお前に伝わる? いつになったらお前は恐怖を知り、生きることの喜びを噛みしめ、私に愛を返してくれるのだ?」
「わたしだって怖いと思うことはあるわ。わたしが何より恐れているのは、神から与えられた使命を果たせないことよ。志半ばで諦めることが、あなたに殺されることよりもずっと怖い」
こうなるとわかっているのに、今日も確かめずにはいられなかった。この悔しさともどかしさは、これまで何度味わったことだろう。私はこれだけリーヴァを愛しているのに、リーヴァが私の愛に応えることはない。リーヴァの前でだけ、私は王ではいられないのだ。
この数年、リーヴァは何をしても屈しなかった。離宮の一室に監禁し、どれだけの苦痛を与えても壊れなかった。あまりに精神が強靭すぎて、もはや命ある生き物であることも怪しいと疑ったことは何度もある。だが、この女の瞳はいつでも輝いていた。だからこそ、この女を思うままにしたいのだ。その想いは時が経つごとに強くなり、気づけばずっと傍に置いていた。
「私は、お前にとってはいつまでも支配者たりえないのだな。……いいだろう、面白い。自分しか見ていないお前を、いつか必ず振り向かせてやる」
「シグルズ、あなたは誰にとっても神じゃない。王という衣を纏う、獣の心を持った人間よ」
「はっ。私のことをそう称するのは、生涯お前だけだろうよ」
リーヴァ・インステイン。間違いなくこの女は、私を狂わせる魔性の女だ。私を無理やり人の道へと引きずり込もうとするのだから。
この女を寵愛していれば、いつかは身を滅ぼすこともあるだろう。王にも人にもなりきれなかった、父上のように。
だが、私は父上のようには決してならない。何故なら私は父上とは違い、生まれながらの王だからだ。
あるべき姿に戻るため、私は自ら今の地位を欲し、そして手に入れた。国の頂こそ私が君臨すべき場所で、それに重圧を感じたことなど一度もない。これを捨てて只人になろうだなどと、過去の私と――――私の両翼たる、エイルとカイに対する冒涜だ。
私はこれからも、望むすべてを手に入れる。豊かで広大な版図、忠実な臣民、そして蘇生の秘宝。リーヴァのことも、王のまま愛し続けてみせよう。
「わたしを振り向かせたいなら、まずは恵まれない孤児院の子供達に慰問と寄付を。それから、少しでも未来の選択肢が増えるように、学問を保証してあげて」
「私がそれをしていないとでも? 国の次代を担う歯車に、手入れをしない理由はないだろう?」
「なら次は、そうね、戦争をしないで。処刑もだめよ。意味もなく人を殺してはいけないんだから」
「それは無理だ。何故ならば、何もかもが必要な犠牲だからな。だが、戦争はじきに終わる。無論、ノルンヘイムの勝利という形でだ」
「ありとあらゆる人を守れないのなら、あなたはやっぱり神じゃないわ」
「揚げ足を取るのはよせ。神とて救うべき者の選別はする。救う価値もない者にまで情けをかけてやれば、熱心に祈りを捧げていた者達に示しがつかないからな」
「……だったら、せめてあなたを信じた人達のことは愛し続けて。きちんと温度のある方法で」
「最初から民を愛していると言っているだろう? 私ほど愛深き王はいないぞ」
リーヴァは何か言いかけたが、諦めたように口を閉ざす。すぐにその唇はいくつもの言葉を紡いだが、どれもがありきたりですでに着手済みの政策ばかりだった。私が笑いながら応じるたびに、リーヴァは不服そうに唇を尖らせる。そのさまもまた、潰したくなるぐらいに愛らしかった。
「仕方ないわね……。だったら方法を変えましょう。あなたがわたしに恋愛対象として愛されたいなら、綺麗な花をちょうだい。ドレスや宝石はもうたくさんもらったから大丈夫。あなたのことだから、わたしに使うお金は国庫を圧迫するものではないでしょうけど……」
王族の浪費は経済の健全な循環に繋がる。寵姫の存在は公にしてはいないとはいえ、そのための予算を捻出することはたやすかった。これまでリーヴァに与えてきた物は、すべて私の趣味で揃えた品だ。カイには人形遊びだなどと揶揄されているが、愛する者を自分好みに飾り立てたいと思うのは当然だろう。
リーヴァ自身が私の色に染まってくれればなおいいのだが、この風変わりで独特な女だからこそ惹かれたのだから仕方ない。それは先の楽しみに取っておこう。
「野花でも、庭園の花でも、花売りの女の子から買った花でもいい。毎日何かしらの花を持ってきて、愛してるとわたしに言うのよ。だけど、痛めつける目的でわたしに触るのはだめ。斬るのも打つのも、縛るのも。あなたにとっては足りないかもしれないけれど、わたしにはそれだけで伝わるんだから」
「……折るのも、刺すのもか?」
「だめに決まっているでしょう。わたしにできないからって、その分を他の人にぶつけるのも禁止だからね」
「それが人の愛し方だというのなら、やはり私の性には、」
「押しつけるだけが愛じゃないわ。わたしはこれまでたくさんあなたなりのやり方で愛されてきた。だから今度は、わたしがどんな風に愛されたいかを知ってほしいの。尊重するためにも、まずはお互い歩み寄らないと」
「……ふむ。つまり私の嗜好ではない愛情表現を強引に実践させることで私を馴らしていき、逆に私を自分好みの男に育て上げようということか」
「あのねぇ……。言い方というものがあると思うのよ、わたしは」
リーヴァの使命は、私を更生させることだ。その使命を達成するために、あろうことかこの私に民の真似事をさせ、私のことを精神から蝕んでいきたいのだろう。
しかし生憎、私は自分が間違っているとは露ほども思っていないしありようを変える気もない。リーヴァが求める真人間とやらのふりをして、使命を果たしたつもりにさせるのもまた一興だ。
「乗ってやろう。退屈しのぎにはちょうどいい」
しばらくは痛みにもだえるリーヴァの顔を見られなくなるのが残念だが、禁じられたのは肉体的な苦痛を与えることだけだ。面倒になったら、精神的な苦痛を与えればいい。
「言っておくけど、わたしがやめてと言ったことはなんであろうとすぐにやめなければだめよ?」
「受諾の後に条件を増やすのは、いささか卑怯ではないか?」
「知らないわ。それともなぁに? わたしが少し注文をつけただけで、王たるあなたは発言を覆すの?」
「……王に二言はない」
これはただの遊びに過ぎない。この女が満足するまで付き合うだけで、私がいかにこの女を愛しているか伝わるなら上等だ。
*
停戦を申し入れてきたスカジガプの使者と我が同盟国の代表者をノルンヘイムの王宮に呼んで会談を開く。使者連中は高位の聖職者達だと言うが、私には何の関係もなかった。
「まずはこの場を設けてくださったシグルズ王太子に敬意を。早速ですが、スカジガプからは、一級戦争犯罪者としてカイ・ラシックの身柄の引き渡しを要求します。それさえ、」
「交渉ができる立場だと思っているのか?」
使者団の長の馬鹿げた言葉を一蹴して立ち上がる。白旗を上げて泣きついてきたから応じてやったというのに、図々しくも注文をつけてくるとは不愉快極まりない。
昨日リーヴァの口車を許したのは、それをしでかしたのがリーヴァで、条件もまあ許容できなくはないものだったからだ。だが、カイを敵国にむざむざ差し出すぐらいならスカジガプの名を地図から消し去ったほうがいい。
「気が変わった。騎士達よ、今すぐこの老害共を斬り捨てろ。死骸は燃やしておけ。元帥、スカジガプへの出兵は最短でいつごろ叶う?」
「はっ。二日ほどで可能です。すぐに軍を動かしましょう」
「結構。一切の情けは不要だ、すべて蹂躙しろ」
私の左隣に座っていた元帥は力強く返事をする。右隣の宰相は着席したままだったが、私を見て目だけで頷いた。騎士達が動き出し、まずスカジガプ側の護衛を殺していく。使者の顔色がさっと変わっていった。
「ま、待たれよ、シグルズ王太子! 貴殿には人道というものがないのか!?」
騎士達に身柄を拘束された使者の長が何かを叫んでいるが、至極どうでもいい。何故、誰も彼もが王たる私を人の定義に沿わせようとするのだろう。リーヴァのような覚悟も、エイルとカイのような陶酔もないくせに。
王と対等でいいのは道化だけだ。私が道化とみなしたのは、あの三人しかいない。あの三人からであれば、多少の無礼にも目をつむるが……臣民や敵国の人間に、指図されるいわれはない。
「お前達はあろうことか、白髪金目の我が友を戦犯と呼んだ。何故我が友を罪人扱いする? そもそも、その罪は誰が定めたのだ? 罪を決めて裁く権利はお前達にはないというのに。これまで私達が差別の撤廃を強く訴えてきたにもかかわらず、傲慢なるスカジガプはいまだに何の反省もないらしい。己の罪すら理解しない者共にこれ以上の情けは不要、時間の無駄だ」
騒がしい口だ。首を斬られたことでようやく静かになった。続けて二、三人と切り捨てられていく。同盟国の大使側から悲鳴が上がったが、些事だろう。
生き残った使者達は顔を蒼褪めさせ、必死に弁明と前言の撤回を述べて命乞いをしている。ようやく自分達の立場を理解したか。遅すぎるぐらいだ。
「恐れながら申し上げます、王太子殿下。あの者一人が犯した罪を、国家全土に背負わせるのは酷でしょう。しかしスカジガプにはまだ悪習が蔓延っているようですし、しかと監督するのも我が国のつとめかと」
「……仕方ない。よい、許そう。だが、次はないぞ」
宰相のとりなしを受けて席へと戻った。カイを売れと言われたときの私の怒りは本物だったが、後は大げさな見世物に過ぎない。これで寝惚け頭の聖職者共にも、どちらが上なのかはっきり伝わっただろう。調度品が血で汚れたのは残念だが。
「いいか、二度は言わせるな。私がお前達を呼んだのは交渉のためではない。決定事項を通達するためだ。お前達の意思は聞いていないし、拒むのならば我が国は完膚なきまでにお前達を叩き潰すだろう」
宰相に命じると、宰相は書簡を広げて朗々と読み上げる。領土の割譲、賠償金の請求、それから、エイルが欲していた聖遺物の譲渡。何故武術の心得のないエイルが剣などにこだわるかは知らなかったが、可愛い妹の願いだ。無論叶えてやるとも。
「そ、そんな……それを飲めばスカジガプは、もはや国家としては……」
ノルンヘイムはもちろん、最後までノルンヘイムを裏切らずにずっと尽くしていた友好国にも相応の見返りがあるべきだ。それはスカジガプの国庫から支払うべきで、結果負債にまみれたスカジガプがどうなろうと私の知ったことではない。
それに、賠償金の合計額はスカジガプが出せる限界の金額だし、領土を求める限り割譲したところで最低限の土地は残る。わざわざそのように調整してやったのだ、払えないとは言わせない。
「何を言う。聖鐘教の正当性が消えた時点で、スカジガプは国家としては破綻しただろう? 残念だったな、導きの三神はお前達を救わなかった。それでも信仰に縋るなら、世俗と離れてつつましく暮らしていけばいい。宗教家の集まりの分際で国家を気取るからこうなるのだ、身の程を知れ」
聖鐘教もスカジガプ教皇国も、二度と歴史の表舞台には上がらせない。この条約を持ってして、両者への死亡通知とイズンガルズに対する最後通牒としよう。
「どうした? 望み通り停戦してやるのだ、喜ぶがいい。国が機能しなくなれば、争いは止めざるを得ないからな」
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